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長編小説『赤い大河』冒頭試し読み

 ようやく頭部が外に出たのだろう。遠退いていた意識を必死にたぐり寄せた爽香さわかは、瞼をゆっくりと押し上げた。脂汗が目に入って鋭く沁みる。大量の汗で冷たく湿った首周りが、真夏の気だるい寝起きを思わせた。
 狭い部屋の真ん中で仰向けに横たわり、ひたすら痛みに許しを乞う。ごわごわとした安物のシーツは、ちっとも汗を吸ってくれない。背中のじっとりとした気持ち悪さに、普段なら苦笑の一つも滲むところだが、今はとてもそんな気分になれない。
 固いシーツを掻きむしったせいで、指先がひりひりと痛む。ちょっとやそっと爪を立てたくらいでは、こうはならない。そういえば、どれくらい時が過ぎたのだろう。ほんの数分のようでもあり、とても長い間こうしていたような気もする。
 絶え間なく続いていた痛苦が弱まって、すっかり気が緩んでいた。唐突にぶり返してきた腹痛が、取り戻したばかりの意識を容赦なく呑み込んでいく。全身がひどく強張って息ができない。
 次の瞬間、風船が一気にしぼむような感覚と共に、言葉にならない安堵が全身を包み込んだ。激痛の嵐は去った。だがそこには、明るい晴れ間も温かい歓声もない。迎えてくれたのは、味気ないベージュの天井と、宇宙の終わりを思わせる静寂。そして、口一杯のコーヒー豆を噛み砕いたような苦々しさだけだった。
 辺りには、壁に埋め込まれた小型テレビと、合板製の小さな棚、固いマットレスの寝床と枕。その他には、最低限の寝返りのみ許された息苦しい壁しかない。夜更けにこのカプセルホテルのチェックインを済ませた爽香は、程なくして腹痛に見舞われた。経験したことのない激痛に、たまらず寝床へ倒れ込む。あとはただただ身体の異変に慄きながら、何度となく押し寄せる痛みに翻弄されていた。
 ゆっくりと上半身を起こしてみると、自分の身体とは思えないほど重かった。股座またぐらの辺りに気配を感じて、疲労にかすむ目を両腿の間へ向ける。ついさっきまで存在しなかった何かの温気が、視線の先で生々しく立ち上っている。
 自分の身体から人が出て来た。途端に呼吸が浅くなり、全身が激しく粟立った。こうなることを避けるためにここへ来たというのに、覚悟がほんの少し遅かった。すぐにでも逃げ出したいが、疲れ果てた身体は駆け出すどころか、立ち上がることさえままならない。
 意識の中に、どこまでも続く暗いトンネルがちらついた。あまりの息苦しさに、脂汗が止まらない。白いニットの裾をめくって、何度も顔を拭った。大量の汗で湿っているニットはひやりとするばかりで、拭いた後の爽快感はまるでない。ただその冷感のおかげで、これが現実ということだけはよくわかった。
 すぐ傍で叫声が上がり、思わず肩をすくめた。赤子の産声だ。すっかり汚してしまったベッドの上で、小さな手を固く握り締め、この世の一員となったことを声高に知らせている。咄嗟に手が伸びて、赤子の口を塞いだ。熱い吐息が、手の平の向こうで必死に荒ぶっている。塞いではみたものの、泣き声はくぐもっただけで尚もフロア中に響き続けた。このままではつまみ出されるか、下手をすると警察に通報されてしまう。
 赤子の噴火は激しさを増す一方だ。切羽詰まった手が、とうとう細い喉に伸びた。途端に音量が下がり、今まで感じなかった室外の気配が伝わってくる。好奇に満ちたざわめき。大勢の野次馬が、この部屋の前に集まっているようだ。
 喉にかけた手が激しく震え出す。産声は勢いを失い、程なくしてぴたりと止まった。赤子の顔が不気味な夕焼け色に染まっている。ああ、この子は一度も光を見ることなく、暗いあの世へ行ってしまうんだ。
 たちまち視界が滲んで、すべてがゆらゆらと溶けていく。涙で何も見えないはずなのに、赤子の眠るような顔だけははっきりと眼前に浮かんでいた。
 私といても、辛いことばかりだよ──。
 喉へ伸びていた手を離すと、赤子は小さく溜め息をついて、すぐに皺だらけの赤い顔に戻った。目は開いていないが、母の気配は感じているのだろう。両腕を弱々しく伸ばして、その気配を摑もうと不器用に指を動かしている。
 気がつくと、我が子を胸に抱いていた。衣服越しに温もりを感じると、鼻の奥がつんとしてさらに目が潤む。赤子は母の気配に安心したのか、先ほどよりも元気な産声を張り上げ始めた。なぜだろう、あれほど煩わしかった産声が今は歓喜の歌声に聞こえる。
 キャリーバッグの中から洗いたてのタオルを取り出し、赤子を丁寧に包んで隅に寝かせた。部屋の外は先ほどにも増してざわついており、もはや赤子の号泣を上回る賑々しさだ。陣痛の名残を噛み殺して、膝立ちになってみる。右へ左へと激しい目眩に襲われたが、壁に手をつき何とか踏ん張った。休んでいる暇はない。こうなってしまった以上、もうここにはいられない。
 改めて部屋を見渡すと、ベッドの上に不規則な斑点が散らばっていた。シーツの柄や汚れではない。ここに来る前、薬局をはしごして買い集めた大量のカフェイン製剤だ。それらを一粒残らず飲み下すためここに入ったのだが、空のコップにすべて取り出した矢先に陣痛で倒れ、あとは見ての通りだ。
「開けてください。他のお客様から苦情が出ています」
 厳しいノックに続き、従業員らしき男の低い声が聞こえた。部屋はあらかた片づいたものの、頭の中はまだまだ散らかっていて考えがまとまらない。だが、じっくり考えたところで状況が好転するだろうか。結局のところ正面突破しかないことくらい、初めからわかっていた。
 赤子をそっと抱き上げる。腕に心地好い重みを感じると、ますます肝が据わってきた。さっきまでの陰鬱が嘘のように、暢気な笑みまで込み上げてくる。どこまでも暗かった行く手に、少しだけ光が射したような気がした。
 そろりと扉を開け、待ち構えていた従業員にいきなり頭を下げた。続けて、相手が口を開くより早く、強引に金を握らせる。これだけ渡せば、汚してしまったシーツやマットレスを買い換えてもお釣りが来るだろう。野次馬たちは目を皿にして、その一挙手一投足に食い入っている。絡みつく視線の束へ満面の笑みを返すと、野次馬たちは気まずい顔をして一斉に視線を逸らした。
 その隙を見て床を蹴り、一目散に出口へ走った。誰かに呼び止められたような気もするし、何も聞こえなかったような気もする。自動ドアの向こうの、街の明かりが果てしなく遠い。このときほど時間の進みを遅く感じたことはなかった。



短くて申し訳ありません。試し読みはここまでとなります。
序章はこの後もしばらく続きます。そのあとは、一〜五章、エピローグと続き、全部で11.5万字くらいです。
どちらかといえば女性向けのカバーイラストですが、私が男だけに、男性も面白く読める作品になっています。いや、むしろ男性のほうが共感できる場面が多いかも……。
思わず自分の人生を振り返ってみたくなる。そんな読後感の作品となっています。

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『赤い大河』よりエンタメ色が強く、読みやすくて読み応えも十分です!
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