ときにはプロットを破り捨てて

“〆切に追われる“

あの押しつぶされそうになる感覚をはじめて味わったのは高校生のときである。


西日に暖められた教室で、私たちは煌々と光るノートパソコンを前にもう30分ほど黙っていた。ぱちぱちとキーを打つ音、止まる、ぱちぱち、止まる、ぱち、ぱち……。教卓をデスクにしてSちゃんは首を捻りbackspeceを長押しする。私とMは膝を抱きしめて、教壇から静かに時計を見上げた。今日中に書き上げなければ。込みあげてくる焦りをじっくりと押し戻す。



「1文字も書けてない」
「は?」


あっけらかんと開き直る部員に唖然とした。

文芸部が年に1度発刊する小説の入稿期限が迫っていた。全員で話し合って決めたプロットやキャラクター設定をもとに、3年生が1章ずつリレー形式で執筆していく。


その最終章がなかなか上がってこなかった。

印刷会社で製本してもらうため遅れるわけにはいかないが、ギリギリまで催促せずに待ったのは、自分もひいひいと泣きながら担当分を仕上げたからだ。が、まさか1文字も、とは。絶体絶命のピンチである。


なにもかも投げ出して、うずくまってしまいたいのをどうにかこらえる。部長として嘆くより先に間に合う方法を考えねば。


書けていないのは最終章だけではない。そのひとつ前の章も担当者が音を上げたので、半分空白のままUSBを次に回した。つまり全7章のうち1章半が白紙。割合を計算すると怯みそうになるが、小説を配布する7月の文化祭は文芸部唯一の表舞台でもある。迷っている暇などなかった。


「わかった、こっちで集まれる人みんなで書くわ」


できる限り落ち着きを払ってUSBを受け取った。頼りなげなこの冷たい塊があと数日で本当に本に変わるのだろうか。ぎゅっと握りしめる。ちっぽけなくせにちゃんと重みを感じる。みんなが思いを織り込んでつないできたタスキだ。ボタンひとつで葬り去れるデータにしておくわけにはいかない。


威勢よく啖呵を切ったはいいが、蓋を開けてみれば集まったのはSちゃんとMの2人だけだった。文芸部の普段の活動は月1回。イラストやポエム、小説を持ち寄り印刷、ホチキス留めして眺めるだけのゆるさが売りなだけに部員の大半が兼部していた。最後の夏を有終の美で飾らんとメインの部活に邁進するメンバーの中で時間を割けるのは文芸部一本の彼女たちだけだった。


おそるおそる最終章のワードファイルを開いてみると雪原のように真っ白だった。足跡すらなかった。分かってはいたが、その圧倒的な白に目が眩む。とはいえ打ちひしがれて完成してくれるわけでもない。気を取り直して第1章から読み返していく。


舞台は2040年の日本。女の子のアクションシーンから始まる。彼女は政府の護衛を担う特別部隊の一員で、任務とあれば相手が瀕死の状態であろうとためらいなく蹴りを入れ銃を向ける。

その最大の敵が広瀬という男。理想の国家を作り上げるべく、巨大組織を牛耳り政府に攻撃を仕掛けてくる。広瀬は新たに開発されたタイムマシーンを使い、過去に矛盾を生じさせることで世の中を変えようとしていた。それを阻止するため、主人公は仲間と一緒に白亜紀から現代まで時空を渡る、ダークでシリアスなSF小説だ。


トップバッターはSちゃん。最初におおもとのあらすじを持ってきたのは彼女である。心理描写を削いだハードボイルドな文章で一気に流れを作る。


だが、続くメンバーはどうも盛り上がりに欠ける。毎章しつこいほどに仲間のひとりが教科書レベルの偉人に興奮して歴史を変えかけるお約束のくだりがあり、ようやく広瀬一味が顔を出して戦闘モードに入ったかと思いきや、タイムスリップの制限時間、からの強制的に時空移動。これといった見どころも進展もないままページ数だけを食っている。


「思ったよりひどいな」
「クライマックスを書く前に、全体的な修正が必要かも」
「毎日集まるしか……」


3人で顔を見合わせ、ぐっと深く頷いた。私たちにとってはこのリレー小説こそが最後の青春だ。生半可なものはつくりたくない。こうして文芸部史上最も過酷な1週間に挑むこととなったのである。



修正作業は順調に進んだ。


「ここではまだ事実を知らないはず」とSちゃんが破綻を修正。歴女のMは「風景描写を入れて明治時代の雰囲気をだそう」と張り切って時代考証。「このセリフ、主語がないから誰が話してるかわからない」と私が文法チェック。本筋から外れたシーンや、作風を損なう表現も削除。余った字数で出番の少ないキャラにセリフを与える。ひとつひとつ問題をつぶしていくにつれ、バラバラだった文章の継ぎ目がなめらかになっていく。少しずつ自分たちのものになっていくのが楽しくて、家に帰ってもずっと小説のことを考えていた。


