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遺伝子をあきらめた話


「認知は、遺言によっても、することができる(民法781条2項)。生前ははばかられる認知も死後ならできるであろうからである」
(合格革命2023年度版行政書士肢別過去問題集より)

生前に認知をはばかられるような子どもを作るな!

と過去問を解きながら憤ってしまったわけですが、38歳最終日の夜を迎えました。
最近予定の無い日は家から一歩も出ることなく7時間くらい勉強しています。7時間て…!睡眠時間より長いよ!狂ってるぜ!!

でもまだまだ全然足りないな〜という感じで、模試は点数がなかなか伸びず悶々とし、とにかく毎日覚えたことを忘れないように繰り返し脳に叩き込む作業をひたすら続けるのみです。
2ヶ月後の私は全ての勉強のしがらみから解放されて毎日風呂屋に行きサウナでダラダラ汗を流しているはず。がんばるぞ!

この1年を振り返ってみると、例年通り何やかんやあり、一番の大事件は今年のはじめに母が救急搬送されたことでしょうね。
今年71歳になった母は10代の頃から50年以上喫煙者で、私を妊娠している間も禁煙出来ずにプカプカふかしていたらしい。
いくら生命力が抜群に強く大病を全く患ったことのない母でも、それだけ長い間ニコチンを摂取していれば体に異常が起きないわけはなく…
ご多分に漏れず肺がん患者となりました。


昨年末からずっと咳をしているな〜と思い、受診を促してはみたものの病院嫌いが仇となり、近所のクリニックに無理矢理引きずって行ったときには
「肺が潰れてますね…」
という結果に。
このときのお医者さんの呆れたお顔ったら、きっと一生忘れられない。私も驚きと納得の混じった「まあそうなるわな…」という顔をしていたことでしょう。

大きい病院に紹介状を書いて頂き
「いつでも良いので早めに受診してね」
と言われた母は、更に病院嫌いを発揮して
「とりあえず娘(母にとっては孫)の受験が終わったら行くわ」
と更に先延ばしにしたのであった。私の先延ばし癖、もしかしてこの親にしてこの子あり的な感じだった?今更ですが…


当時1月の下旬、娘は大学受験を控えており、私も仕事やら勉強やら娘のメンタルケアやら諸々の手続きやら何やかんやで余裕が無かったのも事実。
受験が終わったら絶対に行くわよ!と念押しをして、母に喫煙による肺へのダメージを説明したYouTubeを観せたりはしたものの、50年以上毎日吸ってた人がそんな簡単にはやめられませんわな…

このときはまだ肺がんという診断は下っていなくて、母もまだある程度活動は出来るくらいの健康状態だった。そして変わらずスパスパ煙草を吸っていた。


母が救急搬送されたのは2月の半ば、娘が国公立大学への願書を出し、地元の私大の受験が終わった頃だった。
その日は土曜日で、紹介状を書いてもらった先の総合病院の救急外来に電話するも
「とりあえず来て、順番待ちだから何時に受診出来るかはわかんないよ」
みたいに冷たくあしらわれて心がシュンとなったのを覚えている。私は他人に冷たくされるとめっちゃ傷付く(みんなそうかも)。

その日は友人の展示を見に行く約束をしていたのをドタキャンしてしまい、その負い目みたいなものもあった気がする。
それ以外にも色んなことが重なり過ぎて完全にキャパオーバーだったな…


正午に近付いて来た頃、母を病院に連れて行く準備をしていたとき、母がうずくまり動けなくなってしまった。この時の緊張感、今も鮮明に思い出せるし、思い出すたびに血の気が引く。
震える指で119番を押し、生まれて初めて救急車を呼んだ。
「119だっけ?110だっけ?どっち?」
っていう漫画みたいなこと、現実に有り得るんだな…と今なら笑ってしまうが、当時は結構なパニックであった。

