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9ヶ月経過

noteに登録してから9ヶ月経過している。
2021年の7月に突然登録したのは、悲しみを吐き出す場所を求めての事だったのに、私はその事について全く記事を書くことが出来なかった。
そうしてそのまま放置され今日に至る。
その9ヶ月の間にも世界は次々と問題を地上に吐き続けている。

そもそも2019年まで私の生活は特にどうということもなかったかと思う。
むしろ楽しい事もたくさんあった。
家族の深刻な問題は抱えていたが、それは結婚後ずっと存在し続けていて試行錯誤しながら向き合っている。今もだ。
その問題を常在するものとして脇に寄せておけば、2019年まで私の生活は比較的「普通」だった。

7年程携わった介護の仕事を2016年に辞めた。人の為に働くような職種はもう辞めようと思ったからだ。ところがその次に見つけてきた仕事は、障害児デイサービスの支援員だった。自分の家族と向き合うために必要な学びがあるように思ったし子供は比較的好きだからという単純な理由だ。
けれどそこは1年で辞めてしまった。経験としては貴重なものだったし感謝しているが経営者とどうにも気が合わなかった。これはどちらが悪いとかではなく運が悪かったと思っている。
そして今度こそ、福祉の仕事から離れようと決意した。

だが、2017年秋、新たに就いた仕事は医療クラークだった。
介護職の前に総合病院の病棟で看護助手を2年やっていたというのもある。
また、実姉が長いこと大学病院の病棟クラークや受付で医療事務をやっていたのを見てきていたし、病院内の特殊な話を聞いていて興味があったようにも思う。
それにしてもだ。
我ながら何故何度も同じ職域で仕事を探してしまうのか。福祉も医療も離れたかったはずだ。我が家の環境も自分の身体もむしろケアワーカーさんに助けてもらいたいくらいのことがよく起こるのに、人様の為の仕事を選ぶとはどうかしている。
自分が健全であって初めて他人のために頑張れるのだ。
ばかだ、ばかだ、と思いながら今日まで医療クラークのまま今年の秋で5年目に入ってしまう。
本当にどうかしている。

そしてこの2週間、私は持病のために仕事を休んでいるのだ。
もういい加減に福祉も医療も辞めて自分と家族のために、仕事に打ち込まねばならないような職種から離れるべきだと考えている。
考えているのだが、きっと結論はまだ出せないのだろう。
情けない。

その持病とは2018年に戻ることになる。

私は若い頃から生理不順や出血過多に悩まされていて、長年婦人科のお世話になっている。
子宮の病気で小さな手術を受けたり、妊娠出産で命を掛けることになったり、それはもういろんなことがあったのだが(その詳細はまた別に投稿する予定)子宮頸がん疑いは2度引っ掛かった。
結論から言えば、2度目の検査は陽性で中等度異形成というやつだった。ついでに卵巣にチョコレート嚢胞、子宮筋腫もある。貧血を伴ってヘモは7台をキープしていてフェロミアを入れていたが数字を上げるのは難しかった。
最善策として「子宮全摘」があげられた。
主治医とは良好な関係を築けていたので腹腔鏡下での手術を依頼した。
中を見て問題があれば途中で開腹へ切り換えることを予め了承して、全摘手術は実施された。

全麻から目覚めかけの朦朧とした私に、主治医は第一声で「子宮内膜症が酷すぎて、癒着も激しすぎて開腹手術に変えようと思ったけど、痛いのが苦手なあなたとの約束で腹腔鏡下でやるって約束したから頑張ったよ!でも本当に凄まじい癒着だったのよ」と言った。
術後の回復は、退院後1回熱発して抗生剤投与(点滴)となったものの再入院は逃れて、時間と共に落ち着いた。
手術時間はなるほどオーバーしており、明細書の麻酔量も術前の説明より遥かに多くなっていたが、有り難いことに遠く離れた姉の協力も得られて日にち薬ではあるがきちんと回復を果たした。
それが2018年のことだ。
今はその後遺症を持病の一つとして患っており、かなり手こずっている。