それまで美術一筋だった私ははじめてまっこうから書くことに向き合おうとしていた。3年間、美術部をメインにを活動してきたし、月1回の文芸部の集まりにもイラストしか持ってこなかった。

だが遠くにあると思っていた将来はほんの間近に迫っていた。これからどうやって食べていこう。具体的に想像したとき、絵を仕事にするという選択肢を無意識に外していることに気づいた。自分の才能が通用しないことはとっくに分かっていた。けれど、ちょっとでも気を許せばまた絵の魅力に吸い込まれてしまいそうで、奥歯を噛みしめながら美術室の前を通り過ぎていた。


やりたいことというコンパスを失った私の前に将来は黒々と口を開けて待っている。これからたったの4年で社会に挑むだけの武器を身につけねばらない。


〝書く〟ことは果たして人生という名の旅のよりどころになってくれるのだろうか。



クライマックスの執筆にとりかかった途端、快調だった編集作業に陰りが差した。校正は複数同時にできるが、まだそこにない言葉を紡げるのはたったひとりだ。自然とSちゃんがノートパソコンの前に座っていた。


「みんな受験勉強もあるし、わたし、家で書いてくるよ」


淡々と提案するSちゃん。気遣いの言葉の裏には、プロット案を出し、第1章で伏線を張った彼女なりに望む結末にしたいという思いがあったに違いない。


「もし……」


私は口にしてから少しためらって、自分を納得させるようにごくりと唾を飲みこんだ。


「もし本当に間に合わないってなったらお願いするかもしれない。それまでは学校で書こう」


ひとりに押しつけてしまう申し訳なさももちろんあった。ただそれ以上に自分も携わったんだ、という自信が欲しかった。最後の文化祭、部員全員が「私たちの小説です」と胸を張るために、この教室で生み落とすことに大きな意味があるような気がした。


2人は思いのほかすんなりと受け入れてくれた。主にSちゃんが書いて、行き詰まったら3人で続きを考える。会話を挟む、思い切ってカット、ラストから埋める……思いつく限りの方法を試し、書いて消して、1行でも前へ。そしてついに広瀬との最終対決のシーン。主人公が銃を突きつけ、引き金に指をかける。


「結末が……変わるかもしれない」


出口にぽっと光が灯ったところで、Sちゃんの手が止まった。重たいため息とともにキーボードから離れ、視線をこちらに向ける。その目は確かに私を責めていた。


「私の思っていた結末にならないかもしれない」


Sちゃんが髪をかきあげる。最初に設定を持ってきたときから彼女には理想の展開があったはずだ。彼女ひとりの作品なら思い通りに書き上げられたかもしれない。ただ、私は担当した5章にひとつの仕掛けを施していた。最終章を彼女が書くこになるなど知らずに。

チッ、チッ、チッと時計の針だけが規則正しく回っていく。



広瀬は元々政府の研究員だったが、上司が裏で新兵器の開発に協力していることを知ってしまう。さらには身寄りのない子どもたちを集め、過酷な訓練を強いて戦闘要員にしようと企んでいた。それに反発した広瀬は上司もろとも研究施設を爆破。そこから国の改革へと暴走を始めるのだが、そのとき解放された孤児のひとりが主人公だった。


私の担当する5章は、その元上司が罪の意識から陰で軍縮の研究を進めていたことが発覚する。起承転結の転にあたる重要なシーンだ。ここで一気に盛り上げねばと張り切っていた。


その気持ちと裏腹に、私の手元に届いた小説には必要な厚みがほとんど感じられなかった。映像的な盛り上がりを最終章の直接対決に委ねるとして、この位置で手をつけるべきは「心理的変化」である。


主人公のポリシーは「なにがなんでも任務を遂行する」こと。ターゲットの男をボコボコにする冒頭のアクションシーンから一貫して、命令に忠実に広瀬を追い詰め、ラストはその脳天に弾丸を撃ちこむ。


だが、それで本当におもしろいのだろうか。


ここまで他人が書いたからこそ、そして肝心のラストシーンを自分では書けないからこそ、客観的に物語の是非が見えてくる。元の時代に戻れる保証もない、それでも仲間と時空を渡り因縁の敵を倒すのだ。それに見合うだけの〝成長〟が必要じゃないか。


私はほんの数行だけ、打ち合わせになかった描写を入れた。元上司が軍縮に動いていたことを知った広瀬は一瞬だけ戸惑いを見せる。敵が見せた人間らしい表情に、主人公はその男を倒すことをはじめて迷う。広瀬を止めることは逆らえない任務。だが、彼は戦争の最前線に送り込まれるはずだった彼女を救ってくれた恩人でもある。貫いてきたポリシーがわずかに揺らぐ。