救急隊の方々はとても親切に聞き取りをしてくれて、15分弱ですぐに到着し、超かっこいい救急隊仕草でサクッと母を救急車に乗せた。
私は自分の車で病院へ。娘は猫と留守番。人生で一番の緊急事態だったかも。

総合病院での診察の結果、母は肺に水が溜まって呼吸がしづらくなっていて、それに伴い食欲も落ち、栄養失調状態になっていた。
その場で肺に管を入れ水を抜き、そのまま丸1ヶ月入院となったのであった。

病院は家から車で30分弱、母の荷物を届けるのに1ヶ月の間で何往復も運転した。
勉強している余裕など全くなかった。家事も全力でして、更には仕事にも行っていた。無職で時間ありまくりな今、当時はよくやったな〜と思う。


入院から数日後、母に直接荷物を渡せる機会があり、そのとき超久々に母が泣いているのを見た。ひとりで色々不安だったのかも。いくら生命力もメンタルも鬼強いとはいえ、知らない場所で管に繋がれて痛い思いして娘に心配かけて…となったら泣いちゃうかもな。鬼の目にも涙ってやつだ。

その後、病院から検査結果についてお知らせしたいと連絡が来て、娘と一緒に聞きに行き、そこで肺の小細胞がんであると説明を受けた。
抗がん剤を使って治療すれば+1年くらいは延命出来るけど、やらなければ年内もつかどうかわからない、ステージ4まで進んでいるので手術は出来ない、ということだった。
いわゆる余命宣告だ。自分の人生にこんな場面が唐突に訪れるなんて、全く覚悟していなかった。

やるなら早い方が良いよね、ということでその場で抗がん剤治療をすることを決めた。
注意事項を聞いているときに
「感染症のリスクが上がりますのでナマモノは摂取しないようにしてください」
と言われた瞬間母の顔を思わず見た。母の好物は刺身と寿司である。絶望の表情が垣間見えた。医師が一旦席を外したときに

「私、もうお寿司食べられない…ってコト!?」

と泣きそうになっていたのが忘れられない。
こういう事態に至っても己の欲に忠実な母、抗がん剤が合っていたのか今はめちゃめちゃ元気になり、寿司も刺身ももりもり食べています。やはり生命力が強すぎる。


最初は3種類投与していた抗がん剤も今は1種類になり、点滴のために入院する必要もなくなった。退院後も5月までは4週に1回3泊4日で入院していたのだ。
今は月1で通院するのみとなった。

一時は完全に抜け落ちた髪の毛も今は大分生え揃って、帽子を被らなくても全然平気で外出している。
近所のスーパーくらいなら自力で車を運転してひとりで買い物にも行く。
食欲もめちゃめちゃあるので体重も増えたようだ。元気になって本当に良かった。
家族ひとりの健康は家族全員の生活を拘束するということを身をもって知った一年だった。


ここ数年、というか彼氏と交際を始めてから長らくの間、今後彼氏と生涯を共にするにあたって彼氏との子を持つのかどうか、ということについてずーーーっと悩んでいた。

好きな人の遺伝子を残したいという気持ちと、彼氏のめっちゃいい顔の遺伝子を受け継いだ子どもが見てみたいという気持ち。
それに伴う人生のリスク、体力の低下、予算、時間と年齢の問題、そもそも妊娠出来るかどうかも分からない、不妊治療を受けるのか否か、それに一体いくらお金が掛かるのか、一旦ゴールに辿り着いた子育てという長い長いマラソンがまたスタート地点に戻ってしまうという恐ろしさ、20歳近く離れたきょうだいを持つことになる娘の気持ち。
不安要素の方が確実に多い。

毎日毎日吐きそうになるほど考え続けたが、やっぱり彼氏の子が見てみたい!という気持ちになる日もあれば、いや普通に無理やろこれからまた20年子どもに人生捧げられるか?と冷静になる日もあった。
全然答えが出なかったな。どんな言い訳を見つけても、子を持たない理由、子を持つ理由、どちらにも足りなかった。

