見出し画像

柔らかい心で横並びできるのは、違いを尊重できるときなんだ

vol.39【ワタシノ子育てノセカイ

「平等」は聞こえがいいけれど、平らにすればするほど人は生きにくくなるみたい。生き物は凸凹があたりまえだから。

人をみな等しく扱おうとする社会システムは、心をみな同じに固めてしまうんだ。

平等とは「違い」という一様性のもとで、多様性があふれることなんだろうな。



ところで私には「実子誘拐」で5年以上離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。

2023年7月中旬、梅雨前線大暴れ。

次男ジロウとの密会日。豪雨により下校方法が変更して、教室までのお迎えか、1時間遅れで徒歩下校の2択となる。先週の豪雨ではお迎え1択だったから、いつもの場所にジロウは現れなかった。

雨がパラパラする中で待っていると、山裾に児童の頭が見えてくる。どうやら、徒歩下校する子どもたちがほとんどみたいだ。しばらくすると、ジロウが早歩きで近づいてくる。

「お母ちゃん!何時から待ってたん!?」

下校時間の変更で、私と会えないと思っていたらしく、ちょっぴり驚いているようす。私に質問しながら、私の回答をあれこれと予想するジロウは、なんだかいつもより嬉しそうだった。

そんなジロウの姿に、私は母としての自分の存在意義を抱きしめる。

梅雨に、感謝しなきゃだな。

車中にて、いつしかタロウの話題になった。前の週、タロウは私と4日も会っていて、内3日の期末テスト中は密会ではなく、お昼ごはんを一緒に食べている。

ふとジロウが「タロウだけええなぁ」と羨み、いくつか会話がラリーするけど、なんだか終着しきらないまま自宅が見えてくる。私はなんとなく「ジロウはこれからお母ちゃんと一緒におやつやで」と言葉を選ぶ。するとジロウは力をやたら込めて返してきた。

「ご飯を一緒に食べたいねん!タロウみたいに。ジロウとお母ちゃんだけで!」

兄弟姉妹間で、親の対応に違いがあると、子どもはじきに感じとる気がする。違える理由が、無意味であるほど理不尽であるほど、子どもは不安を抱えてゆくんだ。

区別できない違いは、ただの差別だから。

誰かが他者との違いを説明するときは、たいがい差別されているからだけど、なんでかワガママだと勘違いされるんだな。

子どもたちは、尊厳を侵されたら一瞬で気づくし、侵され続けたらある瞬間に、満たされない欲求がもれたり爆発したりする。

人は尊厳を侵され続けると、自分の尊厳を自ら放棄しやすくなる。そして尊厳を放棄する人は、差別という人の尊厳を侵す行為を無意識でくり返す。しかし差別をつくりだすのは、人ではなく社会だと私は思っている。

差別をつくりだすのは社会システムで、その差別システムの代表作が「親権制度」になるんだな。

私たちは約80年間、単独親権制度の下で生活を営んでいる。つまり日本は、差別がデフォルトの社会なんだ。だからほら、子の尊厳を奪う「子から親を奪う」行為を、社会全体で許容してこれちゃった。

婚姻していなければ「親はひとり」に、「なんで?」とすら思えない社会で、どうやって人が平等であれるんだ。親子は、人間関係の、根元だ。

2022年の出生数が80万人を切る中、年間約18万人の子どもたちが片親を社会によって奪われている。単独親権家庭の約70%は親子断絶といわれているので、内約12万人の子どもたちは親と生き別れ状態だ。

親の愛を感じられずに育つ子が、どうなるのかは説明するまでもない。

親がひとりだと勘違いできる社会だからこそ、「子育て罰」なんて言葉も生まれたんだろうな。

子育ては国育て。

国が幸せなら、子どもたちも幸せに満ちている。

ジロウと私はお茶したあと、へちまの種をまくことになった。

2022年6月にジロウからもらった苗を、三日後に枯らして憔悴した私。その7ヶ月後の2023年の2月ごろ、ジロウは学校で収穫した種を、わざわざ持って帰ってきてくれたんだ。「お母ちゃんに、あげたいもんあるねん」って↓↓

ランドセルから登場した
へちまちゃんの種6つぶ

車の中では、タロウ話の前にへちま話もしてた私たち。「今日こそへちまの種を植えよう!」と提案する私に「お母ちゃん枯らしたへちまやな!?」とジロウが応答する。

種をくれたジロウと思い出を語るジロウから、枯らしたへちまちゃんへの感謝がわく。とはいえ種まきの時期は4-5月ころ。密会時間内に収められなくて、7月のコノ日となってしまう。芽吹くかな。

ふたりで念を込めながら、ポットを工作して、土を入れて、種をまいたら、ジロウと私の親子時間はいつのまにか過ぎていった。

ジロウとの今後の密会は、しばらく途絶える予定となる。7月の第三週から短縮授業が始まり、夏休みに入るから。会うための下校時間がないんだ。

お昼を一緒に食べたいと主張したジロウに、タロウのテスト期間中とジロウの短縮授業日が似ていると伝えてみた。返ってきた言葉は「いつもはこうだから、おそらくこうなる」というジロウの推察だった。

実子誘拐4年目の8歳くらいだったかな。ジロウは誰かの意見に同化しようとしはじめたんだ。自分を守るために、平たくなろうとする思考から、ジロウの日常生活を想像するけど、ジロウの日常に私は存在できない。

なんにもできない私は、2017年からの6年間、タロジロにくり返し投げかけている言葉がある。

「ジロウはどうしたいの?」
「タロウはどうしたいの?」

タロウがタロウであれるように、ジロウがジロウであれるように、なんで?どうして?を問いかけている。みんながしている子育てを私はできないけれど、私には私にしかできない子育てがあるはずなんだ。私が私であれるように。

苗の育ちに憂いだり、できた種にはしゃいだり、新たな芽吹きにソワソワしたり。子の育ちのすべてに感謝して。

多様性に溢れる子どもたちが、ありのままで生きられる社会が、ただ、ただ、拡がってゆけばいいな。



人差し指で種の穴をこしらえる11歳ジロウ
4年生理科の一年越しの復習
芽吹けーーー!!

「イクメン」という言葉は、父親が育児をすることが"特別"という印象を与えてしまうからだ。育児をする父親が特別という世界ではなく、当たり前の世界になってほしい、とryuchellさんは言う。

2022/8/26「新しい形の家族」めざすryuchell。著書で明かしていた違和感とは?


この記事が参加している募集

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?