『ヤンキー君と白杖ガール』のお話。

今日のお題は #熟成下書き  です。
止めていた時計を動かして、書き上げてみましょう、という
お題のようです。

止めていた下書きは、実はたくさんあります。

その中で今回は、『ヤンキー君と白杖ガール』の話を選びました。

こちらのHPに多少の説明がありますので、
知らない方は「イントロダクション」や「制作によせて」を
読んでみて下さい。

さて、もう一年前の話になりますが、
『ヤンキー君と白杖ガール』原作1、2巻を読了しました。

やっぱりドラマは、ラブストーリーが主軸で
「前向きパワーが起こす奇跡」を描くことが主眼だったんですね、
と再確認しました。

ドラマがダメという訳ではありませんが、
「前向きパワー」を原動力にして
登場人物が動いていくところを描いていたドラマ版は、

思った通りに原作からかなりの部分を切り捨てたり改変したりして
描かれていました。

私事ではありますが、
演劇の真似事をしていたり、写真家を目指したり
作詩作曲などにも手を出していた経験から言わせて頂きますと、
原作ものの脚本化というのは、引き算です。

主題にピントを合わせてその他はぼかす写真撮影のように、
主旋律を強調してバックは少し控えめに
主旋律のために響かせる編曲のように、

脚本を作る際には注目するところを決めて、
それ以外のところはバッサリとはしょります。

はしょった所は登場人物の仕草などの演出で補ったり、
諦めて削除したり改変したりします。

ドラマを観ていて、

「ここは、原作では描かれ方が違うんじゃないかな?」

と思った所はけっこうありました。

例えば2つ、思い通りだったことをネタばらしします。

ひとつめ。ユキコがバスでモリオに会いに行くところです。

ドラマではバスを降りたユキコの前にシシオが「偶然」通りかかって
助けになってくれますが、
(その伏線としてシシオはユキコとモリオが一緒にいる所を
「偶然」見かけて、 ユキコの顔を覚えています)

原作ではバスに乗り間違えたユキコはモリオに会えません。

タクシーで家に帰ってひとり落ち込み、

「私みたいな人は思いつきでバスなんて乗っちゃいけなかったんだ」

と泣きます。

「偶然の奇跡」なんて都合のいいことは、原作では起こりません。

まぁそのまま話が終わっては救いがありませんから、
原作ではモリオがユキコの家にさらっとバスに乗って会いに来ます。

その上

「バスに一本乗るだけっすもんね、失敗しようがないっすよ」

と笑って言い放ち、ユキコを怒らせます。

で、やっと雨降って地固まるなラブストーリー展開に。

これがひとつめです。

ふたつめ。モリオがユキコに告白されたところです。

ドラマではモリオは素直に喜んで受け入れるのですが、原作は違います。

それまで「社会に拒絶される」ことが当たり前で、
「社会を自分から拒絶した」気になっていたモリオは
「人に好かれた=社会に受け入れられた」ことに混乱し、逃げ出します。

バイトにも穴をあけて、ユキコからの連絡も無視するようになってしまうのです。

「どうすりゃいいんだ…こんなのはじめて‼」とシシオに言い、
「はじめてじゃないだろ」とシシオをイラっとさせます。

その上シシオに対しても「俺に復讐したかっただけだろ」と言って
更にシシオを怒らせます。

一匹狼を気取っていたがゆえに最強だったモリオは、
「他人=社会」を「受け入れる」なんてことは簡単にできないのです。

大人なシシオが説教をするも、モリオの固まった心には届きません。

それでも、「確かに俺 大切なこと忘れてたかも」と
ユキコのために考え直して、

色々あってシシオの気持ちにも気づいて、

やっとモリオはユキコに
「俺は! もう逃げません」と言えるようになります。

モリオの葛藤がリアルに、きちんと描かれているのです。

これがふたつめです。

ことほど左様に、原作とドラマでは大きな違いがあります。

もちろん、ドラマの良さというものもあります。

「前向きである」ということ、「前向きであり続ける」ということが
自分や自分のまわりに起こす効果、というものは
実は原作ではあまり描かれていません。

原作では、多様な登場人物たちが前向きな一歩を「踏み出してみる」ことで
自分や身の周りに起こす変化は描かれていますが、
ドラマのように「前向きであり続ける」ことはあまり描かれてはいません。

また、ドラマはやっぱりラブコメディーなので、
観ていて楽しい気分になります。

ドラマと原作、両方を比べて
それぞれの「良さ」を楽しんでみるのも、また面白いと思います。

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