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森林ききょうの謝罪

「申し訳ございません。私としたことが」

依頼を完遂することができませんでした。
そう言って森林ききょうは深々と頭を垂れた。
テーブルの反対側に座る母親は言葉を忘れたかのように唖然となった。

「そんな、まだ、ご依頼してからたったの34時間しか経っていないのですよ」

口を開けたまま人形のように首を振る母親は、思い直したように話し始めた。

「時間がかかるのなら待ちます。
お金が必要ならかき集めます。
娘が戻って来なくとも、真実を知ることができるならばもう何もいらないのです」

森林ききょうは母親のテーブルクロスを握る手を見つめた。
秋を迎えたばかりの樹皮の見栄えだったが、よく手入れされた品の良い手だった。

「いえ、たとえそうであっても結論は変わらないのです。
なぜなら娘さんは私の捜査の対象外だか

「おおい、待て待て」

警部はききょうの独白を手で制した。

「ききょう、君の専門は自殺だ。となれば、対象外は他殺だろう」

「残念ながら私の専門は死者の記憶だ。こちらが真実でなければ対岸に真実があるなど、そう世の中簡単なものではないよ」

やんわりと否定された警部は、いかにも不味そうなどぶ色のコーヒーを一口胃に流し込んだ。ききょうは続けた。

「母親からの依頼は、彼女がなぜ自殺しなければならなかったのか、止める策はなかったのかを解き明かすことでした。
そして遺書もありました。
悲しみのあまり、私に死の経緯を解き明かさせようとしている」

優しいご両親。磨かれたカトラリー。達筆の遺書。

「ききょう、君におあつらえ向きの案件ってわけだな」

「うん、このクランベリーのマカロンは美味しい」

まるで春を食しているようだね、とききょうはわざとらしくはしゃぐ。私はこのリズムを砕くような話し方が苦手だ、とばかりに警部はコーヒーをもう一口。

「先生、あなたならば自殺の可能性も十分に考慮して捜査を進めてくれるとお伺いしました。
それが途中で放棄するだなんて、あんまりです。娘も不本意であることでしょう」

「お母様。残念ながら、私の依頼人はあなたではありません」

「…なんですって」

「娘さんの部屋への入室を許されたとき、私の依頼人は彼女に切り替わったのです」

大量の手紙。散らかった衣服。欠けた一式。

「私はさながら机の上のスプーンだ。部品の一つでしかない。だからこそ必要だったんだ。彼女の計画を実現させるには。もう警部でもお分かりになるでしょう?」

「自殺が念入りに練られた計画の場合、身の回りは隅々まで整頓されることが多い」

「そう。全てが満たされた環境というのは夏の氷のように、ある文脈においては人工的かつ不自然です。部屋は良くも悪くも雑然としていた」

「娘は死んでいない…?」

探偵は死の匂いをさせてしまうのが厄介だよね、とききょうは笑った。そしておもむろに近くにいた女性のウェイターを呼んだ。

「忘れものだよ、私の専門外さん」

ききょうはナイフを取り出し、女性に差し出した。他の客の食事の音を背景に、絹のような柔らかい緊張が張り詰めた。

皿とフォークの触れ合う音。
咀嚼する音。
液体が喉の粘膜を零れ落ちる音。

女性はしばらく立ち尽くしていたが、たったの一度深々とお辞儀をして、探偵からナイフを受け取ると、行き交う皿の中を滑らかに厨房へと入っていった。警部は大きくため息をついた。

「…自殺に見せかけた失踪だったということは私にもわかったよ」

この案件をわざわざ付き添わせたのには何か理由があるんだろう?と警部。

「何を言ってるんだ。返り討ちにあう可能性もあるから、ボディーガードに決まってるじゃない」

あんな母親じゃ逃げ出したくもなる。それに、とききょう。

「迷惑かもしれないが、もし私が死ぬなら君に記憶を残したいんだ。君の捜査解決能力向上に微力ながら貢献できるなら、私の死も無駄ではないと言えるよね」

「おいおい名探偵さま、ご冗談を」

茶化しつつ、警部の本心は穏やかであるはずがなかった。記憶探偵が左手にまとっている包帯は激昂した母親の襲撃の跡だったから。そして傷跡は警部にひとつの決意をさせていた。森林ききょうに、友人に、何としてでも探偵を辞めてもらうのだと。

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