神経たち #7
「少し時間がかかりそうだ。別の仕事が入っちゃって」
ケイゴに嘘を付くのは良心が傷んだが、僕はなんだか本当のことをすぐに彼に伝える気になれず。どう伝えるかを考えるのも面倒になって、ただナナコの部屋に仕掛けられたカメラのことを考えながら、悶々と一週間ほどを過ごした。僕が珍しく鍵開け以外のことで鍵屋に連絡すると、彼は面白がった。
「なんだそんなことか。前に言ったろ、アンタ以外にも変な奴がいるんだ、それか、アンタと違って、映像がほしいのかもしれんね。覗きが趣味のやつとバッティングだ。他の場所、アノ間取りだと寝室にも仕掛けられてるだろうな。経験上、映像や画像に執着するやつは死角を嫌うんだ。見えない所に相手が入り込んでしまうのを嫌う。ずっと見ていたいんだ。アンタも、温度センサの一部だけ反応しなくなって、途中で計測とやらができなくなったらむず痒いだろ?バッティングするなんてのは珍しいことだから、ラッキーだと思ったほうがいい。で、アンタ、どうしたいんだ?何か考えがあって、俺に相談してきたんだろ」
鍵屋のトイプードルのアイコンがまた変わっていた。お行儀よくおすわりをしながら歯を見せて笑っている。
「いや」
僕はすぐにメッセージを返す。
まだ残る浮遊感のかけら、ほんの少しの残滓。僕自身、次どうすればいいかなんて分からなかった。僕がこうしている間にも、彼女の部屋でセンサは動き続け、計測値は蓄積し、グラフは見えないところで更新され続けている。ただ僕は、今はそれを見る気分になれなかった。
「どうした。てっきり、セックスのシーンをのぞき見て、やっぱり覗きをしたいからカメラを仕掛けたい。なんて依頼してくるのかと思ったが」
「他人のセックス自体は、前にも偶然、見たことがある。でも、興奮するわけじゃない。前にも言ったけど、興味がないんだ。それより、カメラのことが気になって」
「カメラが気になる?じゃあ、御託は並べてるが、やっぱりビデオか写真の撮影も始めたいように聞こえるぞ。興奮しないと言いながらカメラを仕掛けるやつは聞いたことがないな。多分、やっているうちに、興奮するようになってくると思うぞ、それはそれで、俺としてはなんだか、アンタが普通になっちまったみたいで、少し残念だ」
「そうじゃない気もする。でも、そうなる気もする。不安なんだ」
「というと?」
「ハッキリ言って、変わってしまうのが怖いんだ。僕は、センサでだけ計測すると決めて、これまでやってきたけど、なんでそうしたのか、やっぱり考えないといけない気がしてきたんだ。カメラでナナコを撮っている誰かなら、僕にその理由を教えてくれそうだと思ってる。そうだな、僕は、生の映像を撮影することを拒否してここまで来たわけで、温度と振動から、計測相手の事を色々と想像すること、それが僕のやってきた積み重ねなんだけど。なんだか、何かの拍子に、一気に壊れてしまいそうで不安なんだ」
「何だ、突然、自分が分からなくなった的な話か、若いな」
僕はあの時ふと感じた軽やか穏やかで、くすぐったいような、そうでないような不思議な感覚を思い出そうと胸に手を当てて感触を想像しようとした。指で胸板をトントンと叩いたら、あの時感じた感覚と、沢山つながった神経たちに染み入るような美しさの感覚を思い出せればいいのに。
「僕は計測をする。計測値から推測する。それを楽しむ。確かに楽しいし、相手の行動パターンを読み解いたり、心理状態や感情の動きを予測するのはある種の快楽をもたらしてくれる。僕はそれが楽しくてやっている。他の目的はないんだ。前にも言ったように、そういうことで性的に興奮したり、自慰行為に及んだりすることはないんだ。ただ、今回、カメラの存在に気づいて、僕が計測をしていて、他の誰かが同じ場面をみている。そのことがなんだかすごく、美しいことのように思えたんだ。僕の計測と彼の直観を重ねることができたら、もっとくっきりする気がするんだ。表現が難しいけれど、僕がカメラを持ちたいってことじゃない。そうじゃないんだ。多分、僕自身がカメラを使うんじゃ駄目なんだ。何となく分かる。やっぱり生の映像は好みじゃない。僕は撮りたくない。でも、誰かと共に計測することで、僕らの世界をより鮮明にしていくのは、すごく美しくて、すごく幸せなことな気がしてる」
「なんだか随分話がでかくなってるが、強がってるだけだ。撮影も始めたくなるさ。隠そうとしてるだけだ、アンタの欲望を、多分、自分じゃない誰かを想像して、そいつのせいにしようとしているだけだ。欲望に忠実になったほうがいい。どうせもう、踏み外してるんだから」
踏み外している?
