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シビルエンジニア ~ ハイアーゲーム ~ 序章の一部を公開

シビルエンジニア ~ハイアーゲーム~ kindle本(電子書籍とペーパーバック)で発売されました。
興味がある方のために、序章の一部を公開します。
面白いと思われた方はぜひ購入してください。


序章 二つの大志

 平成十六年三月、水元みずもと建設名古屋支店のエントランスに、招かざる客が現れた。

 ダークスーツに身を包んだ男女合わせて二十数名が、黒い波のように押し寄せてくる。

 越雲こしくも健治けんじは受付嬢の松崎まつざき美月みつきと談笑していたが、黒い行列を見るや否やただ事ではない雰囲気を感じてたじろいた。

 列の先頭に立つ七三分けの男が受付の前で足を止め、越雲の目の前に一枚の紙を突き出して無表情のまま口を開いた。

「名古屋地検特捜部です。総務担当の方をお願いします」

 ドラマで見た光景だ。強制捜査に違いない、と越雲は思った。罪になるようなことは何もしていないはずだが、足が微かに震えた。業務時間中にこんなところで油を売っていたから罰が当たったのか、越雲は自身の所業を後悔した。

「美月ちゃん、総務部に連絡して!」
 目を丸くしている松崎に声を掛けると、越雲は七三分けに「少しお待ちください」とだけ言って、エレベータで五階に上がった。

 越雲は総務部ではなく土木技術部に駆け込んだ。越雲自身が所属する部署である。

「部長、大変です。特捜が来ました!」
 越雲の言葉に、一番奥の席で座っていた細身の男が立ち上がった。土木技術部長の高橋たかはし正彦まさひこだ。派手さはないが堅実な男で、技術畑も長く土木技術部長をもう七年も務めている。

 高橋は驚嘆きょうたんの表情を見せたものの、すぐに大声で指示を飛ばした。
「みんな、今手掛けている業務に関するデータをUSBに落とせ! 今すぐにだ」

 高橋は一瞬にして全てを理解したようだ。越雲は、特捜部にパソコンを押収されれば業務が滞ってしまうからだ、と高橋の意図を察した。

 五階のフロアが慌ただしくなった。越雲は自席に座って作業を始める。土木技術部に隣接する土木部、土木見積部でも、越雲と高橋の会話を聞いて、社員全員がパソコンの画面に向かい合う。

 しかし、五分程で特捜部六名が現れた。
「名古屋地検特捜部です。動かないでください」
 気が付けば、銃を突き付けられた時のように、越雲は両手を挙げていた。なんてことだ、とつぶやく。

 越雲は水元建設が談合で強制捜査を受けた過去があることを聞かされてはいたが、まさか自分がその真っただ中に身を置くことになるとは想像もしていなかった。

 黒いスーツの男女が、手際よくパソコンやファイルを段ボール箱に詰めていく。淡々と作業が進む中、越雲たちはただそれを見守ることしかできなかった。

「こりゃ、営業部が大変だな」

 越雲の後方から、こそこそ話が聞こえてくる。そうだ、足立部長はどうなるんだ! 越雲の頭に、営業第二部長の足立あだち敏夫としおの顔が浮かんだ。

 足立は土木営業の業務担当で、公にはなっていないがいわゆる談合の窓口業務を主に行っていた。まだ建設業界に談合が根強く残っている時代で、官庁工事のほとんどが談合による調整で振り分けられていた。今回の強制捜査は、談合の捜査であることは明白だった。足立が矢面に立つことになる、と越雲は心配になった。

 越雲は東大院卒の二十八歳だ。水元建設に入社して三年間は本社の土木技術本部に配属となり、昨年名古屋支店に転勤してきたばかりだった。社会人となってから、周囲の社員は良くも悪くも『東大』というラベルを見ながら越雲に接してきた。もちろん、ちやほやされることが多かった。越雲は嫌な気分ではなかったが、説明のできない違和感が拭えなかった。『さすが東大』とか『東大だから』と言ったセリフにうんざりしていた。

 だが、足立は違った。足立だけは越雲を一人の土木技術者として付き合ってくれた。時には叱ってもくれた。よく一緒に飲みにも行った。越雲にとって、足立はよき理解者であった。