昨年あたりからようやく「子どもがいなくても2人で仲良く暮らして行けたらそれでいいかな〜」と思えるようにはなったが、突発的に「やっぱり彼氏の顔整い遺伝子は残したい」という気持ちに襲われ、うーんうーんと悩み続ける日々はなかなか終わらなかった。
可能性があればそれに賭けてみたいと思うのが人間の性というものである。


それが今では、もう完全にすっぱりと諦めが付いた。可能性がほぼ無に近付いた。
なぜなら母ががんになったからである。

母の余命があとちょっと→今後何年生きられるか分からないが一人っ子の私が最期を看取らなければならないのは確実→娘が高校を卒業したら彼氏と一緒に住む予定だったがそれも実質不可能になった(母をひとりには出来ないし、娘に母の面倒を見させるわけには行かない)→しばらくは彼氏と籍も入れられない→ということは子を作る余裕が完全にゼロ、解散!!

というわけだ。
これに関しては私にはもうどうしようも出来ないし、そのどうしようも出来ない事実が「子を持たない理由」になってくれて本当に良かったと心から思っている。
顔整いの遺伝子に思いを馳せると悔しい気持ちはゼロではないが、でもしょうがないよな、誰のせいでもないし、と思える。

この「誰のせいでもない」というのが大事で、もっと言えば、禁煙出来なかった母に原因が収束していくので母のせいにも出来る。
彼氏には子を持つ人生を与えられなかったけれど、私はそこに責任を感じても仕方ない。私は悪くないんだから。

私は自己肯定感が何度も地の底に落ちた人間なので、何でもかんでも自分のせいにしてめちゃめちゃ悩んでしまう。それこそ悩んでも仕方のないことまで無限にむにゃむにゃ悩む。
だからこそ自分の責任外に理由が生まれたことにより、やっと長年にわたる悩みから解放されたのであった。
今はめちゃめちゃ気持ちが軽い!自分の人生全力で楽しもう〜!と思える。最高〜!!


しかし可能性が0.000000…%であっても完全な絶対というのはこの世に存在しないので、もし彼氏との子が私の肉体を選んで発生することがあれば、それはもう一切悩むことなく受け入れる。
それこそめちゃめちゃ生命力の強い子どもだな…と思うし顔が見てみたい。
今ならある程度の心の余裕もあるだろうし、子育ても楽しめるかも?(ワクワク)

みたいなのはただの欺瞞で、全力で向き合わなければならないと思う。私は何の占いでも「完璧主義者」という結果が出る人間だ。来るなら来い!という気持ち。

とはいえ明日から39歳、この年齢だと妊娠率より流産発生率の方が高くなるらしいし、自然妊娠はほぼ不可能であろう。まだ見ぬ命に思い悩むよりも、今そこにある娘の存在を大切にしたい。


これは娘が誕生日プレゼントにくれたジェラピケのカーディガン



39歳か〜
20年後はアラ還、30年後はアラ古希だな…
と思っていたら人生はまじで秒である。同じ家に住むのはもう少し先になりそうだけど、今後の人生は彼氏と仲良く平和に暮らして行きたい。


38歳最終日の記録
平均睡眠時間 夜5時間前後+午前中2時間半前後
身長 155cm弱
体重 46.4kg
今日の勉強時間(21時現在) 5時間半くらい
今日食べたもの ホットケーキ、桃、ヨーグルト、母が焼いてくれた肉、タコときゅうりとわかめの和え物
最近嬉しかったこと シャインマスカットが1000円で買えた
彼氏との現在 昨日だらっと過ごすデートをしてひたすらどうでもいい話をしてゲラゲラ笑って楽しかった
明日(誕生日当日)何する? いつも通り変わらず勉強する、サクッと模試でもやろうかな〜
39歳の目標 健康で元気に過ごしたい、不労所得がほしい

これは38歳最後に作ったパスタ(9/18)


おわり


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