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いつもこころに「ぼちぼちイズム」を

お守りのようなことばがある。

一生懸命やったけど、報われなかったとき。めまぐるしい日常に、ペースを乱されそうになったとき。押し寄せる無責任な叱咤激励に、自分の心の声が聴こえなくなったとき。

口ずさむとふっと力が抜けて、視界が明るくなる、魔法のことば。


『ぼちぼち いこか』(作・マイク=セイラー、絵・ロバート=グロスマン、訳・今江祥智、偕成社)と出会ったのは幼稚園の読み聞かせの時間。先生が選んでくれた絵本のひとつだった。

たいがいはおはなしに集中しているうちにしずかになるのだけど、この本のときはちょっとちがう。わたしもみんなもお腹を抱えて、笑い転げる。ページが変わるたびにどっと声が上がり、小さな教室は割れんばかり。

主人公はカバ。顔のかたちは灰色のおなすみたいにぼてっとして、おなかはまんまる。おおきな鼻と口に、ぎょろりとしたおめめ。ビックリマークの上みたいな耳が2本立っている。

「しょうぼうし」に「ふなのり」、「ピアニスト」、「とびこみのせんしゅ」……と次から次へと憧れの仕事にチャレンジ。はしごはカバ君(ちゃん?)の重みに耐えきれず上から下までもれなくボキボキ、船はきれいにまっぷたつ。ありあまる力はピアノを破壊、とびこんだ勢いでプールの水はすっからかん。

きっとこんなに備品を壊したら、描かれていないところでさんざん怒られているに違いない。だが、ページをめくればなにごともなかったかのようにあっけらかんと、新たな仕事に挑んでいる。


だいたいは見開きごとにフリとオチのセットになっている。左のページで100点満点の衣装に身を包んだやる気満々のカバ君が登場し、右のページで予想を超える大胆な失敗を披露。お決まりのパターンが楽しくて、次はどんなことが起こるの!?とわくわく。

イラストには「なれへんかったわ」「どうも こうも あらへん」とツッコミのことばだけが添えられていて、そのテンポがまた気持ちい。関西弁に訳されたセリフには悲壮感がなく、自分でもびっくりしているような、どこか間の抜けたカバ君の表情が愛らしくて、つい笑ってしまう。


『ぼちぼち いこか』は教室中の大ブームになった。読み聞かせの時間はいつも誰かがリクエストしたし、図書室の1冊は常に貸し出し中だった。くりかえしくりかえし読んで、ストーリーをすっかり覚えてしまっても、開けばいつも1回目の気持ちに戻れた。



あれからわたしも大人になった。小学校の卒業文集にはパティシエになりたいと書いた。中学校では漫画家に憧れて、高校で出会った声優を目指す友人と「私の漫画がアニメ化したら主人公を演じてね」と熱い約束を交わした。大学では文学に没頭。研究者の道を志し、卒業後はお菓子屋さんに就職して、次は出版社で記者になった。カバ君に負けないくらいたくさんの「なれるやろか」を抱いて、わたしはそれらの全てになれなかった。

お金が足りなかったり、才能が及ばなかったり、タイミングに恵まれなかったり、ときには目指していたものがそんなに好きじゃないことに気づいたりもした。今は本屋さんをやっているけれど、生活を成り立たせるのは難しく、次の仕事を探している最中だ。

いつまでも自分に合った居場所を見つけられないカバ君を、あの頃のように無邪気に笑うことはできない。一歩踏み出すたびに可能性がつぶれていくむなしさや焦りが、胸によぎってしまう。


絵本の中で、カバ君は最後にマジシャンに挑戦する。手品を見せようと、ハットに手を突っ込んだら、そのまま抜けなくなって、

どないしたら ええのんやろ。

『ぼちぼち いこか』より

と途方に暮れる。

子どもの頃に好きだった物語の多くは、がんばって壁を乗り越えればいいことが待っていた。どんなキャラクターでも個性を生かせる方法が見つかって、どんな経験も成長をもらしてくれた。それなのに、こんな仕打ちってないよ。

だけど、そういうときこそ、魔法のことばの出番なのだ。


ハンモックに乗り込みながら、カバ君はつぶやく。

ま、ぼちぼち いこかーー
と いうことや。

『ぼちぼち いこか』より


「え、ハットはどうするの!?」なんてこちらのおせっかいはお構いなし。

周りがなんと言おうと、行き詰まったらひとやすみ。
焦らず、自分のペースで、ゆっくりと。

はじめて読んでもらったあの日から、何度となく大切に唱えてきたけれど、どうしようもなくツイてない状況も、延々と切れ目のない不安も、たったひとことで好きに仕切り直してしまうカバ君の「ぼちぼちイズム」が、大人になった今、なんだかとても尊く思える。

なにかになろうとして、自分を見失っとったら、あかんわな。
頑張りすぎんと、ぼちぼちいこう、ぼちぼちで。



◉『ぼちぼち いこか』(作・マイク=セイラー、絵・ロバート=グロスマン、訳・今江祥智、偕成社)


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