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リビングルーム

 あら、いやだ、血が出ているじゃない。
 あなたっていつもどこか、怪我している気がする。野良猫のルートでもたどって家まで帰ってきてるんじゃない? 柊の葉っぱに引っ掛かったような切り傷だとか、コンクリートの塀から落ちたような、アザね。

  猫なら毛でおおわれてあるし、身体もやわらかいから怪我なんてしないんでしょうけど、猫の真似なんてしていたら人間は一日で満身創痍よね。

 正しく人間の道を通って帰ってきているのだとしたら、そのほっぺたの傷は、かまいたちかしら。
 かまいたちって、あなた知らない?
 妖怪なんですって。
 つむじ風にのって現れるのよ、三匹で一組になってね、一匹目が標的を転ばせた隙に、二匹目が鎌で傷をつけるの。で、三匹目がその傷に血止め薬を塗るっていう......まったくなにがしたいのかしらね。突き飛ばして、傷付けて、取り繕って。
 性質の悪いメンヘラ女みたい。
 そういえば、この間そんな感じの女から私のところに電話がかかってきたの。あなた、その人、ご存知? そう、あちらはあなたをよく知っていたみたいだったけれど......。

 それにしても、あなたがかまいたちを知らなかっただなんて、驚いた!
 みんな、こどものときに知るものだと思っていたもの。少しショックが大きいわ。寝込んでしまったらごめんなさいね。
 私がかまいたちを知ったのはね、小学二年生のときなの。妖怪が流行ったのよ、クラスでね。変な名前の妖怪をたくさん知ってる子もいたわ。あかなめ、手長足長、ケウケゲン、だとか。その子が覚えていた妖怪の名前、百はゆうに超えてたと思う。もしかしたらその子が自分で考えた妖怪もあったのかもしれないけど。そうかもしれないわよね、だって本当にたくさん知っていたのよ。もしかしたら適当なことを言っていた可能性もあるわよね。ねぇ、どう思う?

 そう、本人に訊いてみたら答えは分かるわよね。
 だけど、今さら正解を知るのは難しいわ。だって、その子の連絡先ももう知らないし、名前だって、忘れてしまったもの。それに、二十年経って唐突にそんなことを訊いたら......異常な人だと思われてしまうかもしれないじゃない。
 社会的常識や客観性くらい、兼ね揃えているわ。
 あなただって、そう分かっているでしょう?
 あなたは私の恋人だもの、私のことをちゃんと、知っていてくれるものね。あなたは私の恋人、私はあなたの恋人、そう。百回復唱して。

 ありがとう。それにしても、あなたがかまいたちを知らなかったのにはまったく驚いたけれど、よく考えてみたらそんなことってきっと、ままあることかもしれないわよね。
 この年になっても私、毎日新しいことを、知って、びっくりすることがあるもの。裏を返せばそれって、世の中にはまだまだ知らないことばかりってことよね。

 最近はね私、お相撲さんの四股名が苗字と名前で構成されてるっていうことを知ったの。
 白鵬の名前は、翔よ。
 彼の体格から考えると、名前はずいぶん軽やかなイメージよね。
 私、白鵬は白鵬だと思ってた。白鵬が名前、その四股名のすべてだって。 でも、白鵬は苗字にあたる部分で、名前にあたるところは、翔だったの。

 私、お相撲さんにはとくに興味はなかったんだけど、テレビでニュースを見ていたら、画面に「白鵬(翔)」って出ていて、ふっと疑問に思ったのよ。それまでも、きっと「白鵬(翔)」っていう字面を何度も見掛けていたんでしょうけど、私そのときにはじめて(  )の中の文字の存在に気付いたの。
 (翔)ってなに? って。
 そこから(翔)の正体を知るまでに費やした時間はザッと十秒。ネットで検索したらすぐだったわ。

 あなたも、かまいたちを調べてみて。
 すぐに出てくるでしょ?
 ......ちがう、キングオブコントで優勝したお笑いコンビのことじゃないわ。

 ところで、私がお相撲さんの四股名の構成について知らなかったこと、これは、非常識なことだと思う? それとも知っているのは物知りの部類に入るのかしら。日本人のスタンダードな知識がどういったものなのか知りたいわ。 かまいたちのことも、知らなくてもそんなにおかしなことじゃないのかもしれないしね。

 個人の知識って、その人の属性や興味によって偏っているものじゃない。私もスポーツに関しては本当に疎いから、ニュースで目にしていてもあとから覚えている選手や試合結果なんて、なにもないもの。
 私、家のテレビで野球を見ているときにあなたにルールの質問ばかりしている自分が、本当にばかっぽくて、嫌いなの。いつも同じ質問ばかりして、ごめんなさいね。全然なんにも、覚えられない。

 自分が身を置く環境で、常識や知識の平均値なんて変わるものよね。 出会う人やものによって、導かれたり切り開かれる部分もあるわ。 そう、そういう面では私、割合にまわりの人たちの影響で変な方向に連れていかれやすい気がするの。おかしな人に出会ったり、まさかのタイミングで変わった出来事に遭遇したり、そういう引きが強いのよ。 運みたいなもの、かしらね。

 昼間もね、それを実感するような出来事があったの。バイト先でね......あ、私この間から東雲の「ケーキ・ディッシュ甲本」っていうお店で働いてるんだけど......そうね、これは誰にも公表していない情報よ。インターネットで検索しても出てこないわ。私、TwitterやFacebookもやめちゃったし。言ってなくてごめんなさいね。自分のことを誰かに話すの、苦手なの。

 ケーキ・ディッシュ甲本はパスタとピザのお店。ランチタイムはデザートのプチ・ケーキ食べ放題で、ウェイトレスがケーキの載ったお盆を持って客席をまわりながら、お客さんにおかわりが必要かどうかを訊くんだけど、今日もそうやって働いていたら、私、驚くべき人物に会ったの。
 早川さんよ!