 居ても立っても居られなくなった越雲は、こっそりと廊下に出て、営業第二部のある七階に行くためにエレベータホールに向かった。

「越雲、どこへ行く!」
 走り出した瞬間、大声で呼び止められた。

 越雲が振り返ると土木部長の多川たがわ隆司りゅうじが小走りに近づいてきた。大学の先輩で、将来を嘱望されるエリートだ。
「営業部に行ってきます」
「やめとけ。今営業と絡むのはよくない。特捜に疑われるぞ」
 多川の言葉はよくわかる。部署は違えど、同窓の自分を思ってのことであろう。

「すみません」
 越雲は自分を止めることができなかった。多川の「待て」という言葉を無視して、階段で七階に昇った。足立のことが気がかりで仕方なかったからだ。

 営業第二部に行くと、スキンヘッドの厳(いか)つい顔が目に入った。足立だ。スーツ姿は一見すると、その筋の人に見えるいでたちである。談合の世界でやりあっていくには、これくらいの風貌が必要なのであろう。

 足立は、エントランスで会った七三分けの男と話をしていた。越雲は歩み寄って声を掛けようとしたとき、話を終えた二人が近づいてきた。七三分けの後ろを足立が付いていく。任意同行で事情聴取に行くのだろう。越雲が心配していたことが目の前で起こっている。

「足立部長」すれ違いざまに越雲は声を掛けた。

 足立は右手を腰の高さで軽く上げただけで、何も言わなかった。その右手は『心配するな』と言わんばかりに、ゆっくり小さく上下していた。相変わらず、厳つい顔に優しい眼だった。

 水元建設は大手ゼネコン、つまり総合建設業だ。大島おおしま建設、中岡なかおか建設、小林こばやし組と並ぶ業界最大手の一角である。ゼネコンには、ビル、マンション、タワーなどの民間工事を主に施工する『建築』と、道路、トンネル、橋、ダム等の公共工事を主に施工する『土木』があり、越雲は土木部門に属している。

 今回、名古屋市発注の公共工事の入札における独占禁止法違反の容疑で大手ゼネコンに強制捜査が入ったのだ。捜査の本丸はゼネコン各社の土木部門の幹部である。


 その夜、越雲は多川に呼び出された。応接室のソファーで硬い表情が向かい合う。

「越雲、俺たちは東大だ。何もしなくても出世する。わかるか?」多川の顔は真剣だ。もともと鋭い眼が更に鋭くなる。

「わかってます」営業第二部に行ったことを言っているのだろうと察して、越雲は下を向く。

「お前は地方支店を経験したあと、また本社に戻るんだ。それまで、経歴に傷がつくようなことはするな。リスクを冒さずコツコツと点数を稼いでいればいい。今日の様な軽率な真似はするんじゃないぞ」

 はい、としか返事ができない。自分の中で気持ちが整理できないでいた。
「談合は営業部の、特に業務担当の仕事だ。我々には関係ない。だから近寄らないことだ。触らぬ神に祟りなしってことだ」

 多川の例えが妙に腹立たしく感じられた。確かに、談合に絡んでいるのは一部の社員だ。だが、それでいいのか。俺たちには関係ないのか。足立が業務担当で談合の窓口をしていることは、公にこそなっていないものの、うすうす知っている社員も多いはずだ。その足立に罪を着せて、知らぬ存ぜぬでいいのか? 越雲は自問していた。

「二年もすれば、俺は本社に戻って次のステップに移る。将来お前を引き上げてやるから。それまでは、だぞ」多川は越雲を睨みつけた。
 越雲は苛立ちを感じながらも頷いた。


 寮に帰った越雲は寝付けなかった。足立の優しい眼が頭から離れないのだ。今頃、足立部長はどうしているのだろう、と思いを馳せながらベッドに横になっていた。

 談合なんて、何でこの世に存在するのだろう。建設業界のために公共工事というパイを仲良く分け合うための必要悪だということはわからないでもない。しかし、バブルが崩壊してこの不況の時代に、分け合うパイも限られているではないか。このままではじり貧で、業界全体が衰退していくのではないのか。そうだ、技術で勝負すればいいのだ。そのために土木技術者がいるんじゃないか。そう言えば、足立部長もそんなことを言っていた。

 越雲の頭は徐々に整理され、自分なりの結論を導き出していた。
 談合なんかに手を染めず、技術と価格で勝負すればいい。俺にもっと力があれば、会社を変えることができるのに……、と思ってハッとした。多川の言葉を思い出したのだ。東大というラベルを武器に出世すればいいのだ。

