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「おつかれさま」に代わることばを

社会に出た当初、仕事終わりの「おつかれさまです」がくすぐったかった。学生のうちは馴染みのないことば。中身は数か月前となにも変わっていないのに、口にするだけで一丁前に大人として機能している気分になる。放ったばかりの声は耳の中でなんども鳴って、熱を帯びた。


とはいえ、あいさつひとつで酔いしれられる期間はいつまでも続かない。はじめこそ輝いていたことばは、日を経るごとに新鮮さを欠いていった。

帰り際はもちろん、事務所に入るとき、用事があって声を掛けるとき、内線電話を取ったとき、昼休みが一緒になったとき、会議の第一声、締めの合図、乾杯の音頭まで、とにかく人と人がすれ違うときはおつかれさまです、おつかれさまです、おつかれさまです。

さすがに朝いちばんは「おはようございます」でも、再び顔を合わせればたとえ1分後でも「おつかれさまです」。これから一日頑張ろうというのに、私は、相手は、なにに疲れたのか。疲れてもないのに疲れたでしょうと決めつけては逆に失礼なのではないか。ぐるぐる考えているうちに本当に疲れてくるのだけど、0.01秒でも躊躇えば「暗い」「人見知り」「やる気がない」「コミュ障」と負の烙印を押されてしまう。あとから「無視した」「あいさつしなかった」と糾弾されるくらいなら、疲れていようがいなかろうが、とりあえず「おつかれさまです」に決め打って、前後左右どこからでも対応できるよう体に染み込ませるに越したことはない。混み合う定時上がりの下駄箱はもはやシューティングゲーム。ひとりでも見逃せば自分が怒(や)られるとばかりに神経を張り巡らせた。

マシンガンのような連射を要求されるシーンもあれば、大砲のように1発で命中させねばらならない場面もある。先輩が部屋に入ってきたら、どんなに繊細な業務の途中だろうと最速かつ最大の声量で返さなければいけない。部屋中の従業員が競い合うように一斉放射するあの緊張感。互いに気持ちよくいられるためのあいさつなのに、耳にするたびに試されているようで息が詰まった。


なにか代わることばはないものか。と時折探してみるのだが、まあ、ない。短くて一息だし、時間帯を選ばないから超便利。その上、大人の自尊心までくすぐってくれるのだ。もはやないと仕事にならないし、落ち着かない。たったひとこと、ほんのわずかな違和感。見過ごしたところで社会は支障なく回る。私はなぜこんなに固執しているのか。



「いちについて、よーい」

ピストルの発砲音が晴天に響く。高校2年生の体育祭。白いグラウンドをうしろに蹴り上げ、どよめきの残る空をさく。100メートル走『最速王決定戦』に参加してた。その名の通り、クラスから足の速い人が1人出場する競技だが、運動神経の良いクラスメイトは誰も首を縦に振らず、揉めに揉め、最終的にはくじ引きで9秒後半という最速から程遠い私に決まったのだ。

スタートダッシュからあっという間に差をつけられ、背中はぐんぐん小さくなる。懸命に手を振り足を出すが、景色は相変わらず緩やかに流れ、ひとりだけスローモーションの世界に飛ばされてしまったかのよう。こんなに足が遅かったのかといまさらながらにショックを受ける。ダントツのべべ。当然、生徒たちの視線も集まる。なんでこんなに遅い人が出ているんだ、おいおい勝つ気あんのかよ、頑張れ。むき出しの好奇心と𠮟責と声援がめり込んで痛かった。

永遠にも感じられる10秒をなんとか駆け抜け、スポットライトが外れた瞬間、涙がぶわっと溢れてきた。人生で一番恥ずかしい10秒だった。勝てるなんて微塵も思っていなかったけれど、負けた申し訳なさはのしかかってくる。「ありがとう」「頑張ったね」クラスメイトや友人からフォローが飛んでくるが、どのことばもみじめさを際立たせるだけだった。気持ちを落ち着かせようと足を引きずりながら、トラックの外へ移動する。

ふいに抱きしめられた。

「都村さん、おつかれ」

美術部の先輩だった。やわらかくこ込められた力に守られながら、なんて気持ちのいいことばなんだろうと思う。負けたとか、でも頑張ったとか、もう背負わなくてもいいのだ。結果も評価も根こそぎ吹き飛ばし、ただここまでたどり着いたことをねぎらってくれることばの威力にふっと肩が軽くなった。おつかれ、おつかれと他の先輩や同期の声に囲まれて、ひと粒ひと粒、清涼飲料水のように浸透していくのを感じていた。


私にとって「おつかれさま」は、とっておきなのだ。大きな決断をしたとき、なにかひとつ区切りかついたときに、掛けられると嬉しい。結果はどうあれ、努力を認めてくれる人がこの世にひとりはいるのだと、心強くなる。音数以上のパワーを持つことばだから、その魔法を削がないよう大切に、大切に使いたいと思ってしまう。


「こんにちはー」

昨年の10月から会社を変え、書店員として働き始めた。レジに立っていると、スーツ姿の男性が段ボール箱を抱えて入ってくる。常連さんだっけ。記憶を探っているうちに、男性はずんずん店の奥へ。他の店員さんが名前を呼び、営業さんだと思い出す。あわてて「おつかれさまです!」と返す。勢いよく飛び出たあいさつは、なごやかに流れる店内の時間に馴染むことなくいつまでもぷかぷかと浮いていた。

新しい職場では社内の人でも「こんにちはー」と入ってくる。他の店員さんもあたりまえのように「こんにちは」と返す。お昼休憩をもらうときは「お先です」か「お昼休憩いただきます」で、終わったら「戻りました」。帰り際は「おつかれさまです」で切り上げる場合もあるが、時間に余裕があれば「ありがとうございました」「明日もよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げる。

社会生活の必需品のように見えた「おつかれさま」は、なければないなりに成り立っている。その穴を埋めるのに特別な言葉は必要ない。心にぽっと灯る思いを素直に口すれば、それで。

疲れてないのに、ねぎらっていないのに、あいさつだからと口にする。たとえ無意識でも、自分に嘘を吐けば虚無感や後ろめたさは着実に積もっていくから。あいさつだろうと慣用句だろうと、気持ちに合ったことばを選んでいたい。「おつかれさま」も、本当に届けたいと感じたそのときに使うのだ。その輝きや包容力に見合うだけの思いを込めて、寄り添いたい誰かのために。


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