デビル・ガール・プロジェクト

私が死んでしまったのは確かなようで、とりあえず訪問すべきは愛した人だろう。
バスのように北風を2度乗り継ぎ、星の吊り革にぶらさがり、懐かしい土地に颯爽と降り立つ。

東京。私を生み、私を活かし、私を殺し、私を埋めた街。

雲をスライドさせて彼を発見。
健康上は問題なさそうだったが、私を満足させるような表情ではなかった。
いっそのこと、全部忘れてあっけらかんとしていれば良かったのに。
心の底から笑って、泣いて、人生を謳歌していれば良かったのに。
彼の表情はどこか過去の痕跡を隠しきれなくて、じんわり滲む悲しさが痛いくらいに突き刺さった。

半歩進んで、思わず逃げ出す。
つま先が歌舞伎町の外灯に触れると、私はこの世界に降り立ったことを後悔した。

彼は、私と同じ時間を生きていたんだ。

そう思うと、耐えきれなかった。
私はイチョウの木を踏み台に、平泳ぎの要領で大きく空へと飛びだした。
秋風が涙をさらって、コンクリートを濡らす湿度になり、蒸発して雲になった末に、東京に長い長い雨を降らした。

1週間が経ち、ようやく泣き止んだ頃、私のかかとの下で誰かがぽつりとかつての名前をつぶやくのを聞いた。
喧嘩仲間だったあいつが、神妙な面持ちでビールを口に運んでいる。

「信じられないよな、もうこの世にいないなんて」

ちょっと待ちなさいよ、信じられないのはこちらの方。
だって理不尽すぎる。
振り向いたらトラック。次の瞬間、私ぺちゃんこ。
イスタンブル行の飛行機がかすめる音で起きたら、私は雲の上で死んでいたなんて。

その後はまるで会社員のようだった。
神様に平身低頭でお願いして、ぺちゃんこの身体を膨らましてもらい、天使とお喋りで仲良くなって下に降ろしてもらったのだ。
もう既にお葬式も終わり、家族は仏壇にお供え物をするのがやや自然な動きでできるようにはなっていた。
けれど、そもそもこの筋書き自体が理不尽だ。

「今頃俺らのこと見て笑ってたりしてな」

いやいやいや、とつっこみを入れる元気も湧かない。
笑う元気もないよ、と呟くと友人のビールの泡がほんの少し消えた。
突然、ひとつ考えが浮かんだ。

『彼はどんな人と結婚するんだろう』

死んでも私は女である。嫉妬心も人並みに持ち合わせている。
私は逆上がりのようにころころ転がりながら、ケンケンパで未来を飛び越えた。

2013、2014、2015、2016、2017…

そして数字と数字の狭間に、こぼれそうなくらい小さくて可愛らしい、彼の新しい彼女を発見した。
ショートカットに黒縁眼鏡、国会図書館あたりの草むらに生息していそうな女の子。
ふん、なかなか可愛いじゃないの。

私は一度夜の暗闇に飛び込んで空に帰り、交渉の旅に出かけた。
人の願いを叶えるのが天使ならば、人を貶めるのは悪魔以外にはいない。
半年の交渉と半年の修行の末、新しい力を獲得すると、三回耳たぶを引っ張り、渾身の力を振り絞って彼女に3つ呪いをかけた。

1つ目は、一生冷え症になる呪い。
しかし、すぐに失敗と気づくことになる。
彼と手をつないだり、ベッドで寄り添う口実を与えただけで逆効果だったから。
ぐっと縮まる二人の距離に地団駄を踏み、震度3の地震を巻き起こして、山手線をストップさせた。

2つ目は、一生扉の角に小指をぶつける呪い。
誰にでもはしたない姿をさらせばいいのだ。
しかし、これもあえなく失敗に終わった。
同棲生活で二人の仲が惰性になりかけていた頃、彼は彼女の天然な一面を発見した。
涙目でうずくまる小さな背中に、皮肉にも普段の真面目さとのギャップを見た彼。
「彼女には自分がいなくては」と実感し、足の甲にキスさせる羽目になった。

再び呪いを無駄にしてしまい、私は大きくため息をついた。
それが春一番になって関東を駆け抜け、南のどこかの島へ走っていった。
私は北斗七星からアドリア海に飛び込んで、深く深く地球の底へと潜水を試みた。
深海でハダカイワシの灯りを頼りにサンゴの森をくぐり、プレートの溝を指でなぞりながら日本海を目指す。

天使は実のところ楽天的で、楽器を弾いて歌うことくらいしかできないが、悪魔は違う。

「君はどちらかというと我々に似ているね」

海豚になった悪魔が私のぴったり隣で泳ぎながら話しかけてきた。

「世界は自分の力で操作できないという諦めを持っていて、でも人に振り向いてもらおうと躍起だ」

私は彼のために呪いを使うことは決してしない。自分が一番好きだから。
ぷはあ、とビールを飲み干した後のように息を吸うと、水上では3年の時が流れていた。
身体中に生えた鱗を1枚1枚はがし、一体となったイソギンチャクを海底に帰しながら、見慣れた二人の姿を探す。

例の彼女は結婚を目前にしながら、彼との関係に区切りをつけようとしていた。

「もう終わりにしよう」

レストランで夕食をとった帰り道、神妙な面持ちで立ち止まり、優しい彼をまごつかせている。
彼にもこの先の展開が予測できているのだ、そして原因が私にあることも。
2人そろって私に遠慮をして、まったくもって馬鹿みたいである。
彼らは勇気をもって、私をもう1度葬るべきなのだ。
私を人生に関連する何かだった、と結論づけ、放置すべきなのである。

あたりを見回すと、山の麓にモミの木を見つけた。引っこ抜く。
さらにクコの実をかき集めて、すりつぶし、特製の赤い絵の具をつくる。
そして、世界に1本の線を書き加える。
頭上で悪魔が息を飲む音が聞こえた。

「あなたが亡くなった彼女のこと忘れられないって、わかってる」

国会議事堂の彼女は、まるで喉の奥から絞り出すような声だった。

「だから、ごめんなさい」

そう言い残し、彼女は振り向いて立ち去ろうとした。
彼もその場で立ち尽くしている。痛々しいほど優しすぎるから、私を葬ることの残酷さが分かる。

ーーー今を愛するということは、過去も未来も風呂敷に包んで引き受けるということなのだ。

彼の好きな小説の一文だ。その通りだ。
彼女が彼を愛するならば、私をもその勘定に入れなければならないのだ。
この不条理な世界は、埃をかぶっていくことでしか浄化されない。
私は目を閉じ、彼との時間を反芻し、その一文を彼の心の奥に書き付けた。

そして最後の力で、人差し指を一振り。
綿あめのような淡い光が、指先から、ゆっくりと歩くように2人のもとを訪れた。
彼女の足が外灯の下ではたり止まる。
彼女の小指と彼の小指、つなぐ赤い糸がぼんやりと輝き出す。
彼とはもう一生離れられない。これが私の最後の呪い。ざまあみろ。

「でも、好きなの」

東京は今日も雨が降る。
ああ、なんて損な役回りなんだい、と悪魔が傘をもって迎えにやって来る。

「泣くのも程々にしておかないと」

2人が電車で帰れなくなる、と心の奥で呟く。
そうして私は呪いの代償として彼の氷のような手に導かれ、地獄への道を歩いていった。

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