【婚姻の空洞化】手段が目的となる因果応報
Vol.7【ワタシノ愛ノセカイ】
続編③/③「婚姻の空洞化」
元来「人の所有」である婚姻制度が「愛の証明」となった世界で私たちは生きている。
目的が歪められた法システムは私たちの心も歪めて、世界中を生きづらさで包んでしまった。
1万年前に始まった定住社会により所有の概念ができる。収穫物のストックが必要となったからだ。「使用せずとも自分のモノ」が所有で、収穫物の保存/配分/継承のために「法」ができる。
そして「物」だけでなく「人」も所有する「婚姻」が誕生する。
所有は「権利配分」だからもともとの婚姻に愛は関係ない。定住集団である仲間を守るために「財産と地位を獲得」するのが、元来の婚姻システムらしい。だから、自由を行使できる「選択」も婚姻にはなかった。
誕生した婚姻は血縁婚から始まり家柄婚へと移行する。目的が権利を守るためにシフトしだす。
そして「情熱的な愛」みたいな概念が始まる。私たちの恋愛観に大きく影響する概念で、12~19世紀で育まれてゆく。
スタートは12世紀の南欧にて。身分の高い既婚婦人と騎士による成就しない愛。貴婦人の神格化も相まって、手の届かないありえそうにない愛が愛とされる。
そして15世紀、婚姻外での情熱的な愛が宮廷内に持ち込まれ、成就する愛の概念が誕生する。ロミオとジュリエットの如く、恋の病によって死を遂げるような想いが、愛の成就となって現実化してゆく。
さらに、19世紀半ばになると恋愛小説が世間に広まり、「恋の病や死」が「真の愛」として浸透する。しかし、一般人にとっては愛の証明がハードすぎる。日常生活できへんやん?情熱によってすべて失ってどーすんねん?
結果、「恋愛結婚」が誕生する。
ほんの150年前のできごとだ。
婚姻と愛がセットとなり、愛に「交換条件」がついた瞬間である。婚姻とは「人の所有」だから概念に捻じれが起きる。所有と愛なんて対局みたいなもんだ。
さらに、西欧の一対一のモノガミー恋愛婚が、社会での当たり前となってゆく。本来の愛とは内発する感情によって、相手に喜びをただただ与え贈るもの。そして相手の喜びに自分も喜ぶ。交換するものではない。
だから、贈与と交換の矛盾を解消すべく「祝祭」ができる。日常による心の捻じれを戻す非日常のハレの日が、人として生きるには必要だからだ。
ところが、現実社会ではプラトニックなモノガミー愛が規範とされ、今や本来の祭りもなくなる。
人としての本来の感情が封じ込められた。
そもそも定住化により、日常と非日常そのものも反転しているのでもうナニガナンダカ。とりあえず、本来別ものである「社会の営み」と「愛の営み」が今は一緒になっている。
社会は交換で回り、愛は贈与で回る。
ところが、私たちは社会で愛を営む。
つまり、愛の成就先が婚姻になった。
だから、贈与の愛が交換に劣化した。
そして今、私たちはまともに愛を育めなくなり、人に想いを馳せる力が弱まり、コミュニティを維持できなくなっている。
そんな代表コミュニティが「日本」だ。
なるほど。日本の家族法が崩壊しているのも頷ける。日本の婚姻制や親権制はズタボロなんだ。きっと手段である「所有」つまり権利が目的になっているからだ。中央集権集団のなれの果てである。
法の目的は、社会で共に生きる仲間を守るためだ。守るための手段の一つが法であり婚姻だ。
法によって心蝕まれた私は、家族というコミュニティを育めなかった。そして追い打ちかけられるように、法によって我が子を奪われる。条件愛ゆえの因果応報だろう。
個の問題は社会の問題である。
とはいえなにやってんだか、私。
子どもたちが大迷惑被ってる。
とりあえず心震わせ愛育も。
▼続編②「言葉の変異」
▼続編①「ハレとケの反転」
▼日本の「単独親権」による「実子誘拐」
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