踏み外しているだろうか?
僕はただ、計測を求めているだけだ。
計測から得られる、センサーの信号、僕の神経の代理人への、刺激。代理はきっともう、これだけ長い間一緒にやってきているから、僕の神経とも手をつないでいるだろう。
ここ最近ずっと二日酔いみたいに身体が重い。僕は水をひたすら飲み続けていた。何を食べても、何を飲んでも味を感じない気がした。舌が溶けて壊れてしまったみたいに。香りのない液体、ただの水、さらさらと喉にへばりついた粘っこいツバを奥へと流し込んでいく気がした。何か僕を揺るがすものが出てくると、僕の中から粘っこいものが出てきて僕を守ろうとするのだ。でもそれは、時たま不快なこともある。自己防衛機能が、僕自身を痛みつける方に働くこともあるのかもしれない。過剰な防衛反応。もう一口、水を飲む。僕は水にアルコールのように、僕の意識を混濁させる作用を期待した。ドロドロと、思考しない浮遊状態へと溺れたかった。ぐるぐるとカメラのことが頭の中を回っていた。鍵屋と連絡しあっている今も、ずっと。
「どうした。とりあえず、頼まれれば俺は何だってするよ。やってほしければ、カメラだって仕掛けてやる。いつものように送金してくれればいい。一つ言っておくと、この件、なんか匂うんだ。変な感じがする。アンタに頼まれていつも通り、計測器一式をナナコの家に仕掛けた時、俺は他の誰かが部屋に入りこんで、盗撮道具を仕込んでいるなんて感じなかった。ほら、俺のトリガーの話をしたろ。俺は敏感なんだ。何処に誰が入り込んでいるか。一度も破られてないプライバシーと、誰かにすでに踏みにじられてるプライバシーは、俺みたいのになると差がくっきりと分かるもんなんだ。見た目でいうとリンゴとブドウぐらいの違いがある。それで言うと、あの部屋は、確かに誰にも破られてない感じがした」
彼がリンゴの絵文字を僕に送りつけてきた。僕は頭を抱えながら、ブドウの絵文字を送り返して
「鍵、送ってくれないか?」
「忍び込む気か?捕まるなよ」
「わからない。でも、カメラをこの目で、確かめたくて」
「変わったやつだ。この前作ったやつを送る。明日届くぞ」
翌日、僕は鍵屋の作ったコピーキーをデスクライトにかざしながらクルクルと回していた。身体は相変わらず熱く重苦しく、水を飲まないと固まってしまいそうだった。彼女の部屋に侵入するための金属製の小片、先端の反射する光は僕の目をキュッと突き刺して、計測しようとする僕を牽制しているようにみえた。初めて彼女を見た時、拒絶するような印象を受けたのを思い出す。本来はプライバシーを守る物理的な壁を統べるべく作られた金属は、こうして複製されて、逆さまの目的に使役される奴隷と成り果て、恨めしそうなぎょろりとした目を光らせ、守るべき空間を覗き込もうとする不届き者、つまりは僕のことを突き刺そうと意気込んでいた。
実際のカメラがどう置かれているか見てみたい。
カメラの主に会ってみたい。
そのためには彼女の部屋を開けるしかないのか?
忍び込むのは趣味じゃない。箱の外から測れればいいだけだったのに。
僕は鍵をデスクの上の金属製のペン立てにそっと入れる。金属同士が触れる小さな音が、冷たく青く表されて僕の耳に飛び込んできた。上下左右四つのディスプレイにそれぞれ、あの日以降、見るのを避けていたナナコの計測記録を表示した。左上にはここ一週間の室温の変化のグラフ、右上に振動の変化、左下に温度の高さごとに色分けされたサーモグラフィ。温度と場所、彼女の身体の関係を明らかにする図。室温と振動を見るに、今この瞬間、彼女は家にいないようだ。室温は毎日、同じような時間帯に立ち上がり始める。ナナコがシャワーを浴びてリビングに出てくる時間帯、規則正しい彼女の朝。きれいな周期を描いている。僕は振動センサの値を眺めた。通勤は毎日ほぼ同じ時間帯、帰宅時間はまちまちのようだった。毎日の室温の変化のグラフを重ねると、ナナコが部屋にいる時間は、自然、外気の温度変化に従ってグラフは緩やかに動き、ナナコの帰宅する時間に合わせて温度はゆっくりと立ち上がる。僕は他の計測対象に対してしているのと同じ様に、彼女の帰宅時間のばらつきを見つめた。速い時は六時半、遅い時は深夜に帰宅する。彼女は家に帰るとすぐに冷房のスイッチを入れる。そして、その後は恐らく、シャワーを浴びることが多い。冷房で一度下げられた室温は再び少し上昇する。帰宅時間こそ違えど、大体は同じ行動をこなしているように見えた。僕はスクリーンの近くで温度のグラフの形を指でなぞりながら、あることに気がついた。
