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【短編小説】あなたを騙した夏の夜

【あらすじ】
 亜美と智也と勇輝は、幼稚園時代からの幼馴染だ。
 ある夏の朝、故郷で家業を継いだ幼馴染から、亜美の携帯電話にメッセージが入った。これから夫と二人の子供を連れて帰省しようとしていた亜美は、そのメッセージを読んで懐かしい過去を思い出していく。
 中学生の頃までとても仲が良かった亜美たち三人は、高校入学を機にそれまでの絆を失っていった。次第に思い出深い砂浜にも集まらなくなった三人は、半ば過去の絆を忘れかけていた。
 しかし、高校三年生の亜美が起こした事件がきっかけで、三人は再会の機会を得る。思春期の悩みと感情が複雑に混ざり合い、うまくいかなくなっていた三人の関係はさらに悪化するように思われたが……。


亜美

 夏の夜空を染め上げる三尺玉には、観る者を惑わせる不思議な力がある。幼い頃の私は、本気でそう信じていた。幼馴染たちと浜辺で花火を観ていると、一番いいところで必ず涙がこみ上げてくる。そのたびに私は、まるで目の前に広がる夜の海に映ったような、涙でゆらゆらと滲む花火を見上げることになるのだ。
 その不思議な涙の正体に気づいたのはいつかというと、初恋を経験し、心身ともに女性であることを強く意識し始めた小学校高学年の頃だ。刹那的な美をはかなむ感動。これはちょうど、誰かに恋をしているときの感覚に似ている。
 それからは花火を観て感涙にむせぶことはなくなったが、人生とは奇妙なものだ。私はある年から、幼い頃は滲むだけだった花火をまともに観ていられなくなってしまった。胸を突くような花火の打ち上げ音を聞くと、たちまち涙に襲われてどうしても上を向いていられなくなる。
 悲しいからでも、激しい感動に襲われるからでもない。ある年の夏に観た三尺玉が、そのときの状況と共に蘇って私の胸をいっぱいにするからだ。久しぶりに三人で見上げた、頭上を埋め尽くす眩い光の粒たち。あの光景がなければ、今頃私たちはお互いの顔さえはっきり思い出せなくなっていただろう。
亜美あみ、先に子供たちと車に行ってるからな」
 まだ午前中の早い時間で、しかも出かける前だというのに、玄関から聞こえてきた夫の声はすっかりくたびれていた。とうに出かける準備を終えている五歳の息子と三歳の娘が、待ちくたびれてぐずり始めたのだろう。
「わかった。荷物の点検はあとちょっとだから、子供たちを乗せたら運ぶの手伝って」
 夫は気のない返事を残し、興奮した笑い声を上げる二人の子供を連れて玄関を出ていった。
 リビングの隅にまとめておいた山のような荷物の前で、一つ一つ指を差しながら中身を確認していく。毎年のこととはいえ、帰省の荷物は子供の成長と共にがらりと変わる。それに、誰に似たのか三歳の娘はこだわりが強く、お気に入りの玩具が手元に無いとすぐに機嫌が悪くなる。もし入れ忘れでもしたら、帰省中ずっと娘の八つ当たりをなだめることになるだろう。
 ようやく確認を終え、最後の荷物を抱えて玄関で靴を履いているときだった。私は慌てて履きかけの靴を放り出した。甲高い電子音が背後から聞こえたからだ。あれほど念入りに荷物の確認をしたというのに、どうやら携帯電話をバッグに入れ忘れていたらしい。
 リビンクに駆け戻って携帯電話を取り上げると、待ち受け画面の通知が目に入った。先ほどの通知音は、メッセージの着信だったようだ。友人や知り合いには今日から帰省することを伝えてあるし、実家の両親に到着時刻を言い忘れたなんてこともない。こんな朝早くからメッセージをよこすなんて誰だろう。
 メッセージの中身を確認してみると、思わず笑みがこぼれた。こんな朝っぱらから私の携帯を鳴らしたのは、最近実家に戻って家業を継いだ幼馴染だった。実は彼には、小学生の頃から女子の隠れファンがたくさんいた。しかし運命とは皮肉なもので、わがままで自分勝手だった私のほうが彼よりも先に結婚してしまった。
〝暑中お見舞い申し上げます。花火の時期になりましたね。今年もご家族揃って観に来られると聞いて、あの頃みたいに喜んでいます。それでは、良い夏休みになりますようお祈りしております〟
 私が知っている彼は、どれほど時が経っても無邪気な少年のままなだ。それだけに、こういう年相応の文面を送ってこられると何だかくすぐったくてたまらない。このメッセージは、帰省する車中で夫にも見せてあげよう。何しろ私と夫と彼は、幼稚園時代から遊んだり喧嘩をしたり、物心がつくまでは一緒にお風呂にも入っていたくらいの古い仲だ。
 それに、花火大会が催されるこの時期は、私たち三人にとって大切な思い出が詰まった季節でもある。まさに私たちは、花火の後ろでいつも輝いていた、夜空に浮かぶ夏の大三角。私がこと座のベガなら、彼ははくちょう座のデネブ。夫はさしずめ、私と彼から少し離れたところで澄まし顔をしている、わし座のアルタイルといったところだ。そういえば、七夕でいうとベガは織姫星、アルタイルは彦星だ。まさに夏の大三角は、私たちの関係を表すのにうってつけというわけだ。
 彼がこの時期にメッセージを送ってきたということは、彼もまた、私たちと過ごした熱く、苦しく、底抜けに眩しかった夏の夜を、十年経った今も大切に思ってくれているということだ。もしそうでないなら、私は一生をかけて彼に許しを請わなければならない。しかし彼はきっと、どんなに私が謝罪や感謝の言葉を並べ立てても、お決まりの得意顔を少しも崩さずに、それらはすべて勝手な思い違いだと、相も変わらず私を少女扱いして一笑に付してしまうのだろう。

 私と智也ともや勇輝ゆうきは、潮風の匂いに包まれた小さな町で育った同級生だ。私の両親は会社員で、元々は都会の賃貸マンションに住んでおり、私が三歳のときにこの町の分譲マンションの一室を買った。子育てがしやすい環境で、そこそこ長閑であり、通勤にも便利だったことが移住の理由だ。
 智也の実家は祖父の代からの和菓子店で、名物の『お天道てんと最中もなか』は炎の花びらに包まれたような夏の太陽をかたどった、海に近い町ならではの銘菓だ。しっとりとした程よい甘さの餡子あんこと、香ばしくぱりっとした歯触りの皮が絶妙で、今でも年に数回は無性に食べたくなる。
 そして勇輝の実家はというと、海辺の景観に溶け込むように建っている、宮本楼という閑静な老舗旅館だ。その趣のある木造の佇まいは、幼かった私たちにも心地好い開放感と旅情を感じさせてくれた。私は三人で旅館の敷地内を探検する遊びが好きだった。旅館という特別な場所と、敷地内の古く奥ゆかしい雰囲気が、私たちを瞬時に遠い異世界へと運んでくれたからだ。たまに業務の邪魔になって叱られたのはいい思い出だが、そのたびに勇輝は私と智也を庇ってくれた。多分私たちが帰った後、私たちの分まで親にこってりと絞られていたことだろう。
 智也と勇輝の性格の違いは、昔から何事においてもはっきりと表れていた。小学五年生の夏、子供たち三人だけで宮本楼の一室に泊めてもらったことがあった。遊び疲れた私たちは部屋の明かりを消して、川の字に敷かれた布団に横になった。旅館からほど近い磯に打ちつける波の音が、穏やかなリズムとなって耳の奥をくすぐる。目を閉じるとすぐに微睡みが訪れ、まるで小舟に乗せられてゆらゆらと漂っているような気分になった。
 気がつくと私は、心地好い疲労と達成感に満たされた波間のゆりかごから身を起こし、暗い部屋の中でじっと耳をそばだてていた。
