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キャラクター消費の傾向による対立についてーー自己解釈オタクはオタクになればなるほど面倒くさくなる


性的なものに嫌悪感を抱えているキャラクターを好きになった。

私は他人の考察を見るのが好きです。
ゲームにしろアニメにしろ映画にしろ、楽しんだ後に色んな人の考察や解説を聞いて思わぬ発見をしたり自分の解釈を強化したりして再構築するまでが一つの私の鑑賞行為。
なので今回も色々見ているのですが、このファンダム、常に何かしら対立している……。
ということを書いた日記がこれです。




ピーマンは苦いか甘いか

最初はみんなオタクしてるなあ、白熱してるなあくらいに思ってたのですが、思ってる以上に悪意ある言葉が多くて見てるうちに謎のしんどさを覚えることが増えました。
自分の意見ですらその争いや誰かの不機嫌の中に取り込まれる可能性があるのは怖いなと思うことが多いので、「読みたい」という欲求がよほどないと誰も辿り着かないであろうここで長文を書いています。

多分思い入れの方法の違いが軋轢を生んでるんですよね。
・フィクションキャラクターとして素直に消費するか
・何らかの理由で自己をある程度投影させるか
・1つの人格として見るか

最初の派閥と後者2つの2派閥で対立し合っている感じです。
特に彼の中に自分を見出してセルフセラピーされている人からすると、人格として扱われないことに容易に傷つくのだと思います。
で、その考え方に反対する人も「間違っていると言われたりとか、指摘されずともそういう意見を目撃して「お前たちはおかしい」と反論し合ってギスギスしてる印象です。

この作品にはある程度メッセージ性や描きたいものがあると私は思うのでそれを読み解くことは大事だと思いますが、それと消費目的の自己解釈はまた別の話です。
“読み解こうと考察する”上でのディスカッションはめちゃくちゃ楽しい。
でも”消費の方法“に対してディスカッションしようとしても100%喧嘩になる。
オタクであるが故に自己解釈が進み「消費すること」と「読み解く」ことへの討論の境界線が引けなくなってしまうこともこういう軋轢をさらに生みやすいのかなと思います。
「この場面のこれは〇〇を表しているのでは(考察)」
に対して
「いや、それは違う自分の脳内で推しはこうだ(消費)」
みたいな食い違い。
なんですかね、オタク的に例えるなら
「アンパンマンは他人から告白されても恋愛感情を理解していないためその意図を汲み取れない。ということは彼は今誰にも恋愛感情を抱いていない」(映画でそういう描写があります。話が進むにつれ恋愛感情を匂わせる行動をとるのでこの主張の限りではないです念のため)
に対して
「いや、アンパンマンはあれだけバイキンマンに固執しているし気づいていないだけで既に恋愛感情を持っている」
みたいな応酬。
もっとシンプルにすると
「ピーマンは一般的に苦い野菜」
に対して
「いやピーマンは私にとっては甘い」
みたいな。

ここでは「そう描いていたとしても自分はこう消費する」が正解だし、そもそもお互い見てる視点も論点も違うので意義のある討論にはなり得ない。
そして主観に主観をぶつけても終わりがない。
もちろん考察も多分に主観を含むのですが、妄想とは少し異なります。
この例なら
「ピーマンは一般的に苦い野菜」
に対しては「”一般”を定義する必要がある」とか議論する余地はありますが
「ピーマンは私にとっては甘い」
に対して例えば「いや私にとっては苦いし!」と反論したところでどうしようもないのはわかりきっていることです。
そういう喧嘩を沢山目撃しました。
ただの喧嘩になるなら棲み分けるのが一番だと思うのですが主に海外のファンダムというのは基本1ジャンルのバスケットにあれもこれも放り込むスタイルなので、なかなかそうはいかないのでしょう。
ただ棲み分けというのもなかなか厄介で、
「結局全て妄想なのだからそれぞれ独立してやってればいいじゃん」
としてしまうと発想の広がりが生まれないため考察する際にはあんまりよくないなとも思います。



