論文も書かないし、学生指導もしない。そんな人達を『学者』と呼ぶのは辞めませんか?
ワイドナショーでテンション下がる
日曜日の朝、寝ぼけた頭。
とりあえずテレビの電源を付け、ザッピング。
日曜の朝10時。
ああ、しまった。『あいつら』が出てる時間じゃないか。
そう思っても時既に遅し。『あいつら』が僕の目に飛び込んでくる。
ため息をついてテレビを消した。
こんなことをほぼ毎週繰り返している。学習しなければと思うのだが、うまくいかない。
三浦瑠麗
古市憲寿
僕は彼らが嫌いだ。
そして、彼らを『学者』という肩書で仕事を依頼するメディアはもっと嫌いだ。
三浦瑠麗と古市憲寿を嫌いな理由
三浦瑠麗は国際政治学者、古市憲寿は社会学者、という肩書で活動している。
先に結論から言っておくが、彼らは『学者』ではない。
もっと正確に言えば、彼らは現在『学者』ではない。
三浦と古市は『学者』を既に廃業している。
なぜ古市憲寿と三浦瑠麗は学者ではないのか?これから説明していきたいと思う。
研究者としての学者
学者というのは、基本的に、研究していなければならない。
様々な文献を読み込むか、要人にヒアリングするか、実験するか。
それらをまとめたものが論文である。
学者が学者足り得るのは、研究をして、論文を書いているからである。
ただ加えて言えば、ただ論文を書けばよいのではなく、査読付きの論文を書かなければならない。
査読付きの論文とは査読を通過した信頼性の高い論文のことです。査読制度を設けていない雑誌の論文よりも、査読付き論文の方が客観的な評価は高くなります。また、研究者の実績は査読付き論文の発表数で判断されることが多く、学位審査などにも影響します。
https://www.soubun.com/journal/%E6%9F%BB%E8%AA%AD%E4%BB%98%E3%81%8D%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E6%8E%A2%E3%81%97%E6%96%B9%E3%82%84%E8%A6%8B%E5%88%86%E3%81%91%E6%96%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%82/#:~:text=%E6%9F%BB%E8%AA%AD%E3%81%AF%E3%80%81%E8%91%97%E8%80%85%E3%81%A8%E5%90%8C%E3%81%98,%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%82%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
ただ、査読付きの論文を書くのは大変に労力のいる作業で、毎年発表するのはかなり難しい。
また、研究には長期間かかることもあり、数年間出せないこともざらである。
それゆえ、論文を書いていない=学者ではないとまでは言い切れない。
けれども、論文書いている人は学者であると判断してもよいの、かなと思う。
さて、三浦と古市はどうなのか?
三浦瑠麗で有名なのは『シビリアンの戦争 ―デモクラシーが攻撃的になるとき―』2012年かな、と思う。博士論文をまとめた書籍で真っ赤な装丁が特徴の本だ。
しかし、これ以降は、査読付きの論文は書いてないし、論文検索エンジンのciniで探してみたが一つも見当たらない。
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%91%A0%E9%BA%97&range=0&count=20&sortorder=2&type=0
院卒業後に、査読付きの論文を全く書いてない。
また、2013年以降は学会誌への寄稿することすら全く無くなり、学者と呼ぶのははっきり言って微妙だ。
学会誌への投稿も書評が多い。アカデミックな成果はほぼ皆無だ。
ちなみに査読付き論文であれば、査読付きと表題に表記される。
この時点で学者としては呼ぶのは疑わしい。
さて、古市は、彼を有名にした『ピースボート希望難民御一行様』や『絶望な国の幸福な若者たち』等の一般書籍が有名だが、これらは学会誌への論文をベースに書かれている。
古市は2015年頃までは、一般誌と学会誌の両方に寄稿しており、学者として仕事しているのかな、と思う。そういった点は、三浦瑠麗より評価できる。
ただ、査読付き論文は、全く書いていない。マイナス点だな、と思う。査読がないことは同業者からの評価がない、という意味だ。
一番大きな問題は、古市は博士課程を終了していない。当然、博士論文も書いていない。
若手研究者の最初の集大成となるのが、博士論文なんだけど、それがないのは微妙かな、と思う。
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF&range=0&count=20&sortorder=2&type=0
