見出し画像

花煙草

男がひとり、歩いていた。
夜に沈んだ静かな住宅街だ。
橙色の月が浮かぶ空とは反対の方向に向かって歩いている。
白いような青いような、どうにも目が痛くなる光が夜の色を薄めている方だ。
細長い男だった。
しゃんと伸びた背中と、骨ばった骨格。
寸足らずのズボンの裾から覗く細い足首には張りがあり、どうやら若いらしいと分かる。
「兄さん、こんな時間に夜遊びかい」
橙の月を背負った男がふと一定だった歩みを乱す。
どうやら驚かせてしまったか、とも思ったがそれは杞憂だったようで男はまた一定の間隔で歩きだした。しかし、先ほどよりは幾分か遅い。
どうやら気を遣っているらしい。
まあ、それは無理もない話かもしれない。
私の毛皮はひどく暗く、夜の闇なんかには綺麗に溶け込んでしまえる。
目を閉じてジッとしていたらきっと大抵のものたちは私の存在に気づきもしないだろう。
「おや、喋る黒猫か」
「ああ、猫と喋るのは初めてかい」
男はするりと骨ばった指で顎のあたりを擦りながら顔を幾分か上に向けて、視線を彷徨わせた。
「どうだろうか。
 猫の形をしているのと喋るのは初めてなんだが、昔飲み屋で飲んだ女は、どうやら猫じゃなかろうかと思ったことはある。
あれが猫だったのなら、あんたで2回目になるな」
「そうかい。ところで、今から夜遊びにでもいくのかい」
先にした質問を私は繰り返す。
「ただの買い物と散歩さ。どこかで飲みたいという気分でもないしな」
「ほう。こんな時間にか。そこのコンビニか?」
丁度道路を挟んだ向こう側に煌々と光るガラス張りの四角い店が見えた。
あそこなら大抵のものが揃うし、こんな時間でもやっている。
暇で暇で仕方ない時はあのゴミ箱の陰に寝そべって深夜にやってくる客を眺めて時間を潰したりもしていた。
「いんや、今日はコンビニにはいかない」
「ほう、それならどこだ?
あっちの明るい方でもこの時間は流石にやっていなかろう」
「花煙草ってのを買いたくてな。ようやくいいのが入ったと連絡が来たんだ」
「ほう。花煙草か」
私はそこでふと首を傾げた。
今夜は夜市が開かれる夜だっただろうか。
夜市の露店を巡れば簡単に出会えるだろうが、市に行くような物好きの人間なんて限られている。それに、夜市特有の匂いも特にしない。
町中に広がるあのなんとも言えず香ばしいような、どこか甘いような匂いは鼻が効く私のようなものが見逃すはずもない。
「あれを売っている店が実はあるのさ。
 店を開くかどうかは店主の気まぐれなんだが、今日は連絡をくれた。
 何だったかな、そうだ、採れたての白木蓮と葉桜が出たんだ。あとは、梅がまだ残っていたらいいが」
「葉桜とはまた珍しい。桜はもう無いのか」
「桜は人気だし、今じゃちょっと遅いかもな。それに、あれは俺には少しばかり上品過ぎてな」
「葉桜を嗜むやつには物足りないか」
男は右の口角をわずかに上げた。
長い前髪に覆われて目の形ははっきりとしないが、通り過ぎる街灯の光を不規則に跳ね返す。きっと笑っているのだろう。

興味本位で男の横について歩く。
私の目の前で薄茶色のスニーカーが行ったり来たりを繰り返す。

あの青白く明るい場所を抜けて、しばらく歩くと徐々に薄暗く静かな住宅街になっていく。色々な形をした家や、軒先に置かれた鉢植えを横目に進んでいくとぽつりと公園が現れた。
公園の真ん中には一際大きな樹が佇んでいた。
見事な枝ぶりで長い長い時を過ごしてきたものだと分かる。
樹の枝や幹のあちらこちらに、子供の拳ほどの大きさの硝子球がふらふらと浮いていた。中には小さな火が灯っており不規則な球の上下運動に併せて不規則に揺れている。
「ああ、よかった。今夜はやってるみたいだ」
男は眩しそうな表情で灯りを纏った大樹を見ると、そのまま大樹の脇を抜けて公園を横切った。公園を囲む道路を渡る。
その先に古びた店があった。
張り出した軒の下には喫茶店にありそうな椅子とテーブルが置かれ、そのテーブルの上でもやはり大樹が纏っていた硝子球と同じものがふらふらと浮いている。
男の歩みが早まる。
ここまでの道中ではついぞ見なかった弾むような足取りだ。

色硝子が嵌め込まれた大きな扉を開くと、夜市と良く似た匂いが鼻に向かって押し寄せてきた。くしゅん、と思わずくしゃみがでる。
尻尾が膨らむ。少し決まり悪く、私は右の前足で目許を擦った。