「──あーちゃん、どうしたの?」
 内緒話でもするような声で訊ねてきたのは、同じように上半身を起こしてこちらを見つめる智也だ。続けてすっかり寝入ったと思っていた勇輝が首を上げ、手の甲で目を擦りながら投げやりに呟いた。
「トイレの場所は知ってるだろ。まさか、怖いのか?」
「違うって。何か変な音しない?」
「変な音って、どんな?」
 私は暗闇にぼんやりと浮かぶ勇輝の寝ぼけ面を横目に、
「勇輝が教室の掃除から逃げ出すときみたいな、カサカサ、コソコソ、って音」
 と言って、思い切り口を尖らせてみせた。勇輝はさも億劫そうに聞き耳を立てていたが、やがて小さな溜め息をついてごろりと背を向けてしまった。
「本当だ。まるで波を追いかけたり逃げたりしているみたいな、何かが動く音……」
 声の方を向くと、智也が神妙な顔をして肩を強張らせていた。その瞳は一点を見つめているようで、よく見ると忙しなく部屋の隅々を探っている。
「でしょう? 何の音だろう。もしかして……」
 私が言いかけると、智也はばたりと横になって掛け布団を鼻の下まで被った。必死に眠ろうとしているようだが、見開かれた両目は瞬きも忘れて天井に食い入っている。その様子を見ているうちに背筋が冷たくなってきた私は、たぐり寄せた掛け布団をマントのように羽織って膝を抱えた。部屋から飛び出したくて仕方がない私に、智也みたいに横になる勇気はなかった。
「びびってんのか? あんな音のどこが怖いんだよ」
 こちらに向き直った勇輝の、にやつく口元が見えた。普段ならすぐさま蹴りを入れてやるところだが、すっかり縮み上がってしまった足は動いてくれそうにない。
「勇ちゃんは、あの音の正体を知ってるの?」
 智也が消え入りそうな声で訊ねると、勇輝は失笑をこらえているのか、気の抜けた戯け声で答えた。
「あれはフナムシの足音。あいつら夜になると、いっぱい集まって波打ち際を走り回るからな」
「なあんだ、フナムシか」
 がばりと跳ね起きた智也が、ずっと我慢していた息を吐き出すかのように声を漏らした。
 勇輝の種明かしによって智也には平穏が戻ったようだが、冗談じゃない。私にとってはむしろ、正体を知ったことは後悔でしかなかった。きっと勇輝の頭は、言わぬが花、を理解できない構造なのだろう。
 私が羽織っていた掛け布団を頭から被ると、ほっとしていた智也の気配が再び張り詰めるのがわかった。せっかく安堵していたのに申し訳ないとは思ったが、こればかりはどうにも我慢ができない。
「あ、あーちゃん。フナムシはね、名前にムシって付いているけど虫じゃないんだよ。カニとかエビとか、甲殻類ってのに近い生き物なんだって」
 私は幼い頃から虫が大嫌いだった。男の子が夢中になるカブトムシやクワガタももちろんダメだし、木にとまっているセミも秋になると飛び回るトンボも、鳴き声が美しいと言われるキリギリスやスズムシだって、ちらとでも姿を見るとたちまち怖気を催してしまう。だから当然、フナムシが大丈夫なわけがなかった。しかもフナムシの大きさや動きは、たまに家の中に現れる黒くてすばしこい、何よりも大嫌いなアレにそっくりなのだから。
「足音がこんなところまで聞こえてくるってことは……」
 そう呟いた私の語尾を、智也が慌てて遮る。
「待って待って! エビとカニだよ。あーちゃん、エビ好きでしょ? エビフライとかエビマヨとか、そうだ、こないだ食べた海老カツバーガー覚えてる? あれ、すごく美味しかったよね!」
 私の意識を逸らそうとしていることはわかっていたが、ここまでくるともう止まらない。私の瞼の裏は、すでに黒いアレの大群でいっぱいだった。全身が隈なく総毛立って、立ち上がろうにも足に力が入らない。
「もしかして、旅館の中にも……」
「そんなはずないよ。出入り口も窓も全部閉まってるんだから、ここには絶対入って来ないって。そうだよね? 勇ちゃん」
 智也が半ば言い聞かせるように問うと、勇輝はややあってのそりと身を起こし、いかにもばつが悪そうに言い捨てた。
「わかんねえよ。今日は大丈夫だろ、多分」
 智也の深い溜め息が、真っ暗な部屋の空気をさらに重くした。頼みの綱だった勇輝が、よりにもよって期待と真逆の回答をしてしまったのだから無理もない。ただ、ここで苛立ちを見せたり、非難まではいかなくとも、思わず舌打ちを漏らしたりしないところはいかにも智也らしい。
「──やっぱり、出るんじゃん」
 思い止まった智也の代わりに、私が棘のある小声で呟く。すると勇輝は、急に起き上がって胡座をかき、まるで居直り強盗が家主に説教でもするかのような声を出した。
「フナムシくらい、いるに決まってるだろ。ここは海のすぐそばなんだぞ。嫌なら帰れ」
「勇ちゃん、あーちゃんは虫が嫌いなんだから、そこまで言わなくても……」
 すかさずふかふかの綿のような智也の仲裁が、私と勇輝の間に滑り込む。しかし、私が自分に非があるとは思っていないように、勇輝だって自分が悪いとは思っていないだろう。このままでは互いに引っ込みがつかないまま、険悪な長い夜を過ごす羽目になってしまう。
 フナムシの恐怖と嫌な空気に当てられた私は、不覚にも大きく鼻をすすってしまった。涙ぐんでいることを悟られたくなかったが、出物腫れ物ところ嫌わず、だ。出てしまうものは仕方がない。
 そんな最悪の夜をきれいに吹き飛ばしてくれたのは、意外にも、思いやりや気配りとは最も縁遠い勇輝だった。
「言われなくても知ってる。そんなに怖がるなよ。トモと俺がいるんだぞ」
 はっとして、思わず勇輝の顔を盗み見た。視線を逸らしたまま憮然とはしているが、尖らせた口元や目付きに怒りの色はない。
「もしあいつらが入って来たら、トモと俺が絶対に追い払ってやるって。俺たち、そんなに信用ないか?」
 私は勇輝の言葉を聞いた途端、悔しくてたまらなくなった。いや、本当はその逆だったのだ。しかしまだまだ幼かった私が、相反する二つの感情を上手く折り合わせる術なんて持っているはずがなかった。
「あんたが寝ちゃったら、入って来ても気づかないじゃん」
「だったら起こせばいいだろ。俺でもトモでもいい」
「この部屋に入られるだけで嫌なの」
「そんなら俺が見張っててやる。あいつらは人の気配が嫌いな臆病者だからな」
「嘘、絶対寝ちゃうでしょ」
 勇輝は私の難癖に苦笑いを浮かべると、得意なゲームの攻略法を自慢するときみたいな、自信たっぷりの顔をして私の後ろを指差した。指の先を追って振り返ると、そこには指を差されてきょとんとしている智也がいる。
「大丈夫。もし俺が寝たら、トモが代わりに起きて見張ってくれるって」
 勇輝の屈託ない笑顔には、相手をその気にさせる不思議な力がある。そんな笑顔を出し抜けに差し向けられては、拒めるはずもない。智也が呆気に取られた顔のまま小刻みに頷くと、勇輝はその笑顔を私にも向けた。フナムシの不安が無くなったわけではなかったが、少しも嫌味のないこの笑顔を邪険に扱ってしまうと、私のほうが悪者になってしまうような気がする。
「部屋には一匹も入れないでよね」
 私は苦し紛れにそう言うと、勇輝に背を向けて横になった。掛け布団を頭から被って目を閉じると、私を取り巻く智也と勇輝の姿が瞼の裏に浮かんだ。方法は違えど、どうにか私をなだめようとしてくれた二人。我知らず涙が溢れてきて、誰にも見られていないのに慌てて目元を拭った。嬉しくて仕方がない反面、それを上手く伝えられない自分が嫌でたまらない。なぜ涙を拭わずにはいられなかったのか。それは多分、私がこの涙を誰よりも見たくなかったからだ。
