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2022.03.12


母『昨日の朝、お父さんの具合が少し悪くなったので、
  仕事に行く前に(弟)に来てもらいました。』

母『それから状態は少し落ち着いたけど、今は少し
  血圧が下がってきていて…
  なんとも言えないけど、もしかしたら急に
  具合が悪くなるかもしれないし、
  もちこたえるかもしれない。』

母『何かあれば連絡するけど』

『大丈夫ですか?』私

母『うん』

母『(弟)には同じように連絡した』

『(弟)は、なんて言ってた?』私

母『何かあればすぐ電話してって。
  電話くれればすぐ行くからって』

『そうか…』私

『こっちがすぐに行けない場所でごめん』私

母『仕方のないこってす』

母『そんなの気にしなくていいよ…』

母『とりあえず、容態が急に変わることが
  あったら、また連絡するね』

『うん』私

母『看護師さんから(弟)を呼んでほしいと
  いうので、電話して来てもらうことに
  したよ』

『はい』私

母『今、容態が落ち着いているので
 (弟)は家に帰りました。
  何かあれば、すぐに電話して来てくれる…と』

母『ツカサにも心配かけるけど、ごめんね』



* * *




父が緩和病棟に移ってから程なくして、母はしばらくの間、父のいる病室に付き添いで寝泊まりすることになった。

弟は自身の仕事が多忙を極めているにもかかわらず、父が入院している病院へと合間を縫って面会に訪れていた。

そして私は…その年の正月に過ごしたことを最後に、一度も会うことを果たせなかった。もし世間がコロナ禍じゃなかったら、何度も会いにゆくことができただろうか、あるいは…。


この世に生を受けた日から数十年が経った今、これまでの半生の中でかつて経験したことのない虚無感に苛まれていた。

たった一つの言葉すら出せず、その夜に母とのLINEを終えた後で、私は独り誰もいない部屋の中で俯いていたままだった。

これほど自分が情けないまでに無力さを感じたことはない。これが思い描いていた未来なら、いっそのことすべて手放してしまいたいくらいに。


明日は、明日になったら、何が起こるというのだろうか…。

未曾有の不安に駆られながら、闇の中に横たわるようにして、私は静かに眠りについた。




2022.03.13




その日の夕方、私は実家に戻る支度を整えていた。

しばらくこの場所を離れるからこそ、忘れ物がないか今一度確認しながら、バッグやスーツケースに荷物を詰め込む。

その中には、普段からあまり使われることのない物も含まれていた。それも私が一人暮らしを始めてから皮肉なことに、一度も日の目を見ることのなかった物まで。

今に至るまで覚悟していたことがとうとう訪れてきてしまったこと、すぐにここから向かわなければと思うと、余計に体が、両目が、心がすべてナーバスとやらに襲われてしまいそうになっている。

頭上に負の感情で埋め尽くしている靄に、何もかも惑わされている場合ではない。そして今にも溢れ出そうな感情を、ここで堪えきれなければいけない。

時間は止まらない。たとえこの手で針を無理に止めようとしても、もう時は止まってくれない。

母から入った一報から数分後、母や弟に今から戻ると電話で伝え、同時に会社の上長にもしばらく休む旨の連絡を入れた。


これで準備は万全だ。今からまっすぐ行けば、遅くとも日付が差し変わるまでに辿り着くことができるだろう。

ベランダより先に見える空は、うっすらと赤みがかっている。日没まで少し早いけど、カーテンを閉めたらそろそろいかなくちゃ。

玄関前でいつもより少し重たくなったバッグを背負い、いつもより少し詰め込んだスーツケースの取っ手を引っ張りー




「父さん、今から会いに行くよ…」









午後4:45


母『心拍数が下がってきた。
 (弟)を呼んでと看護師さんに言われたので
  来てもらうことにしました。
  ご報告までに』


『はい』私





………



……







午後5:26




母『今 お父さん 息を引き取りました』






最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!