僕がナナコの計測を始めた日からほとんど毎日、毎夜、玄関のセンサは招き入れられるナナコとは別の足取りを記録していた。温度センサも毎日、二つの熱源を捉えていた。表示を切り替え、僕は計測初日から一日ずつ、グラフを重ねていく。二つの異なる強さの振動の源、温度上昇の源、別々にシャワーを浴びて、各々リビングに戻ってくることもあった。計測された二つの肉体。ソファー上で赤く発熱し、肉体を包む低温の薄布を遠くに投げて、一切纏わずに煌々と熱を発するナナコの小さな身体に覆いかぶさる、ナナコとは別のもう一つの身体の輪郭、存在。そして、棚の上にはいつもカメラ置かれ、静かに二人の様子を捉えていた。
ソファの正面から二人の愛と快楽の営みを捉えようとする意志を感じた。僕は水を一口、舌の上に流した。味はしなかったが、湧き上がってきた焦燥を一旦流してしまいたかった。僕は画面上のカメラの位置を指で抑えて隠した。画面上で隠そうが隠すまいが、部屋には確かにカメラが存在している。カメラを押しつぶしてしまいたくなって、指をスクリーンに押し付け、力を込める。力の加わったところは変色し、映し出された像は歪むけれど、カメラの存在が消えることは無い。
どうしても、カメラの存在が気になった。
誰が向こう側にいるのか気になった。
いつもそうしているように、毎日の計測記録、部屋の中の温度の様子を順番に切り替えていって、僕はまた驚いた。今度は思わず大きくのけぞった。腕がグラスにぶつかって、中の水が溢れてデスク上にだらりと広がった。その端は、ツウと床にゆっくりと落ちた。僕は拭き取るのも忘れて、彼女と一緒に映し出されている男の姿を何度も確認する。何度切り替えても同じことだった、記録ごと、日ごとに、彼女と身体を重ねる男の輪郭は異なっていた。毎日異なる男性と、彼女はセックスをしていた。僕は振動センサのグラフを見た。点列は跳ねて、時折切り立ったピークの繰り返しとなって、二つの異なる架空の稜線を重なり合わせる。やがてピークの感覚が狭くなる。速い運動のリズム、おそらくは二人の腰の動き。報酬を司る神経系の高まり、快楽につながる神経伝達物質の放出に、神経の同期的な発火活動、真っ白な絶頂へと向かう一筋の直登ルート、引き返すことなく真っ直ぐにピークへと向かい、やがてゆるやかに振動が消える。どの日も違うルートを通って登っていくナナコと、男達。次に僕は、毎日の温度の図一度に見るために、全部のスクリーンに展開した。僕がカメラのことばかり気にして、全く目にしていなかった期間の記録。上下左右の四つのスクリーンに展開された、色とりどりのグラフ達。ナナコと一つになる男達の輪郭や体格、体温の様子はそれぞれ異なっており、あるものは分厚い胸板を精悍な肉体を、あるものは振動でひしゃげてしまいそうなほどのひょろ長い肉体を、あるものは冷えた巨大な脂肪を腹回りと臀部に携えていた。計測することになれている僕といえども、これだけの数のセックスの場面を同時に見るのはなんだか気恥ずかしかった。僕は自分の股間にそっと注意を向けるが、特に反応を示すわけでもなく、いつものようにクタッとしていて、なんだかホッとした。変な感じはするものの、目の前で淡々と流れていくナナコと男達のとろけるような時間の交わりに対して、新鮮さ以外の強い感覚は覚えなかった。僕は好奇心から、それぞれの行為の開始が揃うように振動のグラフを重ね合わせる、いつものように比較して差異を見出そうとする。当然のことだが、ピークが立ち上がるタイミングも、そのリズムも、交わる二人のうち片方、男性側が入れ替われば大きく変化する。腰の動き、身体を這い落ちる汗の粘性の変化、粘性の変化?これはわからない。なぜって、測る神経が今はないから。熱源としての二人の全体的な室温への影響、分子の運動の伝播、巨視的にも微視的にも、このセックスの場面だけで言うと、僕が頭の中に蓄えてきた、温度と振動の変化から事細かにその情景を予測する論理は全く通用しないガラクタと化してしまっていた。
計測の数、場数が足りないからだ。
僕にはまだまだ計測するべき事が山ほどあるのだ。
まだ論理を持っていない沢山の事象が待っているはずなのだ。
予測の立たない信号にセンサが喜んでいる気がした。僕の中の神経たちも希望を感じて声を上げている気がした。右手が震えていた。小刻みに。震える度に喜びが漏れ出す気がした。
一つ大きく呼吸をした。
カメラで撮っている誰かはどう感じているだろう?この光景を想定していたのか、それとも全然予期していなかったか。彼か彼女も新しい光景に喜んでいるだろうか?