「いらっしゃい」
猫の舌のようにざらついた女の声がする。
見上げると女がひとり、立っていた。
細身の女は、白い肌に映える真っ黒な洋服を着ていた。
同じ色の長い髪は大きく波打っていて、私は故郷で見た夜の海を思い出す。
「こんばんは。お招きありがとう」
「あんだけ言われたらねえ、まったく」
うんざりしているような口ぶりだが、実際女の唇は綺麗な弧を描いていた。
ふいに女の双眸が私を映した。
見た目はとっくに成人していそうだが、正面から見た女の眼がひどく少女めいた輝きを放っている。どうにもよくわからない。
夜市の売り物を売りさばくだけあって、やはり少しばかり私の知っている人間の範疇からはずれているのかもしれぬ。
「あら、そこの人は新しいお客様?」
「興味本位でこの男についてきた。お初にお目にかかる」
「ご丁寧にどうも。ここは、まあ、雑貨屋みたいなものでね。
 私が買い付けたり、作ったりしたものを適当に売ってるの」
「ほう、興味深いな。この男は花煙草を買いにいくと言っていたが」
「そうそう。うちの人気商品」
女は他には、と言いながら狭い店のあっちこっちをうろうろとしながら、歌うように唱えた。
「薬草、薬、お守り、石。お酒に煙草に、ちょっと珍しい動物の骨や毛皮。私に集められるものだったら注文も受け付けてる。
 あとは外にカフェスペースもあるから、簡単なおつまみも出す」
 まあ、味は夜市風って感じのものばかりになっちゃうんだけど、と女は小さく付け加えた。人間の客からはあまりつまみの評判が良くないのかもしれない。
とりあえずはご注文の品、と呟いて女はカウンターの奥の硝子戸に引っ込んだ。昔の駄菓子屋のような造りをした店らしい。
「あの人が店主のウイさん」
「なるほどな。中々変わった御仁のようだな」
「まあ、それは否定しない」

「これが、白木蓮。こっちが葉桜。
 あとは、梅は今日売り切れです。丁度入荷したのは菫、あとは定番のカモミールかな。少し苦いのがよければ蒲公英もあるけど」
色とりどりの箱がカウンターに並ぶ。
表には手書きらしい文字とそれぞれの花の絵があしらわれていた。
するり、と男が顎に手を当てる。
灯りの下でようやく見えた眠たげな瞳が放つ視線が左から右に向かってゆっくりと移動し、また、右から左に向かって移動する。
「それじゃ、白木蓮と葉桜と。おすすめは?」
「カモミールはバランスが良くて体調を崩しやすい今からの時期にぴったりだろうね。菫は解毒作用があるけど、まあ、それは日常では関係ないかな。香りがよくて、少し苦いのが特徴。ヨーロッパの方だと菫の砂糖漬けっていうお菓子とかが昔からあるし、味は間違いない。
蒲公英は若草みたいな爽やかなほろ苦さがおいしい。胃の調子を整えたり、解熱消炎、利尿作用もあるね」
個人的にはこれかな、とウイは濃い紫色の箱を差し出した。
表には4つから5つ程のこぶりな花弁を持つ花が描かれている。
「ならその3つで」
「はい、毎度」
私はそこまで見届けて、店内をうろつくことにした。
見れば見るほど不思議な店だ。
嗅いだことのない匂いが混ざりあっているが、やはりあの夜市の匂いを思わせる。天井や棚の高いところからはところ狭しと薬草やら花やらが逆さ吊りにされ、天井の色も分からない。
その隙間を縫うようにぼんやりと柔らかい光が落ちていて、全体的に薄暗い店内に外で見たあの浮遊する硝子球が所々を気まぐれに照らしている。
壁に造りつけられた大きな木製の棚もたいがい年代ものらしく、あちこちが歪んだりかけたり、何をしたのやら焦げたりしていた。
置かれているものの大半は良く分からない。
辛うじて植物は植物らしい見た目をしているものならそれと分かるが、丸まった私ほどの大きさの茶色い硝子瓶に詰められた粉末たちはもともと何だったのか予想もつかぬ。
もう少し見回したくて私はひょいと近くにあった丸机に飛び乗った。
肉球の下でくしゃりと紙らしきものが音を立てたが、破るようなヘマをする私ではない。
小さな引き出しが無数につけられたカウンター。
振り向くと色硝子が嵌め込まれたドア。
丸机の上には、水牛か何かだったらしい動物の頭蓋骨が鎮座している。
それに私が今踏んでいる紙もずいぶんと古いもののようで、あちこちが擦りきれ黄ばんでいた。

「さて、買い物も終わった。あんたは何か気になるものあったか」
ほくほくと口許を緩ませた男がポケットに煙草をしまいながら机に乗った私を見る。
「そうさな、ウイさん、何か美味い酒とつまみでもあれば」
硝子球を見ながら煙草をふかしていたウイは、人の手のひらの形をした灰皿に吸いかけの煙草を置いた。
「ありますよ。
そうねえ、またたびの漬け込み酒があるんだけどせっかくなら猫から感想を貰いたいな。おつまみ代はおまけするから」
「それはありがたい。つまみは兄さんが好きなものを。あとまたたびの酒を2人分ほど」
はいはい、と軽い返事をそこそこにウイはまた硝子戸の奥に引っ込んだ。
「俺も?」
男の眠たげな目が少しだけ大きくなった。
硝子球の光が映りこんで揺れる。
あった時から飄々とした雰囲気を纏っていた男のはっきりと感情の浮かんだ表情で、どうにも掴めなかった男の輪郭が少しだけ見えた気がし、どうにも愉快だ。
「どうせ今日は飲む予定もなかろう。
 年寄りの暇つぶしに付き合ってくれてもよかろ」
「いやそれはいいけど」
「ちなみに教えてやるとな」
「はい」
「お前が昔飲み屋で飲んだ若い女がおったろう。
 そいつは100年は生きてる私の妹だ。その隣で飲んでた私のことはどうやら覚えていなかったらしいな」

鳩が豆鉄砲を喰らったような、とはまさにこのこと。
私は楽しくなって笑いながら人間に化けた。
あの飲み屋で女の連れのふりをしていた時の格好に。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?