情熱をどこかに置いてきてしまった日
「この曲が耳に飛び込んできた瞬間、車を停めて聞き入ってしまった」という話を、いろんなところから耳にした。
私がスガシカオの2枚目のシングル「黄金の月」を初めて耳にしたのは、前述のようなエピソードではなく、発表から丸10年の歳月が流れた年にリリースされた、ベストアルバムを手に取った時であった。
高校生の頃、はじめてスガシカオの音楽に触れた当時は、ベストアルバムに収められた楽曲だけでは飽き足りなかった。以来、過去に遡るようにして既に発表されていたオリジナルアルバムを、片っ端から手に取っていたことを今でも記憶している。
ある時は、地元市内にあるCDショップやレンタルショップなどに出向いたり。ある時は、まだ出始めたばかりの通販サイトを利用したりと。相当なまでに、スガシカオの音楽を欲していたと思う。
そうした出来事が懐かしいと考える一方で、はじめて出会ってから延べ十数年以上も経過している中、純粋にあの頃の気持ちのままで聴くことができなくなってきているのも事実である。
これを、年代ものとして深みが増してきているから、と置き換えるのであれば、少しくらい聞こえはいいかもしれない。
だがそれ以前に、私は学生の頃にすでに、スガシカオの歌詞観が他のアーティストと比べ、現実性を帯びているのを知っている。だからこそ、特に「黄金の月」が、この空いた心に余計に響いてしまうのだ。
今の私にはたぶん、自己を奮い立たすような感情は、ほとんど持ち合わせていない。憧れと希望を抱きながら上京した20代前半の頃に、地元から持ち出してきたうちの「情熱」を、気づかないうちにどこかに忘れてきてしまったんだと思う。
周囲に流されるようにして、慌ただしい日々に自らを置きすぎたせいかもしれない。やがて自分にとって大事なものが何だったのかさえ、まつでどこかに貴重品を忘れた事実にも気付かないままになっている。
そこには、自身の精神がやや落ち着いてきた歳に踏み入れたということも、一理は考えられる。
それと同時に私は、いくら努力を積み重ねても、願いや祈りを込めても、決して何一つ報われないことを覚えてしまった。どれだけ過程を大事に育もうと、最終的には結果がすべてである。
若かりし頃に火がついた情熱を置き忘れてきた代償は、あまりにも大きすぎた。そう嘆いたとしても、過去は何一つ変えられやしない。
それらの時間を、二度と取り戻せない今に生きている以上、諦めることでしか道が開けないのなら、どんなに嫌なことであっても選んでいくしか、他に手段がないのだろうか。
この先、10年20年以上経ていつの日か自分にも、今よりさらに深い老いを感じる年齢になってきても「黄金の月」を何度も繰り返し聴き続けると思う。
また一つ歳を重ねると引き換えに、体の一部に帯びていた熱が冷めていくのを感じながら、ひとり暗闇に浸るようにして振り返るかもしれない。
かつての自分が思い描いていた夢や理想、そして未来に、一歩も近づくことが叶わなくても。
最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!