 テイカちゃんて覚えてる?
 私が入ってる烏山のレース編みサークルで一緒だった、可愛い子。
 テイカちゃんは細くて、目が大きくて、いつも涙ぐんでるみたいに潤んだ瞳をしていたわ。

 早川さんはテイカちゃんの彼氏。三年前にそう紹介してもらったの。......今は、もしかしたら、元彼なのかもしれないんだけど。

 テイカちゃんと最後に連絡をとったのは、もうずいぶん前ね。
 「ちょっと最近立て込んでて、しばらくサークルには行けないかもしれないです」って、LINEが来たの。律儀な子よね。そのあと、私が返信したメッセージには今も既読がつかないわ。そう、最後のメッセージを送ってくれたのを境にして、彼女は姿を消してしまったの。

 私、とっても悲しかった。
 だけど、仕方がないことだとも思った。なにか、事情があったに違いないのだもの。深追いしてしまうのも、デリカシーがないと思ったし。 それが大人の優しさなのか、薄情なことなのか、いまも、それは......私には分からないのだけれど。

 早川さんのことは、よくテイカちゃんから聞いていたわ。三人で会ったことも何度かあるの。
 正直に言うと、不思議な関係性のふたりだと思った。確かに、恋人同士よ。だけど、そうね、説明するのは難しいのだけれど、ふたりとも、母親を探しているみなし子のような雰囲気を持っていたわ。だけど、それぞれが愛して求めているお母さんの姿は少し違っているような......そんなイメージね。

 私、早川さんにテイカちゃんのことを訊いてみようと思った。
 だから、「ケーキのお代わりはいかがですか?」って、尋ねたのよ。まわりくどいアプローチをしたのには、わけがあるの。 早川さん、女の子と一緒にいたわ。 可愛い子だったけれど、その子は、潤んだ瞳は、していなかった。

 ケーキのお代わりは断られたの。 少し驚いたような早川さんの目、確かめたような気がするのだけれど、私、そのときは言葉を続けることができなかった。それで、軽く会釈だけしてそこを離れたの。

 だけどね、他のお客さんの席をまわりながら、チラチラ早川さんの方を何度も、振り返ったわ。 早川さんの向かいに座る女の子が席を立つことがあったら、もう一度戻ってみようって。 そして、今度は、ケーキのお代わりよりも尋ねたいことを口にしようと思っていたのよ。
 それはもちろん、さっきの早川さんだって、気付いていたことだったと思うのだけれど。

 一瞬の隙ね。私がA5卓のお皿にチョコレートケーキをうつしている間に、早川さんたちはいなくなっていた。
 私の就労態度は、ケーキ・ディッシュ甲本のウエイトレスとしては合格だったけれど、テイカちゃんの友人としては失格だったのかもしれないわ。   テイカちゃんが、いま、どうしているのか、知りたいと思う、やっぱり。 彼女は私にそれを知られたくないのかもしれないし、私のことなんて必要とはしていないのかもしれないけれど、それでも知りたいって、それは、感情として、私はそう思うの。
 少し、心配なところがあるのよ、彼女。みなし子みたいだって、言ったでしょう?
だから...... そんな言い方は差別的?
 でも、私だって、自分をみなし子みたいだって思うわ。
 少し、誰かからそう言われたいと思う気持ちもあるの。ナルシスティックな自己憐憫かしら。 でも、そんな感情を覚えていなかったら、私たち、きっと、レース編みサークルになんて入っていない。

 ねぇ、分かる? この気持ち。
 「レース編み」で、画像検索すれば、出てくるから。
 雪の結晶みたいなコースターや、かすみ草のブーケみたいな飾り襟。
 繊細で、綺麗で、あまり実用性はないの。
 私はそういうものが好きだわ。テイカちゃんも、きっと、そうだったと思う。 少なくとも、あのレース編みサークルの人たちの中で、私がそう感じたのは彼女だけ。
 違うの、同じものが好きで、同じジャンルのものをつくっている人たちでも、なにも分かり合えない、同じものをみていてもまったく見方が違う人たちばかりなの。似て非なるものがいちばんやっかいね。
 私、サークルの他の人たち、全員気持ち悪いと思ってた。

 テイカちゃんのこと、みなし子って言ったけれど、それは少し、違うのかもしれないって今、思ったわ。
 私たち、家出をしたこどもにも似てる。

 自分の意思で、新しい場所を探しているところも、あるの。
 それはまだ見たことがない場所ではなくて、もしかしたら、懐かしい匂いのする場所なのかもしれないけれど。

 テイカちゃんが私の前から消えてしまったこと、私はそれをとてもさびしく思うわ。
 だけど、少しね、期待もしているの。 みなし子なのか、家出少女なのか、分からないけど、とにかく彼女は探しているから。たどり着こうとして、向かっているから。
 そのためには、今いる場所から去って行くという選択も、仕方のないことだったのよ。

 いつかどこかで、彼女の選んだ道や、考えてきたこと、感じたことをね、話してもらえる日がきたらいいなと思う。美味しいケーキでも食べながらね。
 それは、明日でもいいのよ。だけど、十年後だって、いいと思う。
 今すぐに知ることはきっとできないのだろうけれど、私は日々、何かを知っていくしね、世の中はまだまだ知らないことだらけだから、飛び上がっちゃうほどびっくりするはじめてと巡りあうのを、私はいつでも待っているの。

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