ナナコと男達の表示をやめて、僕はまた一つ大きく息を吐いた。
吐き出す息の熱が色で表されるように思えた。湿り気を含んだ橙色が僕の中に熱があることをたしかに示しているように思えた。目をこすった。一瞬、部屋の中の全てがすべて、温度別の色で見見えた気がした。神経の代理人たちと、僕の内側が、一瞬の間つながったように思えた。僕の指先と、指の断面にトランジスタやコンデンサが組み込まれている気がした。指を切っても、今ならば血が流れないような気がした。
僕以外の誰かが同時にナナコを観察している。もしくは、僕とはぜんぜん趣味の違う、覗き見をしているだけの男かもしれなかった。覗き見。降ろされたズボン。マスターベーション。想像すると吐き気がした。履くものがなく、一瞬胃の中の水が喉を逆流しそうになった。胃液の匂いがした気がした。とにかくカメラの主の動機が知りたい?僕の動機を見つけるために。
それから、二つの計測の重なりを見るために。彼の見方の論理と僕の論理を重ねることで、別の見方が生み出されるかもしれない。希望がある。遠くに煌々と輝く人里の光に思えた。その光の糸をたどれば、今いる場所でない何処かに行ける気がした。ふと、ケイゴの事を思った。ケイゴになんと説明しよう。ただ単に恋人がいるだけではない。生々しい実情を説明することは気が引けた。厚めのオブラートに包んで伝えて、彼が始めようとしていた恋が砕け散ったのを慰めよう。ナナコ。ナナコはどうして、毎日異なる男たちと身体を重ねているのだろう。僕は彼女の行為自体を否定も肯定もするつもりがないし、単に彼女が性欲旺盛な女性だというだけかもしれない。それでもなんだか、彼女の意図を知りたくなった。次に同じ様な女性が現れた時、どういう感情の変化があって、肉体の輪郭とその温度の異なる様々な男達と交わる時に、その度にどう感じるのか聞いてみたかった。性的快楽を感じるとき、彼女の身体はどんな熱を発するのか。それはカラッとした熱だろうか、ヌメリと怪しく光を跳ね返す怪しい熱だろうか?その熱は部屋の温度をどう上げるだろう?それから、彼女のポストを思い出した。住所を突き止める時、僕はなんだか、彼女の拒絶と断絶の意志と同時に、意図して見つかろうとしているような、仕組まれたパズルを解いていくと自然と彼女に至っていく様な、そういう奇妙な感覚を覚えたのだった。あの違和感も一緒に、解きほぐしてやりたかった。ナナコを見てみたい。これはただの好奇心だ。好奇心は危ない。でも、抑えづらいのを僕は知っていた。改札で見たナナコの背丈と短い髪、貧相とまでは行かないが華奢で細身の身体と、温度をあらわす計測結果のサーモグラフィ上に表示された身体を、頭の中で重ねる。仮に一糸まとわぬナナコが目の前に現れた時、僕は掻き立てられるだろうか、その姿から想像され、計測された、赤く塗られた体温が僕の肌に覆いかぶさる時、僕はどう反応するだろう。本能はどう反応するだろう。
何か鍵屋の言う、トリガーが見つかるだろうか?
彼女か、カメラの向こうにいる誰かが、僕にトリガーを教えてくれるだろうか?あの時感じた美しさ、僕と、誰か他の計測の論理を重ねて、世界をより鮮明にすることが、もしかしたら僕のトリガーだったのだろうか?
僕は台所へ行って、蛇口を捻って直に口をつけて、浴びるように水を飲んだ。鼻と髪が水に濡れた。ここまでで浮かんできた考えも、火照った額の感覚も、昨日見たことも、一昨日見たことも、これまで僕が積み上げてきた論理の全ても、一度全てを洗い流してしまいたかった。冷たい水が青く感じられた。
僕はデスクに戻って、濡れた顔をタオルで拭った。
僕の頭部はどういう温度を持っているだろう。今は酷く落ち着いている。むず痒さも浮き上がる感覚も、少し消えていた。
机の引き出しからナナコの家に仕掛けたのと同じセンサを取り出してじっと眺めた。金属に跳ね返された光は小さくとも綺麗だった。偽り無く世界を捉えてくれる気がした。僕の作った神経、人工的な神経、僕の神経の代理人。
まだ見ぬ新しい刺激や、僕のトリガー、それをこの神経の代理人はどう感じているだろう?
あるいは、僕の神経はどう捉えているだろう?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?