 私は智也と勇輝に甘えっぱなしで、何か厄介事を起こすたびに二人を振り回していた。それは過去形ではなく、フナムシの夜から二十年近く経った今も大して変わらないのかもしれない。一人は私の夫になり、一人はダメな私が今でも気がかりなのか、遠くにいても度々連絡を入れてくれる。私がもっとしっかりしなければいけないことくらいわかっているのだが、幼馴染に恵まれた私の甘ったれは、ちっとも有り難くないことに相当筋金入りらしい。

 まるで実の兄妹のように育った私たちは、この関係が永遠に続くのだと信じて疑わなかった、と思う。少なくとも中学生までの私は、そう思っていた。そんな私たちの関係に亀裂が入り始めたきっかけは、三人の足並みが揃わなかった高校進学だった。
 私と智也が県内有数の進学校に揃って入学したのに対し、勇輝はお世辞にも学力が高いとは言えない公立高校に入るのがやっとだった。新しい生活に追われて顔を合わせる機会が減った私たちは、これまでのような結びつきを急速に失っていった。
 私たちが小さい頃から一番楽しみにしていた年中行事は、夏祭りの夜、三人だけが知っている秘密の場所に集まって一緒に花火を観ることだった。花火が打ち上がる海岸付近は、地元住民だけでなく市外からの見物客も集まりごった返すため、私たち子供の背丈ではあまり楽しめない。そこで私たちは毎年、交通の便が悪く、地元の者にもあまり知られていない、花火会場から少し離れた小さな砂浜に陣取って花火を眺めた。その砂浜は、穏やかな潮風と波の音以外は何もなく、じっくり花火を堪能するにはうってつけの特等席だった。
 私は高校生になって最初の夏、その砂浜に行かなかった。その年は智也と勇輝の二人だけで、終始押し黙ったまま花火を観たそうだ。そのときの状況を夫に訊ねても、ほとんど記憶に残っていないらしく、難しい顔をするばかりで何も答えてくれない。空虚な花火鑑賞の原因を作った私にこんなことを言う資格はないのだが、その夜はよほどつまらなかったのか、もしくは思い出したくないような出来事が二人の間に起こったのかもしれない。
 そして一年後、高校二年生になった私たちは、誰もあの砂浜に行かなかった。あの頃の私は、高校が違う勇輝とはすっかり縁が切れていたし、学校で智也を見かけても声さえかけなくなっていた。そんな私に対して智也は、私を忠実に映し出す鏡になる選択をしたようだった。
 私が会釈をすれば彼もそうするし、気づかなかったふりをすれば彼もふいと背を向けて、気づかなかったふりをする。智也という鏡は、子供時代からの脱却を望んでいた私の自立心を大いに奮い立たせたが、一方で大人になることの苦々しさをこれ以上ないくらい煮詰めて、私の喉に流し込みもした。良くも悪くも、智也は昔からそういうところがある。相手の意思を尊重しようとするあまり、互いがそれ以上踏み込めない強固な壁を作ることになってしまうのだ。
 大人になる過程で、誰もが一度は経験する幼い日々との決別。そんなありきたりな成長の一場面に、いちいち感傷的になどなっていられない。当時の私は、そういった内省や言い訳さえも必要ないほどに、十代の一番きらびやかな時間を謳歌し、食べ過ぎとわかっていながら平らげたスイーツを後悔するときのように、胸を激しく掻きむしってもいた。
 このまま私たちの仲は、幼少期の淡い思い出となって緩やかに自然消滅していくのだろう。当時の私はその予感をすっかり受け入れてしまっていたし、他の二人も私ほどではないにしろ、目の前の現実を黙って飲み込んでいたに違いない。その証拠に私たちは、高校入学から高校三年生のあの日まで、一度も集まったりしなかった。だから私があの日の直前に送ったテキストメッセージは、幼馴染との約二年ぶりの接触だったことになる。

 高校最後の夏休みが間近に迫った頃、私は智也にメッセージを送った。用件は至ってシンプルで、夏祭りの花火を昔みたいに三人で観ようという提案だった。メッセージを読んだ彼は、さぞ驚いたに違いない。幼馴染の絆を真っ先に断ち切った私が、再び過去の関係に目を向けるなんて思ってもみなかっただろうから。
 私たちが花火を観るために集まっていた砂浜は、花火会場から徒歩で三十分ほど西へ行ったところに緩やかな弧を描いて広がっている。花火の全景を一目で眺められて、しかも私たちの他には誰にも知られていない絶好の穴場だ。
 小学生の頃は、砂浜に寝転んだり波打ち際に足を浸したり、無駄話に大笑いしながら花火を見物するのが何より楽しかった。そんな浮かれた有様だったから、花火に集中しているのは最初と最後の十分間くらいものだ。あとの時間は夏祭りの興奮と、この日だけは許されていた夜遊びの高揚感にすっかり酔っていただけだったが、それでも充分幸せだった。
 どれくらいはしゃいでいたかというと、普段は物静かな智也があれほど大きな声で笑うのはこの日だけだったし、勇輝に至っては暑いと言って全裸になり、干潟の上を這い回るトビハゼのように湿った波打ち際で寝そべったりしていた。
 もちろん私はそんなことはしなかったが、家から缶ビールをくすねてきて浜で飲んだり、タバコを吸ってみたりしたことはある。当然、少しも美味しくなくてすぐに捨ててしまったが、私のはしゃぎぶりが他の二人と比べてかなり大人びていたことは間違いない。そういう見栄っ張りなところが後の騒動にも繋がってしまうのだが、このときはまだ自分の欠点や弱さになんて小指の先ほども気づいていなかった。
 小学六年生のときだったと思うが、勇輝は花火の雰囲気にすっかり舞い上がって、私に「大人になったら結婚しよう」と軽口を叩いたことがあった。どこまで本気だったかは知らないが、あのときは私も上機嫌だったし、花火の感動も相まって暢気に「別にいいけど」と返事をしてしまった。花火が終わって帰宅し床に就くと、変に胸が高鳴ってなかなか寝付けなかった。今思えば、あの言葉に答えた瞬間こそが、思春期真っ只中だった私の初恋だったのだろう。
 私と勇輝のたわいのないやり取りを聞いていた智也は、すぐにぎょっとした顔を私に向けた。そんな彼にどんな言葉をかけたのかは、よく覚えていない。記憶にあるのは、濃厚な潮の香りと涼やかな波のさざめき。その他には、今が夜だということを忘れるほどの花火の眩しさだけだ。
 そういった幼少期からの大切な思い出が、あの砂浜にはたくさん詰まっている。その中でもとびきり印象深いのが、高校三年生の夏祭りの夜だ。陽が沈み、集合時間はとうに過ぎているというのに、私はあの砂浜に姿を現さなかった。自分で誘っておきながらすっぽかしたのかというと、決してそういうわけではない。最初の花火が、ショーの開始を告げるスポットライトのように砂浜を照らし出したとき、私は智也と勇輝が所在なく佇む砂浜の手前の、鬱蒼とした松林の陰に身を潜めていた。
 目の前で花火が次々と上がっているのに、なぜそんなところに隠れていたのか。答えは簡単だ。私は会わない間にずいぶん変わってしまった。そんな浮薄で自分勝手な私に、何食わぬ顔をして二人の前に出ていく資格も、勇気もあるはずがない。私ができることといえば、松林から二人の様子を窺いつつ、再会を果たす頃合いをじっと見計らうことだけだった。
 突っ立ったまま花火を見上げる二人の背中を、ごつごつとした松の木の陰からぼんやりと眺める。三人ではしゃいでいたあの頃の感覚が少しずつ蘇ってきて、たまらず松の根方に屈み込んだ。胸中が何ともいえない甘酸っぱさでいっぱいだ。下唇を噛み締めずにはいられない。