17年の秋から新しい職場に就いていて、いきなりコレだから肩身は狭かった。ただ、仲間はとても優しかったので救われた。
そうやって2019年も普通に暮らしていたと思う。好きなこともやった。それなりに楽しんだように思う。

2019年の12月末に、中国の武漢で「Covid-19」の噂がちらりと日本のニュースに流れ出したその時までは。
新型ウイルスの可能性を示唆するそのニュースは私の心をざわざわさせたが、その後の世界を巻き込む事態まで想像したわけではない。
当初中国政府は武漢の医師の報告を隠蔽していたし、ネットを漁ると出てくる情報もどこまでが真実なのかわからなかった。日本にどこまで関係するのか、不安を感じつつもそれ程重く受け止めてはいなかったと思う。
その後ダイヤモンド・プリンセスのパニックに至るまでは。

例えば「感染列島」とか「アイアムアヒーロー」とか、ゾンビっぽいパンデミック映画は観ていたが、それはドラマでしかなかった。SARSやMARSでさえ自分にダイレクトに関係はなかったのだから。

だがすぐに自分の職場でもゾーニングが始まり様々な注意事項が飛び、不穏な空気はあっという間に日本を覆い尽くすことになった。
その頃私は院長にポロッと尋ねた。
「先生、このウイルスはこれからどうなるんですか?いつ終わりますか?」
院長は穏やかな口調で手元の資料を見ながら言った。
「まぁ数年はかかるんじゃないかな。数年は戦わないとってことになるんじゃない?」
「数年?!そんな…。そんなにかかるんですか。ならなんで日本はすぐに入国規制しなかったのでしょう?」
「考えてごらんよ。今や時代はグローバルで全世界どこへ行くのも自由なんだから、昔ならひとつの国の中で終わらせることができたかもしれないウイルスの感染も、今の時代にそれを阻止するのは無理だよ。国境を閉鎖したところでウイルスの侵入をゼロにするなんてありえない。北半球、南半球のウイルスも関係なく往来して季節毎で流行るはずのウイルスも季節問わずになるかもしれないよ」
院長は当たり前でしょ、という顔つきで飄々とそう話されたが、私の気持ちはどんより曇った。

数年。

終わりが見えないかもしれないじゃない、と失望した。
エボラのような強毒性で致死率が高いウイルスは感染拡大しにくい。宿主が短命だからだ。
ウイルスはより多く生きるために宿主への毒性を低めて生き残りをはかることもある、と院長は言った。数年の間に弱毒化すれば道は開けるかもね、とも。

そうして、Covid-19は瞬く間に世界を飲み込み、人類は生活様式を変えて、日本社会も様相を変えていった。
2020年から現在に至るまでの2年で黒死病やスペイン風邪等を体験した人もいない時代に、現代の私達は現代の医学や科学研究と共に、ひとりひとりの認知力や予防力を持って向き合ってきたと思う。
そのさなかにはもちろん陰謀論も跋扈して、全くノストラダムスの世紀末のようだった。
急激な社会の変容に心を壊す人もたくさん出た。子供から老人まで皆、このパンデミックの波の中でもがき、ため息を付き、死に食われて泣き崩れた。
目に見えないウイルスとの戦は、死のリアルも医療関係者や罹患者家族しか目にしないため、地震の災害に強い心で立ち向かうことができた日本人でさえ耐えられないほどに、陰謀論を世の中に振りまいて不安定な社会を継続させた。医療の在り方も検討しなければならない課題がたくさん出たと思う。

超スピードで作られた人類の叡智であるワクチンも今だ大きな課題となっている。

そんな世の中をアップアップしながら生きていて、私自身もずっと不安定だ。

9ヶ月前に戻るが、そんな不安定な日々の中で、9ヶ月前の7月13日、夜中の23:57に、私たち一家は唐突に柴犬の愛犬を失った。
たかが動物と言われるかもしれないが、私達にとっては愛しく大切な家族だった。
その数日前から愛犬(雌)は少し下痢をしていたが、もともとお腹が弱かったので、下痢をしてもビオフェルミンで治まることが常で、その時も深く考えずビオフェルミンを与えて一旦治まっていたのだ。