性への嫌悪感の正体


最近思うのは、キャラクター間での欲望は相互作用性があるのに対して、それを欲するプレイヤー側の欲望はリアルで一方的なので、キャラクターを「人格」として見る人には余計キツイんだな、ということです。
言いたいことが伝わってるだろうか。自信がない。
キャラクターとキャラクターはそれが妄想であれ便宜上互いを愛し合っているからまだ相手を尊重する愛の行為として成り立つけど、その性コンテンツを見たいと思うこちら(現実の人間)側の欲望ってドストレートに消費的な性的欲求で、そのドストレートの矢印の先にキャラクターがいるわけじゃないですか。
彼の場合作中で性や奴隷・虐待というものがかなりセンシティブに描かれているせいか「性虐待されていた人間として彼に共感している」というコメントを頻繁に見るので、余計色んな人のトリガーを引いてしまうんだろうなということです。
この間女児向けアニメの性消費コンテンツが隠されず当たり前のように表に出ているのはどうなんだ?て意見を見たのですが、なんていうかその感覚にちょっと似てるのかなと思います。
彼は子供ではありませんが、奴隷・虐待というバックボーンを考えた時、それがどれだけの繊細さをはらんでいるか想像することは難くないと思います。
もちろん、彼の場合ゲーム終盤である程度壁を乗り越えるのでその後の話とすれば性を楽しむ可能性は秘めてはいます。
ただ、嫌悪感を覚える人はキャラクター間の行動に伴う感情云々ではなくて上述した「こちら側の生の欲望」を感じているのだと思います。
Vtuberってその人それぞれに公式でセンシティブ用タグを用意してますよね、ああいうのがあったら一番いいんでしょうね……
楽しんでる人に「描くな!」とも言えないし、かといって傷つく人に「フィクションで傷つくな!」て言うのも私は違うと思います。そもそも、作り手側がこうこう題材を選んだ時点で「フィクションですから」と切り捨てて良いものではないとも思います。
ですがそれは個人が楽しむこととはまたちょっと別の話で……。やっかいですけど。
両方の意見が衝突している場面を見たことがあるので複雑です。



キャラクターは”私”のためにあるのか


この争いはファン間だけではなくて公式相手でも発生します。
「公式が解釈違い」というやつです。
たまに耳にしますよね、実はキャラクターに恋人がいたとわかって大炎上みたいな現象。
このファンダムでも「”公式が解釈違い”の炎上」が発生しているのですが、激怒して怒ったり愚痴ったり批判したり願ったりの気持ちは消費行動だから自由だとして、少なくない人数が公式に変更を求めているので苦々しい気持ちになりました。
キャラクターはファンのためにあるけれどファンの所有物ではなく、作り手の表現の結果として存在しているはずなので、自分の「このキャラクターにはこうあってほしい」欲求のためにクリエイターへの表現を抑制させないで欲しいなと思ってしまいます。
万が一声を反映して変更されたとして、それは”作り手が見せたかったキャラクター像“ではなくて”需要によって変えられた像”になってしまうので……。
どんな作品鑑賞でもクリエイター側から与えられたものはいわゆる「正史」であり「事実」にあたると思うのですが、ここでも「ピーマンは甘い」現象が起きている気がして、オタク的な自己解釈の面倒くささというか、だから二次創作はこれほど盛んになるんだろうなとか、色々考えてしまいました。
(余談に補足あり)

こういった「消費方法での軋轢」は特殊な状況などではなくオタクあるあるだと思っています。
・キャラクターの受け攻め
・女体化や夢は隠れるべき論
・ローカルルールの押し付け合い
その他諸々。
特に二次創作を楽しむオタクであるということはその対象を自分解釈で消費することがアイデンティティに強く結びつくので、
「それ、私が思ってる◯◯じゃない!」
という感情が時として自己否定に結びついちゃうんですよね。



自己解釈オタクという業が深いアイデンティティ


ちなみに私もこれまでの日記を見ていただければわかるように人格として扱う人間だしめちゃくちゃ自己解釈のオタクなんですよ。
ぬいぐるみや人形も殴れないタイプの人間です。なんならぼのぼののぬいぐるみと寝てます今でも(何の告白だ)
だから自分が好きじゃないなあと思うようなものにショックを受ける気持ちはすごくよくわかってしまう。例えば私だったらゲーム内でキャラクターを下着姿にして喜んだりとかパンチラを狙ったりとかそういう性アイコン化をしている動画などを見ると一人で憤慨してしまう。
でもどの消費にしてもその人に突撃してつっかかったりしない限りは受け入れても受け入れなくて喜んでも憤っても基本的には許されるんです。
自分の美学として楽しもう。