 十五分ほど経って打ち上げが休憩に入ると、小気味好く賑やかだった浜辺はたちまち耳慣れた潮鳴りに沈んだ。智也と勇輝が、互いの冷たい表情を静かに見交わしている。しかし二人の視線は、すぐに沖の深い夜陰に泳ぎ、再び重なることはなかった。
「亜美のやつ、またかよ。俺たちだって暇じゃねえんだぞ」
 勇輝の苦々しい呟きが、真夏の湿っぽい潮風に乗って運ばれてきた。智也は向き直ろうともせず、依然としてどこまでも暗い海を眺め続けている。
「勇ちゃんは水泳部の部長だし、昔からモテるもんね。もしかして、女の子との約束をすっぽかしてここに来た?」
 勇輝は、智也のあけすけな指摘に憮然としているようだ。ということは、もしかすると図星なのかもしれない。
「あーちゃんにも色々あって、どうしても間に合わなかったんだよ。それに女の子だし、着の身着のままで出て来られる僕たちのようにはいかないんじゃない?」
「女の子? 俺たちと一緒に裸同然で泳いでたあいつが? トモだって覚えてるだろ。この浜でずぶ濡れになって馬鹿笑いしてたあいつの、色気の無さといったら……」
 勇輝の悪態を聞いた智也は、背を丸めて肩を小さく震わせている。どうやら俯いて笑いを堪えているらしい。昔の私なら間違いなく二人の間に飛んで行って、厳しい抗議の声を上げていただろう。でも私はもうあの頃の私ではないし、何よりまだ出て行けるような状況ではない。
 私は眼前の松の幹をぐっと摑んで、静かに深呼吸を繰り返した。勇輝とは高校生になってから一度も会っていないので、彼にとって私は未だに天真爛漫で小生意気な中学生なのだろう。しかし智也は違う。交流は無くても、彼とは学校で何度も顔を合わせている。彼は私がこの二年半でどのくらい成長し、もうどこから見ても子供ではないことを嫌でも知っている。その智也が勇輝と同じように私を子供扱いしたことは、私の胸に心外を通り越した、ある種の衝撃のようなものを与えた。
「──あのさ、あーちゃんはどうして僕たちを花火に誘ったんだろうね?」
 私が松林の暗がりで悶々としているうちに、話はずいぶん進んだようだ。智也の真剣な声にはっとして目を上げると、勇輝が智也の隣で軽く首をすくめていた。約束の時間になっても姿を現さない私を責めるというより、単に答えに窮しただけのように見える。その証拠に、勇輝はすぐに暢気な笑みを浮かべて、いつもの減らず口を叩いた。
「あいつ、強情なくせにすげえ寂しがりだからな。今になって俺たちと過ごした夏が恋しくなった、ってところじゃねえの? でもいざ会うとなると、寂しくて音を上げたことがカッコ悪くて出て来られない。いかにもあいつらしいな」
 戯けた様子の勇輝とは対照的に、彼と視線を重ねている智也は見たこともないような真顔になっている。あの温厚な智也が、笑顔の裏にこんな怖い顔を持っていたなんて、できれば知らずにいたかった。
 私がここ数年で大きく変化したように、彼だっていつまでも私がよく知っている彼のままではない、ということなのだろう。ただ、そんな当たり前の現実に出くわしただけなのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるのか。
「気づいてたんだ。あーちゃんが寂しがり屋だってこと。それならさ、学校が離れてからどのくらい連絡してあげた?」
「はあ? どうして俺が連絡すんだよ」
 そう言い捨ててツーブロックの短髪をがりがりと掻きむしった勇輝は、盛大な焚き火が消えた後のような寒々しい夜空に向かって深々と溜め息をついた。そんなことはどうでもいい、とでも言いたげな反応。白いスニーカーで足元の砂を蹴りつける落ち着かない態度。この話題に興味がないどころか、気になって仕方がない心の内がだだ漏れだ。
 幼少期から変わらない端正な顔立ち。すらりとした長身。幼稚園の頃から続けている水泳で培われた広い肩幅。そして、感情を隠す術を知らない純粋な性格。もしかすると勇輝だけは、二年半経った今もあの頃のままなのかもしれない。
 松林でうずくまる私は、自分の立場も忘れてそんなことにまで思いを巡らせていた。二人の様子を窺うことに飽きたわけではない。このときの私は、久しぶりに見た勇輝に淡い願望を抱いていた。彼だけはこの先も、ずっと変わらずこのままでいてほしい。そんな身勝手でわがままで独りよがりな願望が、一瞬で空気が入る救命浮き輪のように私の胸の中で膨らんで、波間を頼りなく漂う私を溺没から救ってくれるような気がした。
「そう言うトモだって、あいつのことかまってんのか? あいつがトモを避けているとしても、同じ学校なんだからばったり会ったりすることもあるだろ?」
 話題を変えればいいものを、勇輝はいつだって幼稚で不器用だ。こんな話を掘り下げたところで、ますます険悪になるだけだと気づかないのだろうか。いや、さすがに勇輝だって、それくらいはわかっているはずだ。
「学校は同じでも、会おうと思わなければ案外出くわさないものだよ」
「何だよ。結局トモだって俺と同じじゃんか。いや、近くにいるくせに声もかけないんだから、俺より薄情だろ」
 智也の口元が微かに歪んだ。しかし、彼の目に感情の乱れは見られない。おそらくこの程度の切り返しは想定内だったのだろう。
「あーちゃんは、僕らと離れる必要があった。僕は一年生のとき、あーちゃんの学校生活を見てそう感じた。だからそれ以来、わざと距離を置いてる」
「なんだよ、それ。俺たちは嫌われてるってことか?」
 先ほどまであちこちに彷徨っていた勇輝の視線が、気がつくと智也の白い顔を真っ直ぐに捉えていた。
 三年生の七月だけに、智也は受験勉強に明け暮れていてほとんど外出していないのだろう。翻って勇輝の顔はといえば、子供の頃以上にこんがりと焼けている。水泳部の部長を務めているということは、高校最後の大会に向けて誰よりも練習に熱が入っているのだろう。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。答えを知っているのは、あーちゃんだけだよ。でも、これだけははっきりしてる」
 次の言葉を待つ勇輝の目が、ひどくぎらついている。今にも智也の襟首に摑みかからんばかりだ。智也のもったいつけた話しぶりに焦れているのか、それとも再会の約束を破った私を思い出して腹の虫が暴れ始めたのか。
「あーちゃんは今、僕たちを必要としている」
「だろうな。花火を観ようって切り出したのはあいつなんだろう? そして俺たちは誘われるままに集まって、性懲りもなく二年前みたいに待ちぼうけを食ってる。てことは、俺たちの役目はこの突き合わせた馬鹿面をあいつに笑われることか?」
 智也は意外にも小さく吹き出すと、声を荒げた勇輝に向かって一歩も引かずに言葉を返した。智也は、小さい頃から誰よりも勇輝の悪態を聞かされている。彼の悪態をねじ伏せるくらい、智也にとっては赤子の手をひねるようなものだろう。
「そうかもしれないね。でも、本当に僕らを笑いたいだけかな? 一度見切りをつけた旧友をこうして呼び出すなんて、かなり勇気がいることだよ」
 眉をぎゅっと寄せた勇輝が、たまりかねた様子で口を開いた。すかさず智也が言葉を継いで、勇輝の口を塞ぐ。
