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【実録小説:掌編】9.11の回想

※この小説は、筆者が経験した事実を元にした小説です。ドキュメンタリーではありますが、一部改変してあります。また、作中で述べられている思いや考え等は、あくまで筆者の当時の個人的な意見・感想であり、誰かを害そうとするものではありません。


9.11の回想

 テレビ画面に、淡いグレー一色の瓦礫が積もった地面が映り、ひたすらゆっくり前進していく。そこを、おそらく慎重に歩いているだろう、ザッザッザッ……と誰かが歩く一人分の足音だけが聞こえてくる。それが、最初の記憶だ。

 九月になると、まずこの日を思い出す。九月十一日。あの日、何をしていたか、覚えている人はどれくらいいるのだろう。今の若い人は……というと、ものすごくおばさんな気もするが、アラフォーだから私も立派なおばさんだ。とにかく、今の若い人は、まだ生まれてさえいない人だっている。歴史の教科書にも、最後の方にちゃんと載っているらしい。

 あの日、私は日本にいなかった。学生ながらに短期でオーストラリアの東海岸に留学していた。日本では味わえない、静かな開放感を謳歌していた。そこでは、ただ一人の学生以外の、何者でもない。日本人とか、留学生とか、他にもごまんといるただの一人だった。
 日程はもう半分を過ぎていて、そろそろ日本の友人や家族にお土産を揃えなくてはと考えていた。九月の末日には、日本にいるはずだった。

 ホストファミリーは、典型的なオージーのイメージにぴったりな明るい家族だった。呑気な警備員のパパと七年生の娘、図書館司書のパパの恋人。パパの得意料理はグレービーソース。それが特段美味しいのかどうか、他を味わったことがなかったから分からなかった。娘は日本語の宿題がテキトーすぎて私をびっくりさせていたし、ママはとにかく目一杯私を大事にしてくれていた。
 ただ、とんでもなく夜が早い家だった。夜も9時前にはもうそれぞれが部屋に引き上げる。テレビを一人で見ても面白くないし、私もまた部屋に戻って、日本から持ってきた勉強やら読書やらをして超絶健康的な学生生活を送っていた。

 九月十二日。私がちゃんと事件を知ったのは起こった翌日だ。ホストの家では、毎朝ミュージックビデオがひたすら流れるチャンネルをつけていた。七年生の娘の趣味だった。いつものようにテレビをつけると、灰色の瓦礫が映った。新手のミュージックビデオだろうか。そう思いながら冷凍のクロワッサンをレンジに入れた。七年生の娘と二人分。フルーツジュースをコップに入れて、前奏が始まるのを待った。えらく凝ったMVだな。そう思っていた。
 ただ、灰色の画面は一向に音楽を奏でない。たっぷり十五分それを観続けて、やっと「何かおかしいね」と言い合った。当時、まだスマホは無くて、手元でポチポチ調べることもなかった。それに、朝の時間が貴重なのは、どこの国でも同じだ。とりあえず、それぞれの学校と仕事に向かう身支度が始まっていた。
 ママの車では、いつもはかけないラジオをかけていた。そこで、ママは何かを把握したようだったが、私は超絶ピッチの早い英語圏のラジオを聞き取れるほどの上級者ではなかった。車に乗っていたのはほんの十分。ママはただ「わお、凄いことが起こっていたのね」とだけ言った。彼女の英語は、私も聞き取れた。
 留学初日のクラス分けテストで、一人だけ違うクラスに入れられた私は、日本の同級生とほとんど顔を合わせることもなく日々を過ごしていた。その地域の名前を冠した大きな大学にある、留学生向けの語学コースで、移住して大学に編入する人か、短期で語学留学に来ている人を受け入れているコースだった。同じクラスには、少し年上の日本人大学生と、うんと年上のフランス人(美人だったので、日本人がイタズラして「アイシテマス」という日本語を「親しい人にする挨拶だよ」と教えていた)やブラジル人夫婦なんかがいた。八月のサマーパーティは、クラスで唯一未成年だった私だけが参加できなかった。
 その日、予定されていたクラスの勉強は全部変更すると言われた。教室にはテレビはない時代だったし、先生たちが朝のラジオを録音したものをひたすら何回か流して、何があったか聞き取れという。とにかく、ラジオが爆速すぎて、何人かの日本人が笑った。上から三つ目のクラスだったから、そこそこできる人の集まりのはずだったが、ブラジル人の旦那さんの方しか聞き取れなかった。その時分かったのは「アメリカで、何機かの飛行機がハイジャックされて、墜落した」ということだけだった。おそらくツインタワーやペンタゴンの話もしていたのだろうが、そもそも私がアメリカにあるそれらの施設のことをほとんど知らなかった。
 意図的に起こされた大事件だということだけは分かったけれど、当時その時点で誰も知らなかった「犯人は誰だと思う?」と先生は問うた。日本人の何人かが「オウムの残党だ。ね?あぁ、あなたは知らないかな。」と私に向かって言ったので「いいえ、覚えていますよ。でも、オウムではない気もします」と答えた。日本人以外は、先生も生徒もオウムについて知らなかったので、年上の日本人学生があーだこーだと説明するのを、少し冷めた気分で聞いていた。なんだか大変みたいだけれど、よく分からない。そんな印象だった。誰が、なんのために?
 ちゃんと映像が見られたのは、その日の夜だ。現実感のない、映画のような衝突シーン。ただ、ビルが崩壊したあと、その周辺が灰色に染まったのを見て「ああ、今朝の映像はこれだったんだ」と気づいた。同時に、急に恐ろしくなった。辺りに誰もいない、微かな足音だけが続いたあの映像は、ニューヨークの真ん中で撮られたものだったのだ。足音以外に音のない映像が、あの街から流れてくるなんて。

