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日曜の深夜番組にならう

なんか日曜日の深夜の番組みたい
時々 誰のために僕はいるんだろうと思う

スガシカオ「ホームにて」

学生の頃、テスト勉強などを終えた深夜の時間帯に眠れなくなると、私はきまってラジオを聴くことがあった。

自室にあるMDコンポから騒がしくならないならない程度の音量で流したり、当時使っていた手のひらサイズのウォークマンとヘッドホンを接続して聴いたりと。

その日その時その気分によって、手段であったり聴く放送局はたいていバラバラである。まれに、一日の放送を終了を知らせる旨のアナウンスを耳にすることもあった。

そこに「こんなのを聴いていたんだ」と、誰かに紹介したり人前で披露したりするという概念なるものは一切存在しない。

ましてや前述にある、スガシカオのシングル「19才」のカップリングとして収められている「ホームにて」を、誰かにゴリ押ししてまで薦めたいとは思わなかった。

ただ在るのは、たった一日で散るに散らばった断片のような思考を研ぎ澄ますための…なんとも言葉だけでは表現し難いものが秘められている。


今や23時頃になって、此処noteで記事を一本投稿することが当たり前になってきている。遡ること1、2時間前に姿勢を正して面と向かいながら、時折頭や体の体操などをやってみたりと。

因みにストックは恥ずかしながら今現在一つもない。ここ1、2ヶ月のうち土日の空いている時間帯で何かしら作成しようと試みても、結局ネタどころか文字すら一向に浮かんでこないのが現状である。

おそらく学生時代におこなっていた勉強の仕方が、此処noteで記事を作成していくうえで、少なくとも一つのクセとして影響を受けているのかもしれない。

思い返せば学生だった頃も、休日の昼間はほとんど勉強に手を付けることをせず、深夜近くになって急に集中力が湧いた状態で始めることがほとんどであった。

日付が変わる間際になり、ようやく自分の考えていた「なにか」が降りてきてはラストスパートをかけるようにして進めたりと。

そうした短い間で自分なりの努力を形にしようとも、仮にどれだけ長期的な計画を立てて実行しようとも、結果はほとんど報われないものが大半であった。

たぶんそれは周回遅れだと気付かされた自分が、なるたけ人に追いつこうと必死に藻がいていたのだと思う。

そしていつしか仮面を忍ばせるように、自分の努力を露出しないように、表立った行動は控えるようになっていった。

それらの過去の行動が、今の記事の作成であったり投稿の仕方に表れているかもしれない。

もしも誰かになぜ投稿するのかと訊かれたら、一定の人に対して注目の的になるかならないかを期待しなくてもいいからだ…という含みを、今はまだ持たせていい。

語彙力だとか文章力だとか、誰かに見られているいないとか考えず、この瞬間にある自分の表現できる全てを注ぎながらも、いずれは「あれやこれや試行錯誤してみたらこうなってしまいました」と茶化せるぐらいになればいい。

また今日も某所にある無人駅のホームのような場所から、最終電車が出発しようとしている時間帯に誰にも気づかれないよう、ひっそりと産み落としていく。

自分の意思が相手にそのまま伝わらずとも、ほんの少しだけでも汲み取ってもらえたらいいと思うのである。

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