塚本正巳

小説を書いています。 脆くて強い人間愛の物語『赤い大河』(幻冬舎)(https://a…

塚本正巳

小説を書いています。 脆くて強い人間愛の物語『赤い大河』(幻冬舎)(https://amzn.asia/d/8RvTQgu)。

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長編小説『赤い大河』冒頭試し読み

序  ようやく頭部が外に出たのだろう。遠退いていた意識を必死にたぐり寄せた爽香は、瞼をゆっくりと押し上げた。脂汗が目に入って鋭く沁みる。大量の汗で冷たく湿った首周りが、真夏の気だるい寝起きを思わせた。  狭い部屋の真ん中で仰向けに横たわり、ひたすら痛みに許しを乞う。ごわごわとした安物のシーツは、ちっとも汗を吸ってくれない。背中のじっとりとした気持ち悪さに、普段なら苦笑の一つも滲むところだが、今はとてもそんな気分になれない。  固いシーツを掻きむしったせいで、指先がひりひりと

    • 【短編小説】愛しいかおり

       潮風は穏やかでも、母なる海の匂いは孤独な心に鋭く沁みる。だから私はいつも、そんな傷だらけの心を優しく包んでくれる琥珀色の香りを持ち歩いている。こんなものをバッグに忍ばせて通勤している女なんて、日本中を探しても私くらいのものだろう。  仕事帰りは決まって、隅田川沿いの広々とした歩道をのんびりと歩く。綺麗に整備された河岸は駅までのどの道よりも快適だし、遮蔽物だらけの都会では珍しく、辺りの景色をどこまでも見通せる開放感に満ちているからだ。  そしてある日を境に、私にはもう一つ川

      • 【短編小説】頑固な迷子の対処法

         『雨が降ったらお休みで』なんて歌詞の歌があったが、なんて羨ましい学校なんだろう。雨の日は気持ちの落ち込みが特にひどく、学校の授業なんて少しも頭に入らない。いっそ雨の日はあの歌の通り、学校も部活も休みにしてくれればいいのに。  バドミントン部の部活に嫌気が差した早紀は、部活をサボって立ち寄ったホームセンターで深々と溜め息をついた。中学二年生になってようやく上達を実感し始めたところだというのに、昼過ぎに降り始めた雨のせいで何もかも嫌になってしまった。  明日からは何を楽しみに登

        • 【短編小説】風呂とカレーと量子論

           帰宅した雅彦が玄関のドアを開けると、独特の馴染み深い香りが鼻の奥をくすぐった。 「なんだ、今夜はカレーか」 「お帰りなさい。ちょっと待ってて、すぐ温めるから」  妻の美里は、台所で洗い物をしながら陽気に答えた。その光景に思わず足が止まる。 「飯の前に洗い物か? 陽太と芽衣はいないんだろう?」  小学五年生の陽太は二泊三日の林間学校に行っているし、四年生の芽衣は夏休みを利用して同級生の家でお泊まり女子会をやるらしい。今夜は久し振りの夫婦水入らずなので、夕飯は待っているものだと

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          【短編小説】ぷかり桟橋

           正面から歩いて来る男を見て足が止まった。休日の午後、繁華街で買い物を済ませて駅に向かう途中だった。 「里緒、久しぶり」  男は懐かしい笑みを浮かべ、気さくに手を挙げた。たちまち全身が凍りつく。私は男の人懐こい視線をはねつけて踵を返した。 「待って、話がしたい」 「私は話なんてない」  男の名は大樹。実家の近所に住んでいた同級生だ。しかも私たちは高校卒業後に付き合い始め、いつ結婚してもおかしくない仲だった。五年前、彼がすっかり変わってしまうまでは。  追いかけて来た大樹が、

          【短編小説】ぷかり桟橋

          【短編小説】明るい家族計画

           人生を左右するかもしれない、大事な金曜の夜だ。携帯電話がバッグの中でしきりに唸っているが、今はそんなものに構っている暇はない。それにしても、一体いつまで唸り続けるつもりだろう。自分が携帯電話ということも忘れて、険悪な私たちの仲裁にでも入ってくれるというのか。  そんなことができる携帯電話があるなら、すぐにでも手に取って仲裁をお願いしているところだ。せっかく直樹と二人きりでいいムードだったというのに、自分の短気な性格がつくづく恨めしい。この母譲りの短気だけは、昔からいくら直そ

          【短編小説】明るい家族計画

          【短編小説】歌うイカロスと恋する女神たち

           このところ彼は、昼夜を問わず物思いに耽っていた。暗く狭い部屋に閉じこもって、ひたすら自分の名前を考えている。彼にとって名前は重要だった。いずれこの部屋を出るだろう自分と同じ境遇の者たちが、外の世界にはたくさんいるに違いない。そんなやつらと出会ったとき、名前は必ず必要になるだろう。  彼は生まれてこのかた、一度もこの部屋から出たことがない。だからそもそも、名前というものに触れたことさえなかった。そんな彼が、名前をどう付ければいいか、自分にどのような名前が相応しいかといった、名

          【短編小説】歌うイカロスと恋する女神たち

          【短編小説】牡鹿になりたい恵みの牝鹿

           寝酒の心地好い気怠さを抱いてベッドに潜り込んだ矢先、枕元の携帯電話が鳴った。人のまどろみに横槍を入れるとは、なんて無粋なやつだろう。康生は自宅の寝室で、誰に聞かせるでもなく舌打ちを響かせた。確かに彼は人一倍丈夫な身体を持っているが、睡眠まで不要と思われるのは心外だ。  鳴り止まない呼び出し音に辟易した康生は、ベッドから渋々腕を伸ばした。次の瞬間、彼はせっかくのほろ酔いを冷たく振りほどくことになった。電話をかけてきた相手があまりに意外な人物だったからだ。 「康生さん、こんばん

          【短編小説】牡鹿になりたい恵みの牝鹿

          【短編小説】あなたを騙した夏の夜

          亜美  夏の夜空を染め上げる三尺玉には、観る者を惑わせる不思議な力がある。幼い頃の私は、本気でそう信じていた。幼馴染たちと浜辺で花火を観ていると、一番いいところで必ず涙がこみ上げてくる。そのたびに私は、まるで目の前に広がる夜の海に映ったような、涙でゆらゆらと滲む花火を見上げることになるのだ。  その不思議な涙の正体に気づいたのはいつかというと、初恋を経験し、心身ともに女性であることを強く意識し始めた小学校高学年の頃だ。刹那的な美を儚む感動。これはちょうど、誰かに恋をしている

          【短編小説】あなたを騙した夏の夜