 何日か経って、事態は急に身近になって動き出した。日本に帰っていたはずの日本の学校の先生が現れた。他の国に行っていた学生も含めて、一度全員に会うように学校から司令が出たらしい。といっても、私はすでに帰りの航空チケットも取ってあったし、オーストラリアとアメリカは物理的に離れていたし、すぐにどうこうなるものでもないし……。先生はすぐ帰ったが、またすぐとんぼ返りしてきた。私たちの帰りの航空チケットが、先生たちが一度帰ったすぐ後に、紙屑になったからだ。
 九月の半ばから、ホストの七年生の娘は、オーストラリアの北地区に住んでいる彼女の実母に飛行機で会いにいく予定になっていた。実母が再婚して、彼女にとっての弟が生まれたからだ。八月が終わる頃から、年の離れた弟に会えるのを指折り数えて待っていたはずの娘は、出発予定の三日前、突然部屋に篭った。パパにどうしたのかと訊くと「チケットを取っていた航空会社が潰れたんだよ。元々経営が厳しかったのに、稼ぎどころの国際便にみんな乗らなくなったから。」と話してくれた。航空会社の名前を聞いて、すぐトランクの底にしまってあった、自分の帰りのチケットを確認した。同じ、オージーの航空会社だった。(実はこの会社の閉鎖は9.11が起こる前から迫っていた事態らしいが、当時はみんなパパと同じように思っていた)
 思わず笑った。爆笑しながらリビングでパパにそれを告げた。私も飛行機乗れなくなった!ママは「じゃあずっとここにいればいいじゃない!」と言ってくれたが、私は人生で初めて「どうなるか分からない」という状況に少々混乱していた。ビザは短期の観光ビザのはずだ、と至極真面目なことも考えたが、よく分からなかった。とにかく、国際電話はお金がかかるから、こっちの学校にいる日本人留学生のコーディネーターに相談するしかなかった。
 同じ学校から、なんなら同じクラスから留学している同級生のことをすっかり忘れ、私は翌日の朝コーディネーターのところへ行った。私たちは、普通の大学生たちとは別枠になっているらしいのだが、日本の学校と連絡を取ってくれるとだけ言ってくれた。同じ日の昼過ぎ、授業にきた先生から、日本の先生がまた来るよ、と伝えられた後「ところで、同じ学校の生徒はどこのクラス?」と聞かれて初めて「あ、そうだ。一人で来ているんじゃなかったんだっけ」と思い出した。さぁ、と首を捻ると、ちょっと笑われた。もともとさして仲良くもなかった同級生がどこにいたか、クラス分けされた時は覚えていたはずだが、咄嗟に出なかった。
 そこから九月末までの僅かな時間で、なんとか別の飛行機のチケットを、日本の先生が手配してくれた。ただ、三日ばかり滞在が伸びたので、その了解をホストに得てくれと言われた。実は、私のホストは通っていた大学に勤めていたので、私が家で話した時にはもう連絡がいっていたらしく「三日間休み取っちゃった」とママが笑っていた。
 滞在の延びた三日間、やたら私を見つめてくるママに、散々心配されながらゆっくり荷造りをした。そのママとは、帰国してからしばらくメールのやり取りをしていて、あんなにラブラブだったパパと一年後に別れたところまでは知っているが、今どこで何をしているのか、もう分からない。

