大人になることを選ばずに
なんとなく、青藍遊泳の一説を思い出していた。
最近じゃたまにしか見ることのないヤフーのトピックから、どうしても気にならざるを得ない記事が、自分の目に飛び込んできたのだ。
彼ら彼女らは、これからの将来や未来に幻滅し、悲観して身を投じることを選んだのか。それとも、今置かれている辛さや苦しみを断ち切ろうとして終わらせることを選んだのか…。
いくら憶測を立てても、何の解決の糸口にすらならない。そうこうしている間にも、自分の視界に映らない場所で、これからの道を照らしていくであろう灯火が風に煽られるようにして、次々と消え去ってしまっているのも事実だ。
その火がこれ以上消えてしまわないよう、今回においても懸命に消火活動…ではなく点火活動なるものが盛んにおこなわれていた。
ただ「自殺してはいけない」「辛かったら逃げればいい」という声々が、一部の感情が欠落している私にとってはどうしても軽々しくも虚しく響いてくる。
今にも心が折れてしまいそうな人たちに向けて、精一杯の思いを伝えていることに違いない。しかし思い通りにいかないこの現実では「いけない」などと口より先に伝えただけで、あるいは文章に羅列しただけで、そう簡単に止まるはずがない。
それよりも、幾度となく絶望に浸りすぎてしまった人たちが、自らを保てなくなった子たちが、その一言でも耳を傾け、救われた試しが果たしてあっただろうか。
思わず避けられてしまいそうな綻びのように、大きく開いた傷口など誰かと比べるものではないし、それらは比べられるようにできてなどいやしない。
自分の痛みは、自分にしかわからないものだ。
そうした痛みに対し、一つも寄り添おうとしないで解決に至らせようとするなど、随分と虫のいい話ではなかろうか。
さらに、この話題がネット界隈を通じて報じられるごとに必ず現れる、一つか二つの通信サービスにおいて、近頃はどうも違和感を覚えてしかたがない。
彼ら彼女らはいったい、どういう心境でもって乗せているつもりなのか。毎回それが目に映るたびに、これを見れば少しは歯止めがかかるはずと思っているのなら、それはもはや早計ではないだろうか。
一人の命すらロクに救おうとしないで、根本的な要因を真っ向から向き合おうとせず、これから先の明るい社会を築き上げていくだと。そんな生半可な対処法のまま、どれだけ時間をかけようとも一向に実現できるはずがない。
本当に一人でも多くの命を救いたいという意思が少しでもあるのなら、数字の荒稼ぎなどしてばかりせずに、目の前の困っている人を助けることに尽力を注いだらどうだろうかと思う。
そうしてまた一人静かにこの世界から、リタイヤを掲げて退場していく人間がいると思うと、どうも居た堪れなくなってしまう。いずれ私自身もふとした場面に遭遇した瞬間、そのうちの一人になっていくのだろう。
けれど、全部が全部において絶望しているわけではない。少なからず、癒しと安らぎの空間と時間を作るための方法は、手に入れているつもりである。
仮にもし、自分にとって本当に価値のある未来が欲しくなったら、たとえ周回遅れになっていたとしても、自力で必死に足掻くようにして探し出すから。
最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!