自己解釈のオタクって実はオタクになればなるほど生きづらいのでは?と最近思ってきてます。思い入れが強い故の悲哀。
対立しあってる両方ともそれぞれの方法で思い入れが強いんですよ。
既に書いたけど、思い入れが強いからこそ、自分の考えと反対の意見を見ると自分への否定へと感じられて怒ったり悲しくなったりするんだろうなと思うわけです。
他人事みたいに語ってますけど私も何度悲しくなったかわからない。理屈では解っていても感情は理性と異なるところに存在していて勝手に作用する。
他人のプレイ動画を見たり過去のスレッドなどを読み漁り、なんで……なんでそんなことするの…!?なんでこんなこと言うの!?とショックを受けたり悲しくなったりしている。
もちろん「全然地雷ない!全部大好き!」という人もいますし私もジャンルによってはそれなんですが、時にこうなっちゃうことってあるんですよね。
そういえば先日ガチ同担拒否勢の方とお話したのですが、
「相手が好きなのは私だけであり、相手を最も愛しているのも自分なので他は存在しないも同然」
というとてもシンプルな理屈で、他人の意見が入り込む隙がない分こっちの方が簡単でストレスがないのでは?と思いました。
それぞれいろんな在り方がありますね。

“私にとって”オタクであるということは自分を面倒くさくする。
でもそれ以上に、やっぱり、オタクだから好きなものは好きなんだよなあ……。呪いだなあ……。







いつもの余談(ここから先は主観がつよいお気持ちです)

公式が解釈違い〜については今回”キスの仕方”と”それに対する主人公の反応”で荒れています。
つい先日アップデートがあって、キスモーションが変わったんです。その仕草が思いのほか攻撃的だったので、解釈違いだと揉めてるわけです。
このゲームを知らない人からすると「え?そんなので炎上?」て思うかもしれない。
このゲーム、主人公はキャラメイクできるし会話も選択制なんですよね。
主人公=あなたの分身/キャラクターという図を作っているのは制作側なので、「主人公の反応が気に入らない」はある程度理に適った主張だと思います。
ですが「彼がそんなことするはずない」という層もいて公式に文句を言っているので、これ、自分が公式側だったらかなり苦しいなって思ってしまいました。
ゲームだからシステム面についての苦情はわかるんです。
でも、消費者側としてキャラクターやストーリーといった物語表現を変えろというのは違うなって思います。
私だったらどうしよう。
漫画を描くときは自分で解釈して悩んで答えを出して描いている訳で、それを無かったことにして変えろと言われるのはかなり苦しいです。でも私は読者さんのために描いてもいるので、応えないのも悪い気がしてしまう。
気持ちの面を無視しても「作り手-受け手」の力関係ってやはり消費者側が大きなアドバンテージを得ているので、一種脅迫のようにも見えてしまうというか。
漫画だと読者の需要に合わせて「本来くっつく予定だったキャラクターではなくて他のキャラクターと両思いになる」みたいな変更はよく聞きますが、そもそも連載中のプロットや原稿が最初から出来上がっていることなんてほとんどなく流動的なので、「読者の声を取り入れて物語を構築する」と「出来上がったものを無かったものにする」では雲泥の差がありますよね。
上でも書きましたが万一変更されたとして、「優しい公式」として見るのか「屈するしかなかった公式」として見るのか、、、
複雑です。

FF15もファンの声によってエンディングを変えるDLCを出す予定でした(叶わず代わりに小説として出版されました)が私はあまり良く思いませんでした。作っている人たちはもともとはこれがFF15であると了解して出した訳なので。
それとも実は作ってる人たちも最初から「やだなあ」って思ってたんだろうか……。それなら良いのですが……。
ラスアス2も無かったことにしろみたいな意見を良く聞きます。
何度も言うけど気に入らないものを理路整然と批判するのは全然良いんです。ただ
「自分のために表現を変えろ」
の主張をその人にぶつけるのは私にはだいぶ乱暴に思えてなりません。

そしてこれは他の人とも話してて本当そうだよなーと思ったんですが、ゲームってルート分岐があるから余計厄介なんですよね……。
それぞれの道が事実として示されているので余計対立してしまうというか……。
他のキャラクターにもルート分岐はありますが彼の場合変化が極端なので。

(それと全体的に
「彼をxxだとファンの前で言ってみろよ、あいつら発狂するからw(適当翻訳)」
みたいなノリが多くてそれがとても悲しい。少なくともさまざまなファンが集まる場所では
「このセリフ/シーンは彼のxx性を示している」
みたいな感じでいこうよみんな。これじゃ単純に煽り合いじゃん😭)

みなさんの界隈にはなにか厄介事はありますでしょうか……
周りの話を聞いていても何かしら愚痴を聞くのでそれぞれあるんだろうな。
自分の中でうまく処理してよいオタクライフを送れるといいですね。


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