『片側の熱量』【月ノ夜書店】文学フリマ東京38出品作 試し読み
■ プロローグ ■
霧のような細い雨が降っている。
路面は濡れていたが、バイクで走り慣れている自分たちには関係ないと、蓼原航は走りに意識を向けた。山奥にあるサーキットから続く道は、平日だということもあって車通りはほとんどない。だから、普段と変わらず、少しスピードを出していた。
見慣れたライムグリーンのEX‐9Rを追いかけながら、明日のレースに気持ちを馳せる。次こそ目の前の相手を抜き去りたい。今度こそ先頭でチェッカーを受けたい。常にそう思いながらも、今の並びと同じで、蓼原はいつも追いかける立場になってしまう。いつか渡瀬貴明に実力で勝ちたい。それが蓼原の願いだった。
ふいに道路を小さな動物が横切った。猫だ。
その瞬間、目の前のEX‐9Rがバランスを崩した。ライムグリーンのマシンが横切るように滑っていく。蓼原は一瞬の判断で黒のZRX1100のコースを変え、少し先で止めた。すぐさま自分のマシンから降りると、投げ出された体に走り寄った。アスファルトに伸びる手は、ピクリとも動かない。
心臓がドクリと嫌な音を立てた。
だが、次の瞬間、むくりと起き上がった渡瀬が、大丈夫とでも言うように腕を挙げた。蓼原はホッと息を漏らす。
「タカ、大丈夫か?」
声に反応するように、渡瀬がシールドを上げた。
「わりぃ。ミスった」
渡瀬は立ち上がり、埃を払うように自分の全身に触れた。蓼原はシールドを上げると、異変がないかじっと見つめる。
「怪我は?」
「大丈夫だろ。痛いところもねーし。猫は轢いてねーよな?」
周りをきょろきょろと見回してそう告げる渡瀬に、蓼原は眉を寄せて首を振った。
「猫の心配より、自分の心配しろよ」
そう言いながらも、渡瀬らしい発言に蓼原の表情は緩む。
「大丈夫だって」
視線を向けた渡瀬が、いつものように笑う。
「……でも、念のため病院に行くぞ」
渡瀬が明らかに眉をしかめた。
「めんどくせー」
「めんどくせーじゃねーよ。何もないなら何もないでいいだろ。まだ、この時間だったら、病院だってやってるところあるだろ」
「……えー」
「コケたのに診察受けてないって話したら、監督怒ってレースに出るなって言うだろうな」
レーサーの資本は、その体だ。怪我でもあれば、レースにも影響してくる。しかも、明日が本番だ。監督が転倒したことを知って黙っているとは思えなかった。
「わーったよ。行くから」
「俺もついていくからな」
信用してないと言いたげな蓼原に、渡瀬が肩をすくめる。
「オカンかよ」
「うっせーな。お前がズボラ過ぎるんだろ。ほら、行くぞ」
「ハイハイ」
軽い返事で、渡瀬が自分のマシンに近づいていく。
いつもと同じ後ろ姿に、蓼原は安堵した。
今日がレースの日ではなくて良かった。そういう気持ちも含まれていた。
あの時の気持ちを、十年以上経った今でも覚えている。
蓼原は十九の時までプロのバイクレーサーを目指していた。同じ年の渡瀬はチームメイトでもあり、ライバルでもあった。
ただ、渡瀬に勝てたことは一度しかない。
その時も、実力で勝ったわけではなく、マシントラブルで勝てただけだった。
だから、先にプロになるのは間違いなく渡瀬で、もしかしたら自分はプロレーサーの夢を諦めるかもしれないと思ってもいた。ただそれは、やるだけやって駄目だったら、そういう気持ちでいた。
だが、蓼原は十九の時にプロのレーサーになる夢を捨てた。
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