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ライターにならなくてもいいのだ。

ライターという肩書きを背負ってお仕事させてもらうなか、常々「ぼくは、言うほど、ライターじゃないな」と思ってしまう。がつがつっとやってる人に比べたら、恐れ多いくらい、ライターらしい動きをしていない。

複業のひとつといえば、そうだけど、本業です、とは自信を持って言えるはずもない。そのような立場もあって、「ライターというよりも、ライティングをやってます」という言葉のほうがしっくりくる。

何度か、ライターは向いてないな、とか、ライティングできるバーテンダーになろう、ということを書いた。そこでも触れたことあるけども、「ライターにならなくていい、ライティングできることに意味がある」と強く思う。

ライターは、ライターという仕事が軸にあって、それから自分の領域を持つことになるが(幅広くて定めていない人もいるが)、ライティングできる人はすでに何かの領域において活動をしている人であることが多い。

つまり彼らは、なにかのプレーヤーでありながら、その分野における視点も取り入れつつ、世の中や、ひとつのテーマについて書き進めていくことができる。あるいは、なにかの動きをつくる立場でありながら、なにかの動きを記録する立場にもなれる。そういった強みがあるのでないかと思う。

例えば、cakesに連載を持つbar bossa店主の林伸次さんは、カウンターに立った視点で、男女間のあれこれについてを書き綴っている。また、フリーランスで活動している岸本千佳さんは、あくまで本業は不動産であり、その専門性を活かしてさまざまな媒体に寄稿している。

ぼくの自由研究のひとつでもある、ローカル(地域)のことで言えば、やはり、賑やしがうまくいってる地域を観察してみると、ライティングする人(情報発信する人、とも言える)の存在が大きいことに気づく。

それは、地域内に職業人としてのライターがいる、という地域もあるが、そういった地域はまだまだ多くはない。なにかの事業(活動)の一環として、ブログや広報面において、ライティングを兼任している人が多いということだ。

最近になって、ライティングの必要性を意識し、情報発信ができる人を地域おこし協力隊などで募集しはじめた地域はぽつぽつ出てきたなぁという印象。

このときにさらに意識を高め、大切にしたいのは、地域のなかの人でありながら、つまり、プレーヤーとしても動きながら、ライティングするときには、地域の外の人の視点でライティングすること。定点観測的に記していくこと。

去年参加させてもらった「ライター・イン・レジデンス」の取り組みは、そういったライティングできる人を増やすための動きにもなるだろうし、実際に、ぼく以外に参加していた人は、地域コーディネーターや会社の人事担当者などもいた。

今年、富山-氷見でも開催されたが、ライターになりたくて、というよりは、ライティングできるようになりたい、という人が多かったのではないだろうか、と推測する。

長ったらしくはなったが、ローカルに限らずに「ライターになりたい」という人はそこそこいて、こういったライターのニーズは媒体(ウェブ、オウンドメディア)が増えるなかでまだまだあるだろうけど、それよりもライティングができる人がもっと増えるといいと思う。

ライティングできる人がーーあえてライターという言葉を使うのであれば「市民ライター」が増えたほうがいい。そうすることで、世の中の情報の捉え方がより多角的になるし、単純には、コンテンツの量も増えていく。

シェフが書く、塾講師が書く、八百屋が書く、バリスタが書く、看護師が書く、小学生の書く、猟師が書く、神主が書く、タクシー運転手が書く、子そだて中の主婦が書く、刀職人の書く、そんな人たちが書く文章をぼくは読んでみたい。

そういった意識のなか、ライターでなく、ライティングができる人を増やすためのシカケづくり、およびその受け皿となる場づくり、メディアづくりを実践しながら、自由研究していくというのが、当面のぼくの活動として考えている。

彼らの眼を借りて、世界を一緒に切り取っていけたら、毎日はもっともっと楽しくなるんじゃないか。

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