「僕たちが会っていない時間は、たったの二年ちょっと。仲が良かった頃の記憶も、あーちゃんに背を向けられたときの驚きも、まだまだ鮮明だよね。だから今回、僕たちを花火に誘ったあーちゃんは、相当気まずかったんじゃないかな」
「──何が言いたいんだよ」
 ひどく刺々しく、突っ慳貪な勇輝の声。重苦しい空気に押し潰されて、胸がぺちゃんこになってしまいそうだ。風が止まった浜辺独特の蒸し暑さが、直面している現実をより一層、熱帯夜の悪夢のように感じさせる。その一方で、私と勇輝を淡々と熱帯夜に追い込んでいる智也。彼は終始、勇輝とは正反対のいたって涼しい顔をしている。
 ある程度予想はしていたが、私の話をする二人の様相に、こうもはっきりと違いが出るとは思わなかった。ただ、勇輝の苛立ちを煽っているかのような智也の言動には、どことなく底意のようなものを感じる。私が智也に、身勝手なお願いをしてしまったせいだろうか。もしそうだとすると、我ながら私という女はつくづく性悪だと言わざるを得ない。
「あーちゃんが僕たちに声をかけた理由は、二つあると思う。一つは、自分ではどうすることもできない窮地に立たされた心細さから」
 勇輝の顔色がみるみる失せていく。自分の巣を狙う蛇を見つけた、大型の猛禽を思わせる目つき。大きく見開かれた双眸そうぼうが、すっかり凪いだ黒い海にギラギラと浮かんでいる。
「窮地って、あの噂のことか」
 智也は勇輝から目を離さず、静かに頷いた。途端に勇輝は、放心とも落胆とも観念ともつかない、複雑奇怪な色をした吐息を吐いた。
「停学は本当だったんだな。あの馬鹿……」
 膝を抱いて座っていた私は、さらに両膝をぎゅっと引き寄せて縮こまった。あの様子だと、智也から事の顛末を聞いているわけではなさそうだ。
 噂は思った以上に広がっている。勇輝の耳にまで入っているということは、もはや私を知る人たちの間で知らない者はいないだろう。今さらながら吐き気が込み上げてきて、たまらず力一杯瞼を閉じた。このまま何の跡も残さず、人々の記憶から消えてしまうことができたらどんなに楽だろう。
「僕も本人に訊いたわけじゃないから、真実かどうかはわからない。でも学校で広まっている噂は作り話とは思えないくらい具体的で、しかもしばらくの間、学校を休んでいたのも事実……」
 いたたまれなくなって思わず耳を塞いだ。呼吸がひどく浅くなっている。じっと座っているだけなのにたまらなく息苦しくて、汗だくで、まるで大嫌いな持久走の授業の後みたいだ。
 私に関する噂は方々で尾ひれが付いているようだが、二か月ほど前、学校から三週間の自宅謹慎を言い渡されたことは間違いない。停学となると、教育委員会への報告義務が生じたり、内申書に禍根を残すことになったりと話が大きくなってしまうので、謹慎程度で済んだのは不幸中の幸いだった。学校としても、こういったことは校名が傷つかないよう穏便に済ませたいだろうし、私の場合は学校での素行に問題がなかったため、更生を期待した恩情処分にとどまったようだ。

 私が謹慎を命じられた理由は、内緒の小遣い稼ぎが学校にバレたからだ。アプリで知り合った男と食事やデートをするだけで、数時間後には魔法みたいにお金が手に入る。一度この味を知ってしまうと、普通のバイトなんて馬鹿馬鹿しくてやっていられない。
 最初は単なる好奇心だった。お金を貰えることはもちろん嬉しかったが、欲しいものをひと通り手に入れてしまった後は、いくら貰っても大して喜べなくなった。それでもアプリの利用を辞められなかったのは、私が一番求めていたものがお金ではなかったからだろう。お金ではないのなら、一体何なのか。それは今考えると、高校生がマッチングアプリを利用するリスクや、引き換えに失ってしまうものとはとても釣り合わない、ひどくくだらないものばかりだった。
 高校に入学した私は、すぐに自分の視野の狭さを思い知った。日々、同級生から新鮮な話題のシャワーを浴びせられ、これまで出会ったことのない鮮烈な感性に翻弄され続ける高校生活は、絶えず私に心地好い刺激と高揚感をもたらしてくれた。ただ、それらは決していいことばかりではなく、自分がどれほど無知で野暮ったく、少しも自立していない幼稚な存在なのかを知る痛みも伴った。
 周りの同級生たちは、中学まで幼馴染と能天気に過ごしてきた私とは比べ物にならないほど洗練されている。そういった思いが強くなればなるほど、未だに子供じみた言動しかできない自分が恥ずかしくて仕方なかった。このまま周りとの格差が広がってしまえば、ただでさえ堪え難い劣等感がより重みを増すだけでなく、いずれ誰にも相手にされない孤独な学校生活を余儀なくされるに違いない。そんな三年間だけは絶対に嫌だ。
 息をするように勉強とスポーツをこなし、世間の流行にも詳しく、ファッションやメイク、会話の端々に至るまで全てが垢抜けている同級生たち。彼女らは、幼稚な自分を一刻も早く捨て去りたいと願う私の理想であり、羨望の的だった。高校最初の一年間は、彼女たちに追いつくため、これまでの田舎臭い自分を片っ端から塗り潰すことに費やした。その努力と時間が私に与えたものは、幸か不幸か、憧れの洗練された学校生活ではなく、私にはどうすることもできない理不尽な現実だけだった。
 どう頑張っても彼女たちのようにはなれない。生まれつきの容姿は元より、人としての素地の差か、育った環境のせいか、私と彼女たちとの間には絶対に埋めることのできない根本的な溝があった。
 彼女たちは、幼い頃から習い事などで身につけた楽器演奏や英会話、バレエ、絵画などの素養に恵まれている。私が知り得ない分野や海外の事情にも明るく、いくらスマホで調べたところでとても話についていけない。海岸沿いの田舎町で、照りつける陽光と潮臭い風を浴びて育った私とは、吸収してきた栄養がまるで違うのだ。
 何もかも違う彼女たちとの差は、もはや努力や向上心程度では埋められない。身の丈を知らず、途方もない目標を追い求めてしまった反動だろう。高校二年生になると急に、それまで憧れだった彼女たちに嫌気が差してしまった。
 でも、このまま尻尾を巻いてグループから抜けるわけにもいかなかった。そんなことをすれば、自分が劣った人間だということを認めたことになる。生まれ育った環境が違うだけで人の優劣が決まってしまうなんて、そんな不公平、絶対に受け入れるわけにはいかなかった。
 そんなとき、ふと耳にしたのが、今まで想像もしなかった小遣い稼ぎの話だった。その話をしていたグループは、私が一年間へばりついていた憧れのグループとはまったく違う雰囲気を漂わせていた。真夏の青空に似た底抜けの開放感。太陽のような陽気さ。穏やかな大海を思わせる懐の広さと、浸った足を優しくくすぐる波打ち際の人懐っこさ。背伸びをし続けた一年間の疲れもあったのだろう。私にとってはそのどれもが、自分のために用意されたもてなしのように思えてならなかった。
 進学校に通う普通の生徒で、特に際立つ存在でもなく、テストの成績も校内での素行も悪くない私。しかし夜になると、しばしば仲間と歓楽街へ繰り出し、社会から与えられた年相応のルールの境目を綱渡りしている。そのスリルと優越感は、たちまち私を魅了した。父とそう変わらない歳の男と気さくに話をしたり、時には夢中にさせたり。そういった男たちは同級生の男子よりずっと物知りで面白く、しかも法外な小遣いまでくれた。
 失っていた矜持を取り戻した私は、気がつくと火遊びグループの中でも目立つ存在になっていた。そうやって自信がついてくると、私の嫌な部分がさらに頭をもたげてくる。二年生になってからというもの、ずっとくすぶっていた上流グループへの敵対心がめらめらと燃え上がってきたのだ。