だがその日の朝、彼女(柴犬)は再び下痢をした。
食事は食べたが気になったので夕方病院へ行った。毛艶も良くて一見元気だった。
診察台に乗って、採血しエコーをかけるときに彼女は突然水様便の血便を出した。
獣医師も私達も驚いた。
至急分で出た採血結果では肝臓値が振り切れていた。緊急で点滴を開始し絶食指示、精密検査は翌日にしようと言う話になり一旦家へ連れ帰った。
動物病院を出るときはまだ元気だった。
だが帰宅してからは水も飲まなかった。次第に活気が低下して床にゴロゴロしだし、2度ほど水様便の血便が出た。
急ぎでおむつを買いに行き、彼女と一緒に床に転がって撫でながら「明日また点滴いこう。検査して薬貰って、そしたら良くなるから頑張ろうね」と話しかけていた。
その後血便は出なくなった。
夜中か近付くと呼吸が速くなってきた。0時を回る前、私は獣医に電話をした。その時にはもう下顎呼吸で舌が出てきていた。耳先も手足の先も体温が落ちていた。
私は現実を飲み込めず電話口で泣き叫んでいた。助けてくれと。
医師はもう助からないことをわかっていた。治療の言葉はなかった。
彼女は大きく息を吸って背中を海老反り、前足をぐーっと伸ばしてから呼吸を止めた。
あっという間の出来事だった。
電話の向こうで医師が死亡確認だけになるけど連れてくるか?と尋ねた。
私はパニックになっていて、連れていけばまだ回復すると信じていたようにさえ思う。

私は急ぎ彼女を連れて真夜中に、獣医師を訪ねた。

私は呆気に取られていた。
何もかも急すぎてついていけない。
ハンドルを握りながらずっと「まだ大丈夫!先生に診てもらえば大丈夫!」と呪文のように繰り返していた。
後部座席で彼女を抱きかかえていた息子はひたすら無言だった。

聴診器が彼女の心臓から離れて、先生の口が「止まっています」と動いたと思うが、私の耳はその言葉の音を感知していなかったと思う。
世界の音が閉ざされたようだった。
だらんと力なく手足を垂らしている彼女を抱き、私は医師に頭を下げた。
医師は大好きだったご自身の愛猫を亡くした話をポツポツとしてくださり、おそらく私に共感を示してくださったのだと思うが私の魂は凍りついたままだった。
精密検査前のことで、解剖しないと死因がわからないと言われ(エコーには何も映っていなかった)、私は首を横に振った。

家族になって、13年目を迎えたところだった。
彼女の死の前に人間の家族問題も抱えており、Covidの不安も相まって、私の心も折れてしまった。

あれから9ヶ月。
私の心は修復されていない。

彼女の遺骨を置いている祭壇には友人や身内からの柴犬のぬいぐるみが増え続けている。
お線香とお水は毎日あげているが彼女の姿はない。

この2年、柴犬の彼女の死だけでなく、人間の家族にも死の話が尽きなかった。
職場でもCovidの死からは逃げられない。死に取り囲まれた私の心は柴犬彼女の突然死と共に、氷が割れるように地に落ちたままだ。

9ヶ月はあっという間だった。
去年の4月は、桜の花弁が舞い落ちる中で彼女と一緒に歩いたが、今はもうどこにも彼女がいない。
壊れた心の破片はまだくっつけられず、友人らがいろんな言葉で元気づけてくれるが、捻くれた私の心が素直にそれらを受け止められないままにしている。

やがてつつじが咲き誇る美しい5月がやってくるのだろう。私の心を無視したまま。


世の中はCovidに飽きるようにウイルスから離れ、今は「戦争」の議論に忙しい。

私には古くからのエストニア人の友がいる。
彼女からロシアの話は聞いている。
そして彼女はジャーナリストなので現在、今この時もキーウにいるのだ。

傷を治す時間もないほど、目まぐるしく動いてゆく世の中に私の心が必死でしがみついているが前は向かねばならない。
この先も寿命の限り見れるものは見て、考えられることは考え、持病とも向き合って進んでゆくしかないのだ。

そんなことをつらつらと書きたくてnoteに登録したが9ヶ月経ってやっと今書けたのは、それでも壊れたなりに少しは拾い上げられたということかもしれない。

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