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ちびまるこちゃんのこと

この年になって、つくづく思うのだが、ちびまるこちゃん、もといさくらももこ先生は本当に偉大な人だったんだなと。そんなことはみんな知っているよって思うのだけど、でも言わずにはいられない。

私が小学生の時にはちびまるこちゃんが大ブームだった。アニメも始まっていたし、グッズもたくさんあってなんなら今でもちびまるこちゃんのフェイスタオル持っている(30年も前のものと思うと、いろんな意味でちょっと複雑な気持ち・・)

私なんかがいまさら言わなくても、さくらももこ先生は国民的な漫画家&作家の一人なんだけど。でも、この年になって本当に感心するのは彼女の感性のみずみずしさについてである。

私が大好きなエピソードの一つに「まるちゃん、マラソンが嫌で仮病をする」の巻(ごめんなさい 正式名称はわかりません。) がある。

あらすじ

マラソン大会の練習があると知って、外は寒くってどうしても学校に行きたくないまるちゃん。少しうそをついたら、思いの外仮病で休めることになり喜ぶのだけど、①その日の給食にプリンが出る予定 ②放課後にあこがれのヨーヨーチャンピオンが来る予定 というのを思い出して、激しくまるちゃんは後悔する。オチは、どうしてもチャンピオンを一目見たいまるちゃんが、出かけようとするところで「まるちゃんを心配して」お見舞いに来たたまちゃんやクラスメイトに見つかる・・という他愛ないといえば他愛ない一日。

でも、さくら先生はこの結末を最高にスリリングでなお話に仕立てていた。母親に仮病を疑われないように焦るまるこ、プリンが食べられないと知って心の底から悔やむまるこ、そしてヨーヨーチャンピオンに会うために危険を冒すまるこ…。(ちなみに各エピソードの中で、同時にクラスメイトがまるこを心配したり案じたりするやさしさが描かれ、見事な対比になっている。)当時はこれを読んで、まるで自分がまるこになったかのように一緒にはらはらしたし、げらげら笑ったりもした。特に結末の部分は、「うわー友達に見られた、これはもうだめだ。。絶望だ‥。」と感じたことを今でも覚えている。

でも、今このシーンを振り返ると、「実はそんなのたいしたことじゃなくない?」と思ってしまう自分がいる。「友達に見られたって、説明すればいいし、きっとみんな一か月後には忘れているよ。うまくごまかすことだってできたんじゃない?」とか、思ってしまう。小学生が感じる「リアルな気まづさ」に共感するよりも、大人の社会からみた「対処方法」をまるこに言いたくなる。

さみしいことだな、と思う。

大人になると、小学生の時に感じたような物事のとらえかたって忘れてしまうことが多い。または、「あぁ あんなこともあったよね」って大したことのない記憶の一つとして、ちょっと斜に構えてみてしまうというか・・。

もう、気づいたときには当時感じたリアルな感情を同じようには思い出せなくなってしまっている。小さなときの自分を俯瞰できるくらい成長したとき、その時感じた純粋な気持ちはもう戻ってこなくなってしまう。

だから、私はさくら先生を心から尊敬している。彼女は既に大人になっていたのにもかかわらず、子供の時に感じたあらゆる感情をずっと持ち続けていた。大事に大事にその時の気持ちのまま、抱え続けていた。

もしかすると、子供のとき感じたあらゆる気持ちを、宝箱のようにフレッシュなまましまっておいて、必要な時に取り出して眺めていたのかもしれない。「大人になった自分」が少女時代のまる子の気持ちを勝手にカテゴライズしたり、矮小化したり卑屈にとらえたりしないように。彼女がちいさなまるこの気持ちを大切に大切にあたためてきたからこそ、まるちゃんは日本中の子どもたちや、かつて子供だった大人たちの心をつかんだ。

さくら先生が私の実母と同じく、乳がんで旅立ったと聞いたときのショックは言葉では表せられない。もっとたくさん、描きたかっただろうな。

大人になってしまった私は、もうちびまるこちゃんを当時ほど夢中には読まない。いや、読めない。でも、目の前にいる自分の子たちがもつ「まるこのような子どもらしい感性」を大切にしていきたいと思う。二度と手に入らないものだから。



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