 彼女たちはたまたま出自が幸運だっただけで、自分の意志で築き上げたものなど何もない。与えられた糧を言われるままに食んでいれば、何の苦労もなく特別な地位にいられる。いわばビニールハウスで大切に育てられた、風雨も寒暖差も知らない高級フルーツのようなものだ。育てる農家の苦労がなければ、実をつけるどころか生きていくことすらままならない。
 でも私は違う。思考と行動を駆使して成果を上げなければ誰にも振り向いてもらえないし、ときには気持ちを奮い立たせて戦わなければ、すぐに無関心の渦に呑まれて居なかったことになってしまう。私は出荷されるための野菜や果物ではない。彼女たちよりずっと人間らしく、過酷で誇り高い生き方をしている。そう思い至ると、完全に冷え切っていた心の奥がみるみる熱を取り戻してきた。
 いつしか私は、憧れてやまなかった上流グループの陰口を公然と口にするようになった。彼女たちがまとっているのは、所詮与えられたお飾りの輝き。自らの手を傷だらけにして磨いた、真の輝きではない。そんなものを羨ましがっていた自分の滑稽さといったらなく、あまりに無様で二度と思い出したくもなかった。
 私は半ば見せつけるかのように、夜の歓楽街を謳歌するようになっていた。学校という現実と、きらびやかな街の明かりに彩られた白昼夢の間を行ったり来たりする日々。当初は痺れるような刺激だった遊びも、いつしか永遠に繰り返される儀式みたいになっていた。
 もはや日常となっていた白昼夢の終わりは、ある日突然やってきた。三年生になって二か月が過ぎようとしていたその日、私は学校の生徒指導室にいた。長机の端のパイプ椅子に座った私の前で、四十がらみの男性教師が立ったまま憮然としている。私のクラスの担任で、放課後ここに来るよう私に言い渡した張本人だ。
「なぜ呼び出されたか、心当たりは?」
 まったく感情のない担任の声が、冷ややかに頰を打つ。私は俯いたまま、静かにかぶりを振った。だが、本当はわかっている。担任がほのめかしているのは、目立たない普通の生徒を装っている私の裏の顔だ。
 小さく溜め息をついた担任は、手に持っていたタブレット端末を私の目の前に置くと、まるで私が止めるのを待っているかのような緩慢な手つきで動画ファイルを選択した。
「この動画は、学校宛に匿名で送られて来たものだ。夜の街の様子が映っているんだが、知っていることや説明したいことがあれば先に言いなさい。園田が何か思い出してくれたなら、この動画は再生せずに今ここで消去する」
 自分では落ち着いているつもりだった。しかしその認識は、私の傲慢な自惚れでしかなかった。返事をしようにも声が出ない。いや、出せなかった。なぜならこのとき、私の意識はどこまでも星のない夜空に塗り潰されていて、私を救ってくれる星のきらめきなど、どこにもないことに気づいたからだ。私はたくさんの星に囲まれていると錯覚していただけで、実は誰よりも孤独だったらしい。
 腿の上で固く握られた両拳が、小刻みに震えている。夜の街にだって少しも怖気づかなかった私が、体罰はおろか、まな板の鯉同然の小娘を叱りつけることさえできない中年教師の前で、ずぶ濡れの捨て猫みたい震えることになるなんて。
 満天の星空じゃなくていい。せめて偽物の星──。この孤独を少しでも忘れさせてくれるなら、たとえすぐに消えてしまう一発の三尺玉だって構わない。もし今、私が望む花火を打ち上げてくれるなら、私はその一瞬の記憶がすっかり擦り切れてしまうまで、飽きることなく夜空を見上げ続けるだろう。
 黙秘を貫く私に痺れを切らしたらしく、担任は聞こえよがしに大きく息を吐くと、黙ってタブレット端末の再生ボタンをタップした。画面に映し出されたのは、くたびれたグレーのスーツを着た中年男と、向かい合って食事をする少女の姿だった。少女のグラスを満たしているルビー色の液体は、どう見ても彼女に相応しい飲み物ではない。
「園田、お前で間違いないか?」
 返事に窮していると、動画内の景色が夜の繁華街へ移った。少女と中年男性が並んで歩く後ろを、一定の距離を保ってついて行く撮影者。ひやりとした汗が背筋を伝う。夜の私をつけ回し、しかも動画まで撮って学校に送りつけた者がいるなんて、もはや驚きを通り越して不気味でしかなかった。
 しばらくすると担任は、動画を止めて力なく呟いた。
「映っている二人はこの後、未成年にはふさわしくない建物に入って行く。言いたいことはわかるな?」
 まさかそんなところまで撮られていたとは。ワイングラスの中身くらいならどうにか言い訳できると思っていたが、こうなってしまえば話は別だ。いくら気弱な担任でも、私の素行不良を口頭指導だけで済ませるわけにはいかないだろう。
 この動画は単なる悪ふざけではなく、明らかに私を打ちのめすための凶器だ。私の夜の顔を知っていて、なおかつこんな手の込んだ密告をする動機がある者。心当たりはあった。私の転落を誰よりも心待ちにしている者といえば、かつて私が心から憧れ、二年生以降は陰で散々こき下ろしてきた上流グループの面々しかいない。彼女たちは今頃、私のこの醜態を知って腹を抱えて笑っているだろう。自分が蒔いた種とはいえ、学校ではさして珍しくもない陰口にこれほどの報復が待っているとは思ってもみなかった。
 私は、目の前に浮かぶ彼女たちの嫌味な顔を片っ端からかき消した。今、思い出さなければならないのは憎らしい奴らの顔ではない。しかし、一年以上もつるんで夜の街を闊歩してきた仲間たちも、一緒にお昼ご飯を食べているクラスメイトたちも、私と目が合うと素知らぬ顔を作って視線を泳がせる男子たちも、現れてほしいときには誰も現れてくれない。
 その理由は、考えるまでもなかった。たとえ同じ目で見られようとも、園田亜美を庇ってやりたいと思えるほどの信頼関係。そんなものは、この学校のどこにも存在しない。なぜなら、私がその信頼関係を少しも築いてこなかったからだ。
「園田みたいな生徒がどうして? まさか、トラブルにでも巻き込まれているのか?」
 少しでも弁解しなければと思ったが、普段ならいくらでも湧いてくる甘言も、都合のいい嘘も、何一つ浮かばなかった。いや、思い浮かばなかったのではなく、眠っていた私の良心がようやく目を覚まし、この痛ましい有様を見て、もう弁解も強がりもやめてしまえと囁いたのかもしれない。
 身じろぎもせず俯いてそんなことを考えていると、これまで何も現れる気配のなかった瞼の裏に、うっすらと人影が浮かび上がってきた。二人いる。どちらも男。そしてかなり若い。ああ、やっぱりそういうことなのか──。
 高校に入ってからというもの、私は理想の自分を必死で追いかけてきた。いつまでも子供のままではいけない。早く大人になって、他人に頼ることなく、自由に生きていける自立した人間にならなければ。
 しかしどうだろう。私が今までやってきた数々の奮闘は、そういった理想を少しでも実現しただろうか。いつから理想を気休めと感じていて、私を突き動かしているものが実はどうしようもない自己嫌悪で、心の奥底ではどれほどあの浜辺に帰りたくて仕方がなかったか。本当は、ずっとずっと前から気づいていたはずなのに──。

「だとすると、自業自得の停学を同情してもらうために俺たちを呼んだってことか。ふざけやがって……、トモもそう思うだろ?」
