自分があるほどに愛は時空を超えてくる
vol.83【ワタシノ子育てノセカイ】
過去を知ると未来を想像できる。理解できる今の範ちゅうは、知った過去とわかった未来だから。
過去から未来までの幅が今であり”自分”。幅の厚みがあるほどに、今を遠く深くまで見渡せて、自分に厚みを持てるんだ。今の厚みが自分の厚み。不安は単なる厚みの薄さ。
知識を太らせ教養を深めるんだ。学問とやらが愛になる。訓練すれば誰でも掴める、希望の光が愛なんだ。
◇
ところで私には「実子誘拐」で6年以上離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。
◇
2024年6月9日、私の父の命日。そして今年の夏至に私は、父が亡くなった年齢となる。
確実にやってこない未来を、家族でかみしめて過ごした半年間。命をあきらめた父は、子どもたちひとり一人と話をしたいと要望した。
努力家で穏やかで聡明な父は、もう命が尽きる今について、今後を見守れない未来について、これまでの子育てという過去ついて、私に淡々と伝えてくれた。話の大半は、私の育て方への懺悔だったように思う
病床ではひと言も泣きごとを漏らさず、臨終間際まで友人知人の見舞いを快く迎えていた父。亡くなってからは、担当した医師から手紙が届いた。父の孤高の闘いがありありと綴られていて、父の偉大さを見知らぬ第三者から教わる貴重な体験だった。
実子誘拐でほんのちょっぴり成長した私は、子どもたちと話をできた父はもしかしたら、少しだけ楽になって命をとじれたのではないかと感じている。
◇
父と最後に話をしてから10年以上が経ち、私はふたりの子どもに恵まれて、長男タロウと次男ジロウにめぐりあう。
タロウは手のかからない男の子で、どこへいっても大人に褒められた。まるで幼いときの私みたいだったけど、当時の私は気づけなくて、だんだん子育てに苦しみをおぼえはじめた。
そんなある日「しっかりしている子」について、幼稚園の先生から遠回しに話かけていただき、私はハッとする。父が私に伝えた言葉を思い出したんだ。
しっかりしているから、まどかをほっときすぎた。ほんとはもっとちゃんと、みてやらなあかんかったな。こらえさせて、ほんまに悪かった。
視線を合わせた父の瞳は、もう黒色ではなくて、父は私に「もうあかん目の色やろ」と苦笑った。
謝る父に私は言葉が浮かばなくて「お父さんの目はきれいやで」と答えると「そんなん言うてくれるんは、まどかだけやわ」と父は穏やかに微笑み、最後の親子の会話となった。
◇
77年ぶりの法改正では、ありふれた共同親権は誕生しなかった。
ぞんざいな改正案はいつのまにか、夫婦ではなく父母に義務を課すという、個人を束縛する定めまでもうけて公布。父と母という存在は、子を産むから誕生するんじゃないのかな。日本では、契約して父と母になるんだろうか。
たとえば親を交換して「新しく」する普通養子縁組に、日本社会が違和感をもたないのは、父母をフィクションだと信じているから、なのかも。家制度の物語に住まうほど、父母は操り人形になっていき、いつしか絡まった糸が家族となり、個人はがんじがらめになってしまう。
集団を「個」だと勘違いして、個人の存在を消し去るから、本来の「自由」を知りえなくなるんだ。束縛からの解放が自由だと思い込むほど、いつまでたっても束縛を求めてしまうんだろうな。
自由になるためには、束縛を解き放ったあとに「責任」を握りしめないといけないんだ。
心地よく束縛されている自分に「あんたは今、操り人形やねん。糸を切れ!意思をもて!」と告げて、自分で歩む覚悟がいるんだ。そして覚悟するには勇気がいって、勇気をもつには愛がいる。
つまり愛し愛される体験をして、経験にかえれば、人間は真の自由を感じられるんだ。なかなか稀有な体験だけど、人生において必ず1回、誰もが体験のチャンスを通りすぎる。子育てをうける、乳幼少期だ。
親が子を育て、子が親を育て、愛を育むささやかな日常が、自由の種となるんだな。
子どもは生まれながらにして、親を愛する力をもつ。愛して愛してただ愛してくれる他者に出逢う奇跡が、子を産むということなんだ。子に恵まれる人生であれば、自由を掴むチャンスは2回。
親子とは、なんて尊い存在なんだ。
ありふれていない共同親権を、世界に先立って寅子たちは想像できた。現行法の問題点は明確で、課題も対策もわかっている。100年後の世界に生きる私たちが、先人の声をカタチにできなかった理由はなんだろうか。
◇
25年前の父との対話でも、13年前の先生からの声かけでも気づけずに、今ようやくわかったことがある。
私は父と眼の話をしたときに、親に愛されているとはじめて実感したんだと思う。
しっかり者は概して、渇望する愛を埋めるために、しっかり振る舞う。お父さん、お母さん、私を見て!私を聞いて!私を愛して!って。
2024年春、しっかり者のタロウは高校生となり、しっかり者だった私の化けの皮がはがれはじめた年頃となった。父と同じく、私もタロウを心配している。
だけどタロウと私は今のところ、近しい未来に確たる行き止まりはない。しかも私は父や先生からの教えもあって、生きてるうちに後悔を糧にできていて、私なりに糧を子育てに還元できてるはずなんだ。
気づきというものは、あとからあとからやってくる。気づくたびに痛みを味わい、耐えがたい瞬間もあるけれど大丈夫。味わえ。私は私のスピードで、いくども生まれ変わり、愛を育んでいるからこそ、痛みという気づきがあるんだから。
ひと月みていないタロウは逞しくなって、必ずまた私の前に、エクボでひょっこりと現れるんだ。
子どもに会えない親御さん
できれば生きててください
あなたが生きることが子育てです
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