 越雲は大志を抱いた。


「五、四、三、二、一、点火!」
 女性の声のアナウンスが場内に流れた。

 次の瞬間、ドドドドーンというけたたましい轟音とともに爆風で体が押され、地面がわずかに揺れた。ここにいる者たちにとっては、見慣れた光景だ。

 ここは静岡県にあるトンネルの工事現場である。トンネルを掘削するために、発破で岩盤を切り崩したのだ。トンネルはすでに百メートルほど掘られていて、幅十四メートル、高さ八メートルほどのトンネル坑口には、分厚い鉄の扉が設置されしっかりと閉められていた。そのため、外から発破の瞬間は見ることはできなかったが、地響きから相当の爆発であったことが想像できた。

 黄色いヘルメットをかぶった五人の屈強な男たちが、場内の隅にある待避所から春の日差しが降り注ぐ坑口前にぞろぞろと出てきた。彼らはトンネル掘削を専門に行う作業員で『坑夫こうふ』という。坑夫の一人が、坑口前にある大きな筒状の送風機のスイッチを入れた。

 ウーンという音とともに送風機が回りだし、ダクトを通じて坑内に大量の空気が送り込まれる。さらに別の三人が坑口の大きな鉄の扉を開けると、送風機で送りこんだ空気に押し出されるようにして、トンネル坑内から灰色に濁った煙が出てきた。火薬特有の硫黄化合物の臭いが鼻を衝く。花火の煙のあの臭いだ。

 坑内の換気が終わると、坑夫の三人は重機に乗り込んだ。最初に人の背丈より大きなホイールのタイヤショベルがすごいスピードで坑内に入っていき、二十五トン級の重ダンプが二台、そのあとに続く。重ダンプにはもちろんナンバープレートは付いていない。工事専用の巨大なダンプだ。

 タイヤショベルは発破で切り崩されたズリをショベルですくって重ダンプに積み込み始めた。

『ズリ』とは、発破で粉々になった岩盤や土砂のことである。重ダンプの大きな荷台はあっという間にズリでいっぱいになり、もう一台の重ダンプと入れ替わると、ゴォーというエンジン音を立てて坑外のずり仮置き場に向かった。二台の重ダンプはタイミングよく交互に入れ替わり、タイヤショベルはひっきりなしにズリを積み込んだ。その芸術のような連携プレーは淀みなく繰り返され、一時間もしないうちに大量にあったズリは全てなくなってしまった。

 タイヤショベルと重ダンプが坑外に出ていくと、竹中たけなか昌幸まさゆきが坑内に入って行った。グレーの作業着姿で白いヘルメットをかぶり防塵マスクを着用している。大阪出身の三十二歳で、トンネル工事の施工管理を行う水元建設の社員だ。背の高い竹中の後ろには、一回り小柄な男が伸びをしながら付いていく。

 竹中は切羽きりはを念入りにチェックし、地質の状況を野帳に記録した。

『切羽』とはトンネルを掘っている最先端のことを言い、掘削直後は岩盤がむき出しになっている。そのため、地質が確認できるのだ。トンネル工事の管理で最も重要なことは、地質の変化を見逃さないことである。事前に地質調査はなされているものの、地表からの調査には限界があるため、掘りながら地質を確認し設計を修正していくのが常であるからだ。地質の変化を見誤ると、岩盤が崩壊して大事故につながることもある。竹中は工事管理者として、毎日切羽を見て地質を確認しているのだ。それが土木技術者の仕事である。

 竹中は手際よく照明を段取りし、デジタルカメラで切羽の写真を数枚撮った。
「先輩、切羽が良くなってきましたね。これで崩壊のリスクは一安心といったとこですか」野帳やちょうにメモをとりながら、竹中が後ろをついてきた男に言った。

「気を抜くなよ。まだ安心はできん。亀裂の間隔が細かい」
 答えたのは工事主任の古市ふるいちあきらだ。防塵マスクで口元は見えないが目は眠そうに見える。

 竹中が防塵マスクを手ではずし「ヤスさん、オッケー!」と大きな声で坑夫たちに合図をすると、彼らは『待て』の状態から解放された犬のように急に慌ただしく動き出した。竹中たちの作業をイライラしながら待っていたのだろう。

 坑夫はトンネルを掘った延長で給料が決まる歩合制だ。彼らは安全のためとは言え、作業が中断することを快く思っていない。作業再開を待っている間、札束が消えていく光景を思い浮かべていたのであろう。

