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11月11日 意志疎通についての話

皆様こんばんは、津麦ツグムです。
すっかり寒くなりました。
今日はポッキー&プリッツの日です。
いつもこの時期だけは普段、非常にクールで代わり映えのしない大学生協が狂ったようにポッキーとプリッツを売ろうとポップやら看板やらを出して浮かれた空気を作っていたのを思い出します。
それを見ながらなんとなくポッキーを買っていたのが私です。

ちゃんと企業努力と祭りには踊らされてるタイプです。

生協の前、無理してる感のあるポップと看板を見ながら「うわあ」と呟く私の隣で、「踊る阿呆に見る阿呆」とゴスロリちっくなお嬢様系の友達が横でぼそっと呟きました。
その子はヒールをかつかつ鳴らしながら、足早にポッキーとプリッツを買って謎のポッキーの形をしたバルーンをレジで受け取りまんざらでもない顔をしながら帰ってきました。
いまだに忘れられません。
謎のどや顔。
いや、私は要らないよ・・・
一欠片も羨ましくないよ・・・

同じ阿呆なら!踊らな損々、を目の前で見せてくれました。
もう7年近く会っていませんし、なんなら大学を卒業以来一度として会うことはおろか、連絡さえも取っていませんがあの子はきっと元気にやっているだろうなあ、と思います。

さて、今日は「意思疏通の話」です。

意思疎通の話

「意思疏通」「コミュニケーション」
就活中に死ぬほど聞いて食傷気味だ。
リクルート系のサイトに意気揚々と載ってるやつ。
まあ、そういう仕事系の側面として重要視されることが多いのはわかっている。

ただ私は「意思疎通」と聞くとそれよりももっと強烈に、思い出すことがある。

「あなたの見ている赤は、隣の人の見ている赤と本当に同じですか」
「あなたの思い浮かべる夕陽の色を正しく誰かに伝えられますか」

大学の一般教養哲学の授業でこんな問いかけを教授がした。

胸を突かれる、というのはこういう心地なのか、と私は思った。
わからない。
そもそも、林檎の赤だとか、夕陽の赤だとか、信号機の赤だとか。
いろんな赤を提示したとして。
それを見ている人が自分と同じ赤を見ている保証なんてない。
となれば、夕陽の赤はなんて説明できるんだろう。
同じ目と、同じ視神経と、同じ脳を使っているという確証がなければ引用なんて役にたたない。
確証があれば「ほら、林檎の赤のさ、ちょっと熟れたやつに少しだけ墨を薄く、薄く混ぜたような、それでミカンの皮の橙を少しだけ混ぜて、毒々しくしたような。
遠赤外線のランプあるじゃん、あれに少しだけ黄色を、白熱灯っぽい黄色を混ぜたような」と。
そんな風に説明できるかも知れない。

でも。

そもそも同じものを見ている保証なんてどこにもない。
その人には、私にとってのオレンジが緑に見えて。
私には、その人にとっての緑がオレンジに見えて。
でもその人は私がオレンジだといっている色にたまたま「オレンジ」と名前をつけてるだけだったら?
私が緑ととりあえず認識している色を、その人もたまたま「緑」と読んでいるだけだったら?本当は私にとってそれはオレンジなのに。

確かめる術はどこにもない。
表面上は「同じ認識」だからだ。
そして、それを一致させる術もない。
なんなら、それが不一致かどうか疑いを抱くこともできない。
内面なんて、誰にもわからない。

そう思った時、足元がぐらりと揺れるような心地がした。
そして同時にひどく安心した。
本当の意味で「わかりあっている」なんてことは幻想でしかない。
「意思を伝えられる」なんてことは夢物語だ。
「わかりあっている」風で、その状態でひとまず問題が起こらないからそのままでいるだけなのだ。
むしろその「わかりあっている」という幻想をどこまで長く続けられるか。

ごっこ遊びの延長線。

そんなもんか。

それ以上のことも、とりあえずのところ人間にはどうしようもできないよな。

もしかしたらいつか、科学技術が発展して相手のシナプスの電気信号をそっくりそのまま自分の脳にコピペできたりするのかもしれないけれど。
それだって、脳の作りや発達部位やらで完全に完璧に、相手の情動や受け取り方を自分の脳にトレースすることはできないかも知れないけれど。

その、大学の授業を受けてから私はたぶん他人以上に「前提条件」「定義」というものに厳しくなったと思う。
それは今もだ。
もう、同じ色を見ているだなんて無邪気な幻想は抱けないから。
自分の見てる、見せたい色を正確に伝えられるなんて思い上がれないから。
同じものを見ているかどうかはわからない代わりに、せめて土台や見方だけでもできるだけ揃えて、そこから議論やら話し合いをするべきだと、半ば脅迫的に思っている。

足元や土台がわからない人と議論するのは嫌いだ。
前提条件が違ったりして、話が全く進まなかったり、てんで検討外れなことを言われたり、もちろんこちらも言ってしまったりする。
そういう時に真っ先に来るのは徒労感だったりする。
なんだこの時間、無駄じゃん、みたいな。
伝えようとすればするほど、暖簾に腕押し糠に釘。
だって見てるものがそもそも違うっぽい。
言ってくれないし、聞いても答えてくれないから確かめようがないけど。

さて、意思疎通の話。
ちょっと脱線?のようなものがかなりあったので無理矢理結論に戻すと。
「準備運動をサボるやつとはまず無理です」となる。
少なくとも私は。
目玉と脳味噌の在処に対する認識が違って、そしてそれに気づいてて無視してるのか、そもそもそんなこと考えたことないのか。
とにかく下拵えって大事。

共通認識、目的、最終目標、それに必要な行動のプラン。
そこらへんが曖昧なまま話が進むのは、単純に気持ち悪い。
気持ち悪い、というのは気分の問題というよりは「車酔い」に近い気持ち悪さ。

ということで、「意思疎通」っていうのは私にとっては幻想でしかないと思う。
幸せな共同幻想。
ただ、それをできる限り現実に揃えようと足掻いて、話し合う姿は美しい。
それに気づかず、暴走列車みたいに人を振り落としていく姿はひどく醜い。
しかし、結局のところは幻想だ。どのみち。

実行するに関して不具合が起こらなければ、それは後々の感想として「意思疎通ができていた」ということになるし、不具合が出てしまった場合は「意思疎通が不十分だった」ということにしかならない。
ただそれだけ。

結局厳密な意味での「意思疎通」は、ペガサスやら竜やら、お姫様をキスで目覚めさせる王子様とさして変わらない。
その間、問題さえ起きなければとりあえずのところ「ハッピーエンド」という感じ。

人間なんてせいぜいキャベツ1個くらいの大きさの脳みそ一個しか所有できないので。
「意思疎通」なんて、問題が起きなくてみんな「それっぽい」とさえ思える共同幻想としてとりあえず最後まで成り立たせることができれば上々。

そんなことを思うのです。

ねえ、あなたの隣にいる人とあなたは本当に同じ色の夕陽を見ていますか。

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