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【Dear my Amnesia】第一話

第一話 健忘症のシスター

 天使と悪魔が争っていた時代。
戦況は天使側の有利。否、天使側の完全勝利だった。
人間の血を啜り、性を貪り、その魂を食らう悪魔の存在を天使達は決して許しはしなかった。
やがて悪魔の長たる魔王の城は陥落し、悪魔達は人間界へと逃げ果せた。
 上空の暗雲に紛れながら傷だらけの翼を羽ばたかせている彼も、その一人だった。
しかし彼は他の悪魔達とは違い、故郷を居心地の良い場所だと思った事は一度も無かった。幾度も死を選ぼうとしていた事があった程だ。
だがその場所が堕ちた途端に恐怖と絶望が彼の心を支配し、天使の追撃を受けながらもこうして死に抗っているのだった――。

 ――太陽が山から顔を覗かせた頃、そこを少し登った先の古びた教会から、美しい歌声が麓の町を陽光と共に包み込んだ。
顔に幼さが残るシスターの聖歌を前に、町民達が祈りを捧げる。その様子を一人の若い神父が、聖書を片手に静かに見守っていた。
 ミサが終わり、町民達がぞろぞろと日常へと戻る中、にこやかに見送るシスターに一人の老婆が話しかけた。

「シスターさん、最近修道士さんを見かけないね」

突然声をかけられた事に驚いたのか、シスターは目を丸くして老婆を凝視したまま何も言えないでいた。

「ラシー修道士だよ。シスターさんと歳の近い若い男の子さ。いつも仲良くしていたろう?」

続けて老婆はそう言うと、シスターは困った顔で目を泳がせていた。何かを言おうとしているが、上手く言葉が思いつかないらしい。
するとシスターの背後から先程の神父が現れ、彼女の肩を抱くと代わりに老婆の問いに答えた。

「ラシーは帰郷しました。母が不治の病に伏せられたとかで、いつ戻るかは……」
「おや、そうでしたか。ありがとう神父さん」

その回答に納得した老婆は、軽く頭を下げて教会を立ち去った。
それを笑顔で見送る神父とは逆に、シスターの表情から影が差し始めた。

「……お兄ちゃん」

 兄と呼ばれた神父が振り返ると、シスターは悲しい表情で俯いて言葉を続けた。

「私は……、また誰かを忘れちゃったんだね」

シスターの目は潤んでいた。神父は妹の両肩を掴むと、優しい笑みを向けた。

「気を落とすな。ラシーはお前の病気の事も知っていた。きっと分かってくれる。悪魔達が悪さをしなくなれば、良い医者も探してやれる。もう少しの辛抱だ」

神父はそう言うと、シスターの頭を撫でた。
 この兄妹の名は、神父はトーム、シスターはオフィーリアと言った。
妹のオフィーリアは健忘症で、会った人の事を忘れてしまう事が度々あった。
そして今回も一人、ずっとこの教会に居たらしい修道士の事も忘れてしまったようだ。
しかしラシーという修道士の事を訊こうにも、兄のトームはミサが終わればすぐに麓の村や町へ繰り出さなければならなかった。
 天使の襲撃により多くの悪魔達が人間界に逃げ込んだため、トームは神父としてそれを祓う仕事があるのだ。
彼自身も、両親の仇に対し深い憎悪がある為、勤勉に悪魔祓いを続けて最近では夕方まで帰って来ない事も多い。
そしてトームの強さは悪魔達に広く知れており、力の無い妹は狙われないよう聖なる力で守られた教会に置いておくしかなかった。
 オフィーリアはいつものようにトームを見送り、戸締まりと教会に誰も残っていない事を確認すると、自室の窓を開けて大きく息を吸った。

「ナイちゃん、おいで!」

そして外へ向かってそう呼び掛けると、雲の切間から幼女の姿をした天使ナイツェルが差し込む陽光と共に降りてきた。
ナイツェルは窓からオフィーリアの部屋に入り、彼女もまた教会に誰も居ない事を確認すると、肩を竦めて心配そうに言った。

「お姉ちゃん、どうしても外へ出るの?」
「すぐ近くだよ? 会わなくなっていく内に、あの人の事も忘れちゃうかも知れないもの」

 ナイツェルはオフィーリアとトームによく懐き、オフィーリアを悪魔から守る存在だった。
その為オフィーリアの病や心情もよく理解していたが、トームに叱られる先が見えるのもあり首を縦に振れなかった。
しかし、オフィーリアもナイツェルの扱い方はよく知っていた。頼み事を聞いてくれない妹分に、欲しがっていた人形をちらと見せつけた。

「折角お兄ちゃんに買ってもらって、良い子のナイちゃんとこれで遊ぼうと思ってたのに……残念だなぁ……」
「こ、今回だけだからね!」

その幼さ故に遊び心が勝ってしまったナイツェルに、オフィーリアは微笑んで優しく抱き締めた。
 勝手口のドアを開けて、悪魔の気配が無い事を確認すると、ナイツェルはオフィーリアに合図をして二人で外へ出た。

