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晴れた日の午後から「おやすみなさい」

ここのところ休みの日の午後は、ほとんど昼寝していることが多い。


平日で多忙の中での疲れが、溜まりに溜まっているのかもしれない。加えて2、3週間に一度のペースで、実家と東京を行き来していることも含まれていると思う。

私が実家を飛び出してすぐの時期は、特に三連休のある週はほぼほぼ帰省していた。年末年始やお盆休みなどの長期休暇は、特に予定を設けずとも必ず戻るようにしている。

そしてコロナ禍に突入すると、当然ながら実家に戻りたくても戻れない状態が、ひとしきり続くのである。パンデミックの真っ只中だった時は、それでも年に一度か二度しか戻ることが赦されない状況でもあった。


これまでを振り返ってみれば、私自身にとっては一連の行動においてほとんど前例がないものばかりだ。ゆえに、置かれている現状で体を慣らすまでに相当な時間をかけないと、心身共についていける状態に結びつくができない。

だからこそ休みの日でもずっとぐうたらせず、ある時は外に出てあらゆる事に刺激を受けたり、ある時は家にいて心を研ぎ澄ましたりと。己と向き合いながらも磨いていく時間が何より大切であり、同時に必要でもあった。

一人暮らししている以上、端から端までほぼすべてのことを、自分一人で完結させなければならない。いくつかの事柄では多少面倒臭いと思うものばかりでも、それがいつか「転ばぬ先の杖」みたいに咄嗟のことで役に立つ日が来る。

こうした体験は、実家に身を寄せたままでも地元にずっと留まっていたとしても、これ以上自分の望む何かは得られないだろう。学生でいるうちに、勉強を通じて大半を経験したのだから。


これより先は、常に何かしら変わりゆく都会に身を置いていなければ、自ら内に秘めた可能性を持って切り開くことが今より厳しくなる。

このままでいては代わり映えのしない生活にやがて、向上心を含んだモチベーションも廃れていき、いずれ堕落していくことになるだけだ。

20代前半の頃にそうした気づきに「このままでいてはいけない」と、自分をもっと遠い世界へと連れ出すきっかけに巡り会えた。

なのに今では「時間は有限である」ことを含めて教わっていたのにそれすら忘れ、言い訳するようにして動かないままでいる。

それでもなんとか自分を動かすきっかけを作らんと、この休みの日は午後一になってブラックコーヒーを飲み干したり買い溜まった本を読んだりしていた。

だが気づいた時には時刻は夕方を指し、日もすっかり落ちて辺り一体は暗くなっている。

あと何度同じことを繰り返すのだろう。いつまで経っても睡魔に負け続けては、得るべきものも得られなくなってしまう。


「おやすみなさい」と瞼を閉じてから、己の目覚める時がだんだんと近づいているぞ、自分よ。

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