小説をいいものにしたい純粋な気待ちの半面、どうせ自分ではない誰かが回収するのだからと無責任な思い切りもあった。自分の手を離れた物語はどう転ぶだろうと、ちょっぴりわくわくもしていた。「撃てない」とは言わせていない。迷いを与えただけ。ただこのワンシーンの追加が主人公に広瀬を撃つ〝理由〟を求めた。



「撃たない、っていう結末もあるんじゃないか」


彼女はためらいなく引き金を引くのか。それとも恩情を与えるのか。私たちは暗くなるまで話し合った。


「じゃあ、広瀬はどうなる」

「からがら逃げてどこかで生きている、っていう羅生門的なエンドもなしではない」


私がひとつの案を提示すると、ふたりともうーんと唸ったきり黙りこんでしまう。これまで都合に合わせてキャラクターを動かしてきた。ストーリーのための駒でしかなかった。だけど今は、彼女がどう感じどう動くのか、ひとりの人間を理解しようとするように感情の糸を手繰り寄せていた。私はたちは彼女とともに銃を構え、震える指を引き金に乗せていた。


やがてSちゃんがキーボードに手を乗せる。ぱちぱち、止まる、ぱちぱち、止まる、ぱち、ぱち。私にできることは、そのもどかしい音に耳を澄ませ待つことだけだった。


「みんなで書く」って何だろう。自分が放った言葉の重みを今さらになって実感する。この選択は本当に正しかったのだろうか。ぐるぐる回る時計の針のように答えのでない問いの中をさまよっていた。



「……書けた」

タンッとエンターキーを弾く小気味よい音がした。



ぎっしりとB6判の冊子の詰まった段ボール箱を覗き込み、全員が歓声を上げた。

つやんと光る表紙には懐中時計と英字新聞。くすんだ茶色がおしゃれで、同人誌というよりも手帳のようである。作ってくれたのは最終章を1文字も打たずに回したあの部員だ。


学園祭当日、出店にステージに浮き足立つ校内をみんなで練り歩いた。

「文芸部みんなでつくった小説でーす!」

すれ違う人すれ違う人に冊子を手渡していく。

「小説?」
「タダでいいの?」

存在すら知らなかった文芸部。
教室の隅で大人しく本を読んでいるような人たち。それが今日は自分の作品を堂々と配っている。不思議なものを目にし、ちょっと驚いてそれから受け取ってくれる。


自分ひとりの作品だったら恥ずかしくて配るなんてできなかったかもしれない。だけどこれはみんながおもしろいと信じてつくったものだから。

例年、部員が大量に持ち帰るほど余ってしまう冊子はあっという間になくなった。



主人公は敵を撃った。

最初に決めたプロット通りの結末だ。

だが、その直後ひとつの回想シーンが追加されていた。


政府の研究所に配属されたばかりの広瀬と戦闘要員として育成されていた幼い主人公の出会いのシーンだ。野望を抱く前の広瀬はやさしく、傷ついた主人公の頭を撫でてやる。親に捨てられ、過酷な訓練を強いられていた彼女がはじめて抱いたあたたかい気持ち。


人間らしい表情を見せた広瀬の中には、あの頃のやさしさが眠っているのかもしれない。だがもう自分では己の暴走を止めることができない。解放してくれた救世主、だからこそ主人公は撃つ。今度はこの男を解放するために。


みんなが選んだ一言一言が導いたエンドだ。誰かがひとりで書いていたら、全くの別物になっていたかもしれない。つないだタスキは私たちだけのゴールテープを切った。



あれから10年経って、文章を書くことがライフワークになっている。〆切のあの切羽詰まった感覚にもだいぶん耐性がついてきた。というよりむしろ、常になんらかの〆切に追われている。


期限の包囲網をうまく交わすために、結末までの道筋はプロットの段階で出来る限り詰めておく。読み終わったあと、このラストのためにすべてがあったのかと感動できるよう計算し、自分の敷いたレールから外れないよう慎重に言葉を選ぶ。たったひとりの孤独な闘いを乗り越え、狙った作品に仕上がったときはガッツポーズしたくなるほどの快感だ。


でも時々、どうせ続きを書くのは誰かなんだからと自由に書いていたあの頃を羨ましく思うときもある。


自分の何気ないたった1行が結末をも変えてしまうおもしろさ。書いている本人すらどうなるかわからないわくわく。


あのとき「みんなで書いた」からこそ味わったつくる楽しさ。


それが今につながって、今日もひいひいと泣きながら書いているんだと思う。


ときにはプロットなんて破り捨てて、直感で選んだ1文字から無計画に始めてみるのもいいかもしれない。書きたいものを書いたいように書いて、あとはタスキをつなぐのみ。とんでもない結末になるかもしれないし、めちゃくちゃな破綻が起きるかもしれない。


でもまあ、

明日の自分がなんとかしてくれるさってね。


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