「ねぇ、前も訊いてたらごめんね?」

 森へと向かう途中、オフィーリアは周囲を警戒しているナイツェルに声をかけた。
健忘症である彼女は、既に聞いていた事の筈の情報が抜けている可能性を考えると、質問する前にどうしてもそう前置きしてしまうのだった。

「悪魔って、そんなに怖い人達ばかりなの?」
「そりゃそうだよ! 血を吸ったり、やらしい事したり、魂を食べちゃう怖い奴等なの! だから本当は、悪魔に恨まれてる神父様の妹がこんな所に来ちゃダメなの!」

ナイツェルは少し怒った様に答えた。以前にも説明した話でもあったが、オフィーリアの悪魔に対する警戒心の薄さに少し危機感を覚えているようだった。
すると森の奥から女性の呆れた声が聞こえてきて、ナイツェルはドキリとした顔で硬直した。

「それを外で大声で話しては、隠れて来た意味が無いでしょう」

そう注意した女性は、森の中でも樹齢千年は越えているであろう大樹の根元で静かに腰掛けていた。
少し透けた身体と樹の精霊と思わせるようなその美麗さから、兄妹とナイツェルからは千年樹と呼ばれていた。

「オフィーリア、此処へ来てはいけないと言った筈ですよ」
「ごめんなさい千年樹様、どうしても相談したい事があったのです。お兄ちゃんにはとても話せないし、ナイちゃんにも難しい話だと思って……」

それを聞くと、子供扱いされたと感じたらしいナイツェルがまた怒った。
千年樹は再び溜息を漏らし、話が終わったらすぐに帰るよう言いつけると、オフィーリアは安堵の笑みを浮かべて口を開いた。

「千年樹様……私は、悪魔を殲滅に追い込む必要は無いと思うのです」

ナイツェルは今度は大口を開けて驚いた。しかし千年樹は凛と冷静のまま、その理由を訊いた。
 悪魔の特徴として、血液を啜る『吸血型』、性を貪る『淫魔型』、魂を食らう『契約型』の三つに分類される。
中でも契約型はその魂と引き換えに対象の願いを叶える事から、希少なれども最も強力な種として危険視されている存在である。
そしてそれぞれの悪魔が好んで食べるのは、殆どが人間なのだ。
特に上級とされる強力な悪魔達は、ほぼ人間と同じ形で優れた器量を持っている為、正体に気付かないまま食糧にされてしまう被害者も多い。
トームから教えられた事の中で、オフィーリアの記憶に残っている数少ない知識だった。

「でもそれは、その人達が生きる上で仕方無くやっている事でしょう? 本当は人間を襲いたくない人も居るんじゃないかと、そう考えてしまうのです。やっぱり私はおかしいのでしょうか?」

 不安そうな顔で見上げるオフィーリアに、千年樹は少しだけ表情を和らげた。
そして困った様子でおどおどしているナイツェルを優しく撫でて、静かに口を開いた。

「いいえ、悪魔にも個々の性格があります。貴女の言うように、人間との和睦を求める悪魔も少なからず居る事でしょう。しかし、全ての悪魔がそうであると考えるのは浅はかです。大半は貴女のような純粋で心優しい者に寄り付き、甘い言葉で惑わせ垂らし込める者達です。貴女に何かあれば、トームやナイツェルがどのような顔をするか……今一度考えてごらんなさい」

千年樹の回答にオフィーリアは返す言葉も無く項垂れたが、相談をした事で少し心が軽くなったようだった。
 日が傾き、雲行きも怪しくなってきた。雨が降る前に帰るよう千年樹は言うと、オフィーリアは一礼して去り際にまた一つ質問をした。

「千年樹様、私にとってお母様は貴女だけです。だから、また此処へ来ても良いですか?」

千年樹は驚いた顔をして、それから呆れた様に苦笑してまた溜息を吐いた。

「随分と狡猾に育ってしまったものですね。娘にそんな事を言われて、拒む母が何処に居ましょう?」

その返事を聞いて、オフィーリアは悪戯っぽく微笑んだ。
 ナイツェルに教会まで送られた後で、オフィーリアはすぐに夕食の準備を始めた。
途中まではナイツェルも手伝っていたが、天使としての使命もある彼女は、終日オフィーリアと共に居る事は出来なかった。
オフィーリアはその事情を理解していたので、ナイツェルを引き止めたりはしなかった。だがいざ一人になって家事も終えると、強い孤独と兄を手伝えない自分の無力さにまた心を支配されてしまうのだった。
 気付けば雨が降っていた。雷も鳴っている。強い風が吹く事を危惧したオフィーリアは、教会の雨戸を閉めて回った。
その時、落雷とは違う妙な音が聞こえた気がしてその方向を見た。途端、雷鳴と共にガラスが割れたようなが大きな音が鳴り響いた。
思わずオフィーリアは悲鳴を上げてその場から伏せた。そして恐怖が収まらないまま、音の原因を確認をする為に礼拝堂へと無理やりに歩を進めた。
どうやら正面のステンドグラスが雷によって割れてしまったようだったが、そのすぐ下にある教壇の前に何かが僅かに蠢いているのが見えた。
オフィーリアは目を見張った。血を流し唸り声を上げているそれは、尻尾と翼と角が生えた人間の形をした男だった。

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