三浦は博士論文以降、まともな論文はほとんど書いていない。
古市は論文は書いてはいたが、査読付きの論文はないし、博士課程を修了すらしていない。
論文という観点から、彼らを『学者』か否かというと微妙な評価になる。
両者ともに2015年までだったら、『学者』と名乗っても良かったのかな、と思う。
では、違う観点から考えてみたい。
学者には論文を書く、というような研究者以外にも、教育者といった側面がある。
例えば、大学のゼミや90分15回のフルコマの授業を通じて体系的な知識を伝達する。
これも学者の立派な仕事だ。
そのような教育者といった側面から考えてみたい。
教育者としての学者
三浦は、まず、大学に職を得ているわけではない。講義も受け持っておらず、ゼミなどもしていない。
ただ、ドワンゴの設立した通信制高校のN高の政治部(部活)の特別顧問をしている。
しかし、これは通信制高校の特別顧問に過ぎず、しっかりと知識の伝達を行っているわけではない。
教育者としての役割はほとんどないのかなあ、と思う。
さて、古市憲寿はSFC研究所上席研究員という肩書を持っている。
SFC研究所とは慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科、総合政策学部、環境情報学部の付属研究所であり、列記としたアカデミックな機関である。
あくまで研究者のため、教育者としての役割はまったくない。
しかし、古市は上席研究員と言っても、受入れ研究者に過ぎない。
受入れ研究者とは、SFC研究所(以下「研究所」という)における研究活動に参加させる目的で、受入責任者からの申請により、研究所が受け入れる研究者です。
上席研究者になるための条件
①修士課程以上及び研究実績があること
②慶應の大学教授の推薦があること
③5万円の登録料を支払うこと
簡単に言うと、修士さえあれば、慶應大学教授の推薦とお金があればSFC研究所上席研究員になれるのです。
https://www.kri.sfc.keio.ac.jp/ja/researchers/
つまり、SFC研究所上席研究員は、大学に雇用されている正規の研究者とは全く異なる立場なのです。
SFC研究所上席研究員という肩書きも名前だけに過ぎないのかな、と思います。モンド・セレクションみたいなのですね笑
少し話が脱線しましたが、三浦及び古市の両者ともに教育者としての役割はさほど大きくありません。三浦は少しやっていますが。
研究者及び教育者からみても、両者は学者とは呼べないのかなあ、と思います。
『学者』が駄目ならば何にすればいい?
『国際政治学者』、『社会学者』という肩書を『評論家』や『批評家』等に変更するのが適切だろう
両者がテレビでどんな発言しているかは知らないが、たぶんそれなりに良いことを言ってるのだろう。だからテレビに呼ばれるわけだし。
コメンテーターとしては有能なことは証明されているのだから。
アカデミックな世界で彼らを学者としての捉えている人もいないんだし、正式に転職してほしい。
三浦瑠麗は藤原帰一の推し面、古市憲寿は上野千鶴子及び本田由紀の推し面だからこそ『学者』枠で仕事できるだけなんだし。
少し話は変わるが、保守系の竹田恒泰は、発言の内容はともかく、学者としての良識がある。
慶應大学の講師を辞めてから憲法学者という肩書は一切使わずに、政治評論家として働いている。
何度も言うが発言の内容はともかく、学者としてのモラルはきちんと持ち合わせた人間だったんだなあ、と評価してしまう。
落合陽一と古市憲寿を並べて語る風潮もどうかなあ、と思います。
物事を自分で調べられる人間なら落合陽一の凄さは分かるんですが、テレビだと古市憲寿と同列に扱われるんですよね。すごい世界だな笑
まず、落合陽一は査読付き論文を英語で大量に書いてます。
この時点で、古市とは全く違います。
https://researchmap.jp/ochyai/published_papers
海外で賞なんかも受賞しており、アカデミックな業績にケチをつけられる人はそうそういません。
落合が昔に投稿したYouTube動画が見てほしいなあと思います。
再生回数少ないですが、非常に良いです。ほとんどが英語のコメントで海外からの評価も高いのだなあ、と思います。
なんか、落合ってメディアに出れば出るほど損をしてる気がする笑
結局はそういった自称学者の肩書きなのを分かっててメディアがキャスティングするのが一番罪なような気がするんですけどね。
メディアの自浄作用ってのが皆無なせいでこういう問題が起こっているんだろうなあ。
だからこそ、頭の良い人は、メディア嫌いになるんだろう、と思うこの頃。
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