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差し伸べたこの手に見返りは要らない

時々街中を歩けば、落とし物を目にすることがあった。


だが私は今まで、それを拾って届けようとする行動に出ようとしなかった。落とした本人に対して、声をかけるのが気恥ずかしいと思ってしまい、素知らぬフリをして通り過ぎていくことばかりであった。 

そのたびに、なぜか無意識にたかぶった感情が鎮まった途端、そうした後悔の念に苛まれることがあった。あの時すぐに拾って、持ち主の元ないし手がかりの掴めそうな相手に届けるべきだったのではないか、もしくは声をかけるべきだったのではないかと。

自らをその行動に移せば事が進んでいくはずなのに、それすらまともに出来もしなかったのである。それに自ずと前に踏み出さずとも、周囲に居合わせている誰かが気づいてくれるからという、アテのない期待を寄せていたことも事実だ。


先日、自宅の近所に最近できたばかりの小さなスーパーに、切らしてしまったインスタントコーヒーを買いに出向いた時のこと。買い物カゴを手に取ろうとしたところ、その中に誰かの鍵が置かれていた。

小振りのサイズからにして、自転車を施錠するための鍵だろう。しかしなぜに、買い物カゴの中にその鍵が置かれたままになっているのか。少々不自然だったとはいえ、この時点で誰のものかわからない以上、解決策がすぐに見出せない。 

そしてまた例のごとく、何事もなかったかのように見てみぬフリをしながらその場を通り過ぎようとしたが、不意に足が止まった。 


もしかしたらその鍵の持ち主は、今も見つからないまま気が気でないのかもしれない。これを自分に置き換えたら、思いがけないことで大事な鍵を失くしてしまって、想像以上に焦りを感じているに違いない。

自分以外の誰かが気づいてくれるからと、そう考えている場合ではない。最悪、その鍵が心無い人の手に渡り、悪用される可能性だって十分に考えられる。

この場でその鍵の持ち主が誰なのか、手かがりがすぐに掴めなくとも、せめて店員さんに声をかけることぐらいはできるはず。もはや、かつてのように気恥ずかしいからといって、躊躇ちゅうちょしている場合ではない。

私は自転車の鍵が入ったカゴを手に取ってレジカウンターに向かい、待機している店員さんに声をかけた。


「すみません、このカゴに誰かの自転車の鍵が置いてあったんですけど」


「あ…ありがとうございます!」


おそらくその鍵は、声をかけた店員さん本人のものだったのだろう。差し出した鍵を受け取ると、感謝の念を伝えるようにして何度も頭を下げてきていた。同時にその声色からにして、しばらく探していたとの様子を伺えた。

私は「良かった」と一安心しながらも軽く会釈をして、特に何かしらの話を続けるでもなく、その場を後にした。


自宅に戻った後、我に返るようにして気づいたのだ。今まで見てきた落とし物に際して一連の行動に移さなかったのは、単に気恥ずかしいだからという理由の他に、落とした相手に対してどこか見返りを求めていたのかもしれないと。

だがそれは必要のないことだ。困っているところを助けたからだの、危機から救ってやったからだのと云って、何でもかんでも対価にして得ようとするのは、少なくとも私だけでなく今に生きる現代人がするべき行為ではない。

困っている人が笑顔になれば、それだけでも十分な報酬だ。何か一つ確実に変わらなくても、その人のきっかけが何か一つでも変わるのなら、手を差し伸べる意味は有ると思いたい。





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