(2)日本書紀の書名は政治的な判断

奈良盆地航空写真

この国の名が「日本」に定まったのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令においてだった、とされています。そのことについて、この国の最古の歴史書『日本書紀』は全く語っていません。

『日本書紀』は日高女王(元正天皇)の養老四年(720)、当時の皇族筆頭である舍人親王の名において編纂されました。オホアマ(大海人)大王(いわゆる「天武天皇」)の治世十年(681)二月に発した「撰録帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉」(帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽りを削り実を定めて後葉に流えんと欲す)」の勅から40年後です。

ちなみにカッコ内に「いわゆる天武天皇」と書いたのは、漢字2文字の呼称(漢風諡号)が付けられたのは天平宝字六年(762)から同八年(764)の間とされていて、『書紀』が編纂されたときには付いていなかったためです。以下、カッコ内の漢風諡号は同様の理由です。

『書紀』が30巻で構成されているのは中国の正史『漢書』を倣ったもの、本来の書名は「日本紀」だったことなどが分かっています。扱っている時間帯は神代(かみよ)からウノササラ(鸕野讚良)大王(持統天皇)までです。

神代は王統の始祖伝承ですが、宇宙の始まりから書き起こしているのが特徴です。カオスの中にどこからともなく一点の光が差し込んで時が動き始める光景が描かれています。そのような場面から説き起こす始祖伝承は、世界にもあまり例がありません。

歴代大王の年紀や事績については、どれほどの記録が残っていたのか分かりません。それと官製の歴史書ですので、王統の正統性を主張する一方、時の王権に不利な情報は隠蔽されるか改竄され、オブラートに包んでいます。そういうことを頭に入れて読み解かなければなりません。

ですが、おおむね6世紀初頭のオホド大王(継体天皇)以後はそれなりに史実を反映しているようです。白村江で倭軍が大敗した57年後、壬申の政変(672年)から47年後でした。直近の出来事は当事者やその子女が生存していますので、あまりウソは書けません。

さて、書名にある「日本」についてです。『漢書』を意識した勅撰史書で、遣唐使節団に随行した留学生が現地で書写した数々の中国文献を駆使した大事業でした。舎人親王を総括者としたことも、力の入れようを示しています。それだけに書名をどうするかは、政治的な判断でもあったはずです。

(写真は空から見た奈良盆地、大阪平野:by Google Map)

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