 坑夫たちは、トンネル壁面を補強する支保工という作業に取り掛かった。トンネルは、NATMナトムという工法で施工されていて、二交代の昼夜作業で一日に四~六メートル掘り進めていくのである。

 竹中たちが坑外に出ると温かい春の空気が迎えた。二人は防塵マスクを外して新鮮な空気を吸う。遠くの方でうぐいすが鳴いている。竹中が山の方を見上げたとき携帯電話が鳴った。古市の携帯だった。古市は携帯電話で短いやり取りをしたあと、竹中の方を見た。

「所長が戻って来いって。俺の転勤が正式に決まったらしい」先ほどまでの眠そうな顔とはうって変わって真剣な表情だ。

「足立部長が言っていた東京支店への転勤ですね。おめでとうございます。栄転ですね」

「そう持ち上げるな、くすぐったい。お前の昇進の結果も出たんだろう。すぐに戻るぞ」

 竹中は古市とライトバンに乗り込み、急いで現場事務所に向かった。


 二人はクリーム色の大きなプレハブの事務所に戻ると、足早に執務室の奥にある応接室に向かった。応接室には作業所長の赤木あかぎおさむが待っていた。

 赤木は四十八歳だが、白髪で顔にシワが多く五十代後半くらいに老けて見える。現場たたき上げのベテラン所長だ。シワの数は苦労の数と比例しているのであろう。神戸出身で関西弁が抜けない生粋の関西人である。大阪出身であるのに関西弁が出ない竹中と対照的だ。長らく大阪支店で現場を張っていたが、新東名高速道路の大型トンネル現場の作業所長として抜擢され、名古屋支店の配属となっていたのであった。

「二人とも、まあ座って」赤木はソファーの方へ眼を向けた。
「さっき連絡が入ったんやけど、足立部長が本社に古市君のことを推薦していた件が通ったみたいや。四月から東京支店の大現場の次席やで。おめでとう」赤木の顔のシワが増える

「ありがとうございます。本当に身に余る光栄です。しかし、地方支店しか経験のない私が、東京でやっていけるか心配すよ」古市は少し苦笑いをしながら頭をかいた。

 古市は東京都立大学卒で、竹中の四つ年上の三十六歳だ。三十六歳で大現場の次席になることは、水元建設では破格の出世であった。大学時代に東京で生活していた古市は都会知らずの田舎者という訳ではないはずだが、エリートたちの集まる東京支店に不安を感じているのであろう。

 東京を知らない竹中にとっては、東京支店はまるで水元建設の伏魔ふくま殿でんのように感じる。

「君やったら大丈夫や。名古屋支店のエースとして送り込むんや、やっていける。君には将来当社の土木を背負ってもらわなあかん。東京で出世してき!」

「私のような者がどこまでできるかわかりませんが、期待に沿えるよう頑張ります」古市は深く頭を下げた。

 竹中は声には出さなかったが、尊敬する先輩の出世を心から喜んだ。能力のある者が出世する、全うなことだ。竹中は古市の有能さを十分知っていた。

「それと‥‥‥」赤木が竹中の方を見た。

 竹中は自分の昇進の話が来ると身構えた。

「竹中君。残念やけど、君の工事主任昇進はならんかったそうや。足立部長が、推薦しておきながら力足らずで申し訳ないと言うてた。今度直接話に来るって」赤木の顔が一転、曇った。

 竹中は頭が真っ白になり、口を動かすことができなかった。工事主任に昇進できるものと思ったいたからだ。ここ数年の努力は誰にも負けることはないと自負していた。

「なんで、竹中がダメなんですか!」隣の古市がすぐさま大声を上げた。

 赤木は黙って視線を落とした。

「竹中の実力は誰もが知っているはずです。それに実績も残している。竹中が上がれないんだったら、来年度は誰が主任に上がるんですか?」古市は身を乗り出して赤木に詰め寄る。

「まあ、落ち着いてや、古市君」赤木は古市を宥めた。

「七尾でしょ。同期で東大の」

 竹中の言葉に赤木の体がピクリと動いた。

 竹中は自分の意志とは無関係に口が動いていた。目の前にもう一人の自分がいて、勝手にしゃべっているような感覚だ。竹中は目の前の自分はいったい何者だろうと思った。こいつは何を言っているのだ。同期のことなど関係ないではないか。もしかして嫉妬しているのか、東大という学歴に。