 帰国の日、空港は異様な緊張感に包まれていた。とても「お土産追加で買おうかな〜」なんて言える雰囲気じゃなかった(潰れた航空会社のロゴが入ったキーホルダーだけは買ったけれど)。留学に来た時は、空港でもリラックスムードでみんな笑顔だったのに、出る時には会う人がみんな厳しい顔をしている……。オーストラリアは三度目だったのに、こんなことは初めてだった。荷物は全て開けて目視でチェックされ、お土産用の包装紙を開けさせられた同級生もいた。私はもともと自分で日本に帰ってからお土産を詰め直す予定だったが、電子辞書の電池を抜いてくれと言われて驚いた。
 急遽手配したチケットは席もバラバラ、それでも私は先生の頭が見える席だった。十時間のフライトで、何度か声をかけに来た先生に応えながら、先生はあの事件があってから何度も国際便の飛行機に乗っているんだよな、と思うといつもは思わないけれど「この人すごいな」と思った(こら)。

 帰国してから、少しずつ事件について知っていった。田舎の学校だったので、留学から帰ってくる時ほど事件の影響を感じはしなかったが、帰ってきた時には会う人会う人「無事で良かったね」と言ってきた。いや、事件があったのはアメリカよ、私行ってたのオーストラリアだって。何度も同じセリフを繰り返した。
 同じ頃、従姉も帰国した。高校時代からアメリカに留学し、大学もアメリカに進学していたが、祖父たちの強い意向で強制帰国(と本人は感じたらしい)させられていた。彼女はその数年後、再渡米して何年も付き合っていた彼氏(韓国移民二世)と結婚し、今でも向こうに住んでいる。彼女の息子は、今度高校生らしい。

 覚えている人も多いだろうが、当時犯行声明を出した過激派グループと、イスラム教そのものを混同した無理解な差別や反イスラムの風潮が、国内外に起きた。私はますます混乱した。イスラム教って中東の方に多い宗教でしょ?なんでアメリカでテロ?っていうか宗教のためにハイジャックとかするの?自分の命を捧げて云々って何?イスラム教の神様ってそんなのOKしてくれる?んなわけないはずよ?っていうかちょっと待って。イスラムの人ってみんながあんな過激?毎日五回もお祈りするのは(それくらいしか知らなかった)そのせい?(どのせいよ)
 世間知らずだったとは思うが、当時の日本人、まして未成年でこの宗教絡みの複雑な事情と過激派やイスラム教の云々を理解できていた人は少ないはずだ。すぐに分かったのは過激派と、アメリカや日本にいる一般的なムスリムは別なのだということぐらいだった。

 今になって思うのは「あの日から、今の世界になった」ということだ。あの日までの世界と、あの日からの世界。複雑に宗教や争いの歴史が絡んで確実に繋がっているはずなのだが、世界は確実に変わったと、世間知らずの若者にも知らしめる出来事だった。


執筆後記

 そうなんです。いなかったんです日本に。詳細な情報に触れたのはずっと後になってからです。それでも、当時はよく分かっていませんでした。この後、アメリカが中東で本格的に「テロとの戦い」なるものを始めて、ますます混乱する私もいました。ただ、この頃イスラム教や中東について調べる学生は「危ないやつ?」と思われかねない風潮もあり、深掘りしなかったという情けない私もいます。当時はYoutubeも普及していなかったので、今のように分かりやすく動画で解説してくれる親切な人もいませんでしたし。
 先だって、NHKの「映像の世紀」でこのテロについてやっていました。それをきっかけに、これを書こうと思った次第です。
 ほぼほぼただの記録なので、小説と言っていいのか分かりませんが、十代の頃の一番衝撃的な記憶が残っていると言っていいひと月の記録です。二十年以上経ちましたが、詳細に思い出します。
 皆さんはどこで何をしていたか、覚えていますか?

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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