(32)縄文・弥生・古墳の境い目

032縄文と弥生

わたしたち昭和二十年代に生まれた者は、小中学校で「稲作は弥生時代、紀元前300年ごろから始まりました」と学習しました。竪穴式住居、丸みを帯びた無紋の土器、黄色に染まる稲田、筵(むしろ)のような貫頭衣をまとった人々……のイメージです。

ところが2003年のこと、国立歴史民俗博物館(歴博)は「弥生時代の始まりはB.C10世紀に始まる」と発表したので、関係者はもちろん古代史愛好家は驚きでぶっ飛びました。佐賀県唐津市の菜畑遺跡から出土した土器に付着していた炭化米を放射性炭素C14で計測したところ、B.C970~950年という数値が出たというのです。

放射性炭素C14は5730年で半減することが分かっています。炭化した動植物遺骸の組成分子1兆個に1個のレベルで存在しますが、出土したとき現代の空気に触れますので、炭素成分に微妙な変化が生じます。それで測定値にプラス・マイナスの幅が付くのです。

縄文終晩期の石木中高遺跡(佐賀県)から出土した炭化米はB.C1110~1095年、B.C1085~1060年、弥生早期の板付遺跡(福岡県)出土の炭化米はB.C760~680年なので、菜畑遺跡の数値は決して異常ではありません。 歴博に測定値は「仮説」の域を出ませんが、科学的なエビデンスに裏打ちされているだけに説得力があります。

それで現在は、 ①弥生早期:B.C1000~800年(前・後) ②前期:B.C800~400年(前・中・後) ③中期:B.C400~A.D100年(前・中・後) ④後期:A.D100~300年(前・後) と4期に分ける編年を採用するケースが多いようです。

ただし、これは九州・筑紫平野に限っての編年です。それ以外の地域では依然として縄文の生活が営まれていました。稲作が伝わったとしても、土器や埋葬方式にはその地域の特性が反映されるので均一ではありません。

また、金属器は人が持ち運ぶことができるので、モノが到達した瞬間に先進地域をキャッチアップできてしまいます。弥生時代の編年は地域によってバラツキがあるわけです。

本州で最も北にある最古の弥生水田遺跡は青森県弘前市の砂沢遺跡です。砂沢遺跡は弥生前期に編年されますが、筑紫平野の弥生人が400年を要して稲作を運んだと考えるのは無理があるでしょう。縄文から弥生の境い目はまだまだ研究の余地があります。

弥生から古墳への境い目も分からないことが山ほどあります。実際、『書紀』から推定したミマキ大王の活動時期は弥生後期、その後半に当たるのですが、「魏志倭人伝」の「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩狥葬者奴碑百餘人」を桜井市の箸墓と見れば弥生後期後半の編年も見直さなければなりません。

古墳の初源的な形を方形周溝墓に求める見方もありますし、筑紫平野の三雲・井原遺跡や吉野ケ里遺跡にある差渡し30m前後の墳丘墓を初期の古墳とする見解もあるようです。「古墳とは何か」その定義にもかかわってくる問題です。時代の様相が大きく変わろうとするややこしい時期に、だからこそ実在可能性が高いヤマト王統最初の大王がいるのかもしれません。

写真:菜畑遺跡の最古の水田(Wikipedia)

本連載の1回目→ 日本の「古代」はいつからいつまでか 

2回目 日本書紀の書名は政治的な判断

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