「そうみたいや」赤木は竹中の方を見て言った。

 竹中の推察は当たっていたようだ。

 勢いよく抗議した古市であったが、七尾と聞いて歯ぎしりしながら口をつぐんだ。七尾ななお英樹ひできは竹中の同期で東大院卒だ。岐阜県にある橋梁の現場に所属している。しかも、支店の全現場を取り仕切る土木部長の多川も東大だ。学閥の引きがあることは明白だ。古市も、いくら竹中が優秀であろうと東大院卒が相手ではどうしようもないと思ったのだろう。

「仕方ないですね。次年度、頑張りますよ」竹中は何とか自分の意志を取り戻した。

 竹中は地方大学出身だ。バブル崩壊後の不況の時代に、大手ゼネコンの水元建設に入社できたことだけでもすごいことだ。竹中はそれを自覚していた。水元建設に拾ってもらったとさえ思っていた。水元建設に入社してからの竹中は、一流大学の先輩たちの足手まといになるまいと、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。資格取得のために勉強もした。これまでの人生で最も勉強したと思えるほどだ。今では、支店内でも技術面で一目を置かれるほどになっていた。

 これだけ実力をつけたのに学歴には勝てないのか、と竹中は思った。それはそれで仕方ない。また、明日から淡々と業務をこなすだけだ。竹中の心は、怒りと不満と切なさが折り重なった何とも言えない感情に支配されていた。


 定例の午後一番の打合せが終わったあと、竹中は隣の席の古市と話をしていた。

「竹中、すまんな。お前が主任に上がれなかったのは俺のせいだ。足立部長は、俺を大現場の次席に押し込むのが精いっぱいだったんだと思う。いくら足立部長でも、前例のない二つの推薦を押し通すのは無理だったんだろう」古市は申し訳なさそうな表情だ。

「先輩、何を言ってるんです。先輩の出世は先輩の実力。俺が主任に上がれなかったのは俺の実力が足りなかったからですよ」竹中はぎこちない笑顔を返した。もちろん自分のことは本音ではない。
「それに、三十二歳で主任と言ったら最年少でしょう。恐れ多いですよ、俺には」竹中は冷静を装った。

「すまん」古市はデスクの上のマグカップを睨みつけた。

「それにしても足立部長には頭が上がりませんね。営業部長なのに現場の私たちのことまで考えてくれるなんて」竹中の顔に本来の笑顔が戻った。坊主頭の厳つい顔が頭に浮かんだ。

「そうだな。足立部長は若い力で水元を変えてくれと言っていたよ。自分ができなかったことを俺たちに託したいんじゃないかな」

 営業担当の部長が現場の人間の人事に口を出すことは珍しいことであった。土木の現場は土木部の管轄であるからだ。足立は営業担当でありながら現場をよく回っていた。若手社員とコミュニケーションをとり、能力のあると見込んだ社員を人事に推薦していた。足立は、いいところは褒め、至らぬところは熱心に指導していた。

 竹中は努力で積み重ねた確かな技術を褒められ、感情を表に出さず冷徹なところを指摘された。冷静なのはいいことだが、冷静すぎるのは人間味がないとのことだった。
 古市に対しては、決断力と行動力を高く評価していた。だが、上司に遠慮なく意見しすぎるところを指摘した。それは良識のある上司に対しては有効だが、人の意見を受け入れない上司の場合は逆効果だと窘(たしな)めた。

「俺たちに託す? 足立部長にできないことってあるんですか。なんでもできちゃう人じゃないですか」竹中は肩を上げた。

「いや、そうでもない。これは俺の想像だが、足立部長は建設業界から談合をなくしたいんじゃないかな。業務担当となってそれをひしひしと感じているんだと思う」

「価格勝負ってことですか?」
 竹中は、それはそれで大変なことだと思った。低価格で受注して苦労するのは現場だからだ。

「価格だけじゃないよ。足立部長は技術と価格で勝負する時代が来るって言ってたよ」

「それはいいですね。技術勝負じゃ負けませんよ。技術の水元を見せてやりましょう」竹中は胸を張った。

 竹中がそろそろ現場に出ようと立ち上がったとき、所長室から赤木が血相を変えて飛び出てきた。

「支店に特捜が入ったみたいや! 足立部長が取り調べで連れていかれた」
 竹中は、まるでハンマーで頭を殴られたかのように目の前が真っ暗になった。

 平成十六年三月の出来事である。


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