 私は松林にうずくまったまま、びくりと肩を震わせた。勇輝の毬栗いがぐりのような言葉が、傷だらけの胸中をごろごろと転げ回る。
「同情が目的なのか、それとも他に理由があるのか。僕にとってはどっちでもいいことだよ。だけど、沖まで流されて自力で戻って来られないあーちゃんが、この砂浜に帰りたがっていることだけは間違いない」
 そう答えた智也の口調はあまりに決然としていて、物腰が柔らかく控えめな、普段の智也の面影はもはや微塵も見当たらなかった。勇輝も、今夜の智也の異様さに気づいたようだ。得意の皮肉で切り返すこともなく、目を丸くしたまま黙り込んでいる。
「あーちゃんは現実的にも、精神的にも追い詰められている。僕たちを呼んだもう一つの理由は、そこにあるんじゃないかな。あーちゃんはきっとこう感じてる。この先、自分ひとりで立ち直るのは無理なんじゃないかって」
 図星を突かれることが、これほど惨めだと思ったことはなかった。鼻の奥がつんとなったかと思うと、視界が涙でゆらゆらと潤み始め、私を取り巻く世界がゆっくりと冷たい海に沈んでいく。すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、この凍えそうな真夏の海に背を向けることは許されない。なぜなら、私が目の当たりにしている鋭利な氷柱つららのような状況は、他ならぬ私自身が望んでこしらえたのだから。
 なおも睨み合う波打ち際の二人を、刺すような閃光が照らし出した。花火の打ち上げが再開されたようだ。深いモノクロだった夜空に極彩色が咲き誇り、浜辺で対峙する二人の横顔を鮮やかに染め上げる。勇輝の額は汗で七色に閃いているが、智也の頰は多彩な光の中でも変わらず、火照った赤のままだ。
「だから今夜、僕はあーちゃんにとって特別な男になる」
 忙しなく爆ぜる夏の夜空が、穏やかな波の音をかき消した。花火が打ち上がるたびに、漆黒の沖を背景にした二人の姿が網膜に焼きつくようだ。
「──お前、正気か? あいつは俺たちに愛想を尽かしただけじゃない。平気で初対面のおっさんと遊び回るような女なんだぞ」
 慌てた様子の勇輝とは裏腹に、智也は冷ややかな失笑を浮かべている。今夜の智也はまるで、悪い亡霊にでも憑かれてしまったかのようだ。
「勇ちゃんも、あーちゃんを女性だって認めてるんだね」
「そういう問題じゃねえ。あんな女のどこがいい?」
「どこが? 愛嬌があって、一緒にいると元気をもらえるところかな。それに何より、あーちゃんは僕たちの大事な幼馴染だよ。放っておけない」
 智也の口から出たとは思えない言葉ばかりだが、その落ち着いた口ぶりと、独特の理屈っぽさだけは、私が幼い頃からよく知っている彼そのものだった。ということは、彼らしくない言葉を連発している今夜の智也も、正真正銘の彼。いや、もしかすると逆で、らしくない智也のほうが本当の彼だとしたら?
 私は、ふと過ってしまった予感に戦慄せずにはいられなかった。そんなはずはない。彼は今回、二年以上も音沙汰がなかった私の誘いを受け入れただけでなく、私のわがままな願いまで快く引き受けてくれたのだ。絶対にそんなはずはない!
 初めから私の願いを聞くつもりがなかったのなら、花火を観る提案を勇輝に伝える必要も、今夜ここに来る意味もない。それなのに彼は、私の誘いを飲んで勇輝をこの砂浜に導いた。それは私の願いを聞き入れたってことでしょう? でも智也は今夜、思いもよらない言動で、勇輝と、今回の話を持ちかけた私をひどく困惑させている。こんな雰囲気になってしまっては、もう私の出る幕など……。
 いつになく強気な智也を前に、勇輝はただただ絶句している。絶壁から飛び降りようとする者を引き留めたつもりが、気がつくと腕をがっちりと摑まれ、自分まで崖下に引き込まれようとしているのだから、心中穏やかではないだろう。
「お前まさか、あいつとやりたいだけなんじゃ……」
 明らかに苦し紛れの反撃だったが、それを聞いた智也はさっと目の色を変えた。
「違う、僕は本気だよ。それを言うなら勇ちゃんこそ、中学の頃、海から上がったあーちゃんの身体をジロジロと……」
「うるせえ! お前、やりたすぎてマジでイカレたのか? 取りあえず落ち着け。あんなやつでサカってないで、あっち行って抜いてこい」
「勇ちゃんだって、さっきからずっと変だよ。どうしてそんなにムキになるの? 僕が誰を好きになろうと勝手だし、あーちゃんのこと嫌いならほっとけばいいじゃん。それともまさか、僕に取られるのが怖い?」
「寝言は寝て言えって。あんなやつ、頼まれたって願い下げだ」
 勇輝は引き締まった両腕をおもむろに伸ばし、智也のシャツの襟元を乱暴に摑んだ。もはや二人の耳には、夜空を盛大に彩る花火の賑わいさえも届いていないようだ。
「トモ、お前どうしたんだよ。本当にあいつでいいのか? たとえうまくいったとしても、あいつはまたお前を置いてどこかへ行っちまうかもしれないんだぞ。あいつは──、亜美はそういうやつだったんだよ。俺たちが好きだった亜美はもういない」
 子供の頃から無愛想で、自分の考えをあまり話したがらない勇輝が放った、聞いたこともない剣幕。たちまち全身が粟立ち、膝を抱える両腕に力がこもった。これが今の勇輝の、ごまかしのない本音──。
「そんなことにはならない。僕は、勇ちゃんとは違う」
「俺とは? ふざけんなよ!」
 怒鳴り声と共に智也の身体が後方へよろめき、乾いた砂に足を取られて為す術もなく尻餅をついた。いきり立った勇輝が、智也を突き飛ばしたのだ。空気が凍りついたかのような感覚に襲われて、思わず息を呑んだ。そのまま二人はどのくらい睨み合っていただろう。三十秒? 一分? それとも私がそう感じただけで、本当はほんの数秒だったのかもしれない。
 思いがけず火花を散らし合った二人だが、本来はとても仲が良い幼馴染だ。お互い喧嘩など望んでいるはずもなく、二人ともすぐに頭を冷やすと思っていた。しかし、誰よりも二人をよく知る私の予想は悉く裏切られた。
 体格差は歴然としているにもかかわらず、智也はバネのように立ち上がると、勇輝の土手っ腹に頭から突っ込んでいった。この反撃はさすがに予想していなかったらしく、不意を突かれた勇輝は無様に倒され、先ほどの智也以上に勢いよく尻餅をついた。
「あーちゃんは絶対に渡さない!」
 仰向けに倒れた勇輝に智也がまたがり、今にも裏返りそうな声で怒鳴る。
「俺がトモなんかに負けるわけねえだろ!」
 智也の絶叫より何倍も太い怒号が響き渡ったかと思うと、勇輝は智也の腕を取って軽々と引き倒した。智也は呆気なく砂の上に転がり、すかさず起き上がった勇輝に逆に馬乗りにされてしまった。形勢を逆転した勇輝が、右拳を握り締めて振り上げる。次の瞬間、特大の尺玉が夜空に開花した。
 無数の眩い花びらに照らされた智也の表情が、私の目に飛び込んできた。砂浜に組み伏せられ、口を真一文字に結んでひどく怯えているようだが、その目は恐怖に屈することなく大きく見開かれ、猛然と勇輝を見据え続けている。力では到底かなわないと知りながら、それでもあんな目を向け続ける智也。これ以上、とても見ていられなかった。
「あんたたち、何やってんのよ!」
 我知らず、松林から飛び出して大声を張り上げていた。たった今まできつく絡み合っていた二人の視線が、一斉に私に向けられる。二人はたちまち動きを止めて、目を皿にした。
