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寂しさの受容体

私は実は、大っぴらに人に言うつもりは無いのだが「寂しさ」というのがうまく認識できない。

おそらく、周りから見て「寂しそう」と思われる表情や仕草、行動、状態をしているのだろうが、私自身は別の感覚として置き換えてしまっていてそれを「寂しい」という感覚と認識していないのだろうと思う。

例えば周りは2人1組になっていて自分だけあぶれてしまった時に感じるのは、「居心地が悪い」。
例えば遊ぶ相手がいなくて時間を持て余している時は「退屈」。
例えば遊んだ帰り、1人の部屋に戻った時の感覚は「味気ない」。
先に1人で帰れ、と言われた時の感覚は「迷子にならないかの不安」。

ぱっと思いつく限りおそらく「寂しい」という言葉が浮かびそうなシチュエーションを出して、その時の感覚を言葉にしてみた。

寂しい、と言うのはどんな感覚なのだろう。
いわゆる「恋愛体質」かつモテるタイプの女の子が「寂しいから恋人を切らしたくない」と言っていた。
その感覚は恋愛へのモチベーションにもなるのか、と私は他人事に聞いていた。友達じゃダメなんか?と聞きかけてやめた。たぶんダメだから恋人を作るのだろうな、と勝手に思ったからだ。

「寂しい」は、きっと前述した私が様々な場面で感じる居心地の悪さや退屈や味気ないという感覚をまるっと纏めて表す言葉なのだろうな、と思っている。
しかし、なぜ私はそれを「寂しい」と言えないのか。
おそらく私自身のプライドの高さがそれを拒否しているんだろう。
今となっては結婚してしまっているので全くもって説得力がないが私は自分自身である程度精神的に完結している自分を愛しているんだと思う。
そういう自分に自負を持っている。
他者に精神的に寄りかからない自分。
自分で自分の面倒と機嫌を見ることができる自分。
そういう自分が好きで、どこかでそういったことを他人に外注している人々を見下しているのだろう。

実際のところいまだにそういう人々を見下してる節はある。
そこにある程度以上の感情、無関心でいられない自分というのはおそらくどこかで感情や機嫌やらの面倒を外注したかったのだろうとも思う。
要するに、酸っぱい葡萄だ。

四半世紀以上生きてきて、ようやくわかったことのひとつに「人は抑圧されてることを他人がしていると必要以上に敵意や悪感情を感じる」というのがある。

ダイエットしてる人は、目の前でビッグマックを食べてポテトのLサイズをモリモリ食べながらコーラのLサイズを飲む人がいたら多少なりとも目で追ってしまうだろう。
そして「あなた、もう少し健康に気を遣ったらさぁ…」なんてことを言ったり、言わないにしろ自らの健康的な食生活を振り返って少しばかり相手の体型と自分の体型を見比べたりはするだろう。
いや、あくまで私の想像なのだが。
そんなことしない、と言われたならそれまでだけれど同じメニューを日常的にモリモリ食べてる人に比べれば「物申したくなる」と言う人はきっとダイエット中の人の方が多いと思うのだ。

私の「寂しい」の話に戻そう。

私はきっとずっと「寂しい」があったんだと思う。
それはもう小さい頃から。
だけど、それを周りに言いたくなかったのだろう。だから平気な顔をしてやり過ごすために「寂しい」という感情の受容体だけをなかったことにしているんだろう。

そうやって考えると色々と合点がいく。
私が「寂しい」という感覚だけが鈍いことや。
ひとりきりで楽しめる趣味というものに傾倒してきたことや。
そういうことに。

幸い、私はそこに関しては困ることはなかった。
私は文字情報から様々な想像をするのが苦手ではなく。
私はひとりきりで何かを楽しむことに関して抵抗がなかった。

そうやって、考えることで自分を守ってきたのかもしれないけれど、それでもそれで困っていなかったのでそれはそれで幸運だったのだろう。

ということで、いったんの今時点の自分でわかるだけの結論としては「寂しい」は受容体としていまだに持ち合わせていないけれどそれで特に困っていないこと。
幸いなことに、私はどちらかといえば「寂しい」と近しいところにいたけれどそれから目をは背ける術を持てたこと。

せいぜいこの辺りだろうか。

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