 無理もない。私の悪評を聞いている二人は、昔の面影を失い、すっかり変貌してしまった私の姿を想像していただろう。確かに高校に入ってから、服の趣味は派手で大人っぽくなったし、化粧も相当上手くなった。ところが二人が今見ているのは、化粧のけの字も見当たらない、ダメージショートシャツに黒のショートパンツといった服装の、中学の頃と少しも変わらない私なのだから。
 砂浜を踏むのは久しぶりだった。さらさらの砂に足を取られて転びそうになりながらも、何とか転ぶことなく二人の元に辿り着き、懐かしい顔を見下ろす。乱れた息を整える余裕もなく口を開いたものの、なかなか言葉が出てこない。その代わりに込み上げてきたのは、何度となく押し寄せる高波のような嗚咽と、流すつもりなんて全然なかった涙だった。せっかく転ばずに済んだというのに、これでは転んでいたほうがまだ言い訳ができたではないか。
 勇輝がいて、智也がいて、後ろにはどこまでも海が広がっていて、さっきから潮風がひどくくすぐったくて、夜空に咲き誇る花火がとてもとても、眩しくて綺麗──。温かくて心地好くて、あまりに当たり前だった何かが、ぽっかりと空いていた私の心の真ん中を瞬く間に満たしていく。
「泣かないで。あーちゃんは僕が守る」
 智也の言葉を聞いて気まずくなったのか、勇輝はおもむろに立ち上がって智也の手を引き上げると、彼についた砂を丹念に払った。
「あの、遅くなってごめん」
 私が震える声で言うと、智也は屈託なくかぶりを振って一歩前に歩み出た。
「いいよ、そんなこと。それより聞いてほしいことがあるんだ。僕はあーちゃんのことが……」
「待て。何か忘れてないか? 俺もいるんだぞ」
 勇輝が、いかにもつまらなそうな口調で横槍を入れた。まるでふてくされた子供のようだ。
「わかった、続きはあーちゃんと二人きりになってから言うよ。それでいい?」
「そうじゃねえ。くそっ、どうしてこんなことになっちまったんだ。──亜美、トモの話のあと、俺の話も聞け」
 何がそうさせるのか、勇輝はしきりに足元の砂を蹴飛ばしたり、踏みつけたりしている。昔からちっとも変わらない仕種。苛立ちが身体中をむず痒く駆け巡って、どうすればいいかわからないのだ。
 花火の重い打ち上げ音が立て続けに胸を震わせ、並び立つ二人の幼馴染を背後から明々と照らし出した。私の胸におこった激しい火花が、バチバチと音を立てて弾け飛ぶ。
 智也が勇輝に向かって、念を押すかのように頷いた。その直後、夜空を埋め尽くすような大輪が彼の頭上に広がった。
「あーちゃん、好きだ」
 ひどいしかめ面をした勇輝が、自分の両頰をぴしゃりと叩いた。いつもふざけてばかりの彼が見せる、真剣な眼差し。その鋭さはまるで、私の固く閉ざされた心を強引に貫くためにあるようだった。
「次は俺だ。おいバカ亜美、独りですねてんじゃねえよ。俺がいるだろうが」
 満天に広がった光の粉がゆっくりと降り注ぎ、真っ暗な宇宙に眩い滝を描き出す。今よりずっと暢気で、世間知らずで、好きなものを素直に愛することができたあの頃、三人で一緒に見上げた三尺玉──。やっとだ。やっと、あの夏の日に戻ることができた。
「──ただいま。信じてもらえないかもしれないけど、聞いて。本当は一度も忘れたことなんてなかった。私は小さい頃からずっと、この砂浜が大好き」
 やっと言えた。自分に自信がなくて、すぐにすねてばっかりで、優しさも可愛げも色気も全然なくて、本当にごめんね。


智也

 車の運転席に座ったはいいが、困ったことに次の行動に移る気力がない。理由はわかっている。ひどい寝不足のせいだ。これからしばらく運転しなければならないのに、これでは居眠りが怖くておちおちハンドルを握っていられない。幸い予定の時間まではまだ余裕があるので、取りあえず出発前に五分だけ、ここで仮眠を取っておこう。
 シートに身体を預けて目を閉じると、あの景色がまた瞼の裏に蘇ってきた。真夏の砂浜から眺める、きらびやかな打ち上げ花火。僕の隣には幼馴染の勇ちゃんと、半べそをかいた頰を花火色にチカチカと光らせているあーちゃん。昨晩はずっとあの夜のことを思い出していて、結局ほとんど寝られなかった。他にも今日の予定のこととか、やり残してしまった仕事のことなんかもあるけど、それらはあくまで二次的な原因でしかない。
 本日の最終目的地は、勇ちゃんの実家がやっている『宮本楼』という旅館だ。そのせいで僕は昨晩、あの夜を思い出して眠れなくなってしまった。当時の様子を思い出すほどに、胸が熱く火照って何とも言えない気持ちになってしまう。高校三年生の夏、久しぶりに三人で観た打ち上げ花火。あの美しくて切ない光景は、今でも僕の中で色褪せずに生き続けている。

 高校生になった僕たち幼馴染は、それまでの友情が嘘みたいに離れ離れになってしまった。中学までの僕と勇ちゃんは、互いの部活以外の時間は大抵一緒にいたし、本格的に遊ぶときは必ずと言っていいほどあーちゃんも一緒だった。それなのに、違う学校になっただけでこんなにも疎遠になってしまうなんて想像もしていなかったし、僕にとってそのことは少なからずショックだった。
 でも考えてみれば、勇ちゃんは中学時代に全国大会で好成績を残すほど水泳の才能に恵まれていたわけだし、その実績を買われて高校入学と同時に水泳部から声をかけられたとも聞いている。それほど期待されていたのだから、きっと高校時代の練習は、中学時代とは比べ物にならないほど過酷だっただろう。その上、周りとの交友関係も一から作り直さなければならなかったのだから、僕たちのことが二の次になるのも当然だ。
 だから僕は、せめて同じ学校に入ったあーちゃんとは、それまで通りの仲でいたいと思っていた。いくら勇ちゃんが忙しくても、僕とあーちゃんが予定を合わせれば三人で集まる機会は作れるだろうし、あーちゃんだって同じ学校に行けなかった勇ちゃんの落胆に気づいていたはずだ。
 でもあーちゃんは、僕の思惑を知ってか知らずか、入学早々僕のことなどはなも引っかけなくなってしまった。僕にとってその変遷は、勇ちゃんと疎遠になったことと同じくらい、いや、それ以上の衝撃だった。だって、顔を合わせる機会がなくなって、徐々に関係が薄れていくのとは訳が違う。毎日同じ学校に通っているのだから、クラスは違っても校内で見かけることは多々あるし、ばったり出くわすことだってそれほど珍しくない。
 入学してまもなく、校内で二、三人の女友達と連れ立って歩くあーちゃんを見つけたことがあった。十メートルほど離れたところにいた僕は、迷わずあーちゃんに向かって大きく手を振った。僕が知っているあーちゃんなら、僕と同じくらいか、それよりも大きく、しかも戯けた調子で手を振り返してくれただろう。ところがそのときの彼女は、手を振り返すどころか目を逸らして苦笑するばかりで、周りの友達に僕のことを聞かれても、まるで知らない人を見るような目をしていた。
 それ以来、僕はあーちゃんを見かけても、気づかないふりをして素通りするようになった。僕の信条からすると、その選択は決して正しいとは言えなかったけれど、あの頃はそうするより他なかった。
 何があっても態度を変えず、これまで通りに接したほうが良いことはわかっていた。でも僕は、見かけに違わずちっとも強くない。これ以上あーちゃんに煙たがられてしまうなんて、とても堪えられそうになかった。だってあーちゃんは、僕にとって大切な幼馴染で、ともすると気持ちが沈みがちな僕を暖かく照らしてくれる太陽みたいな存在で、しかもこの手で触れてみたくて仕方がない憧れの女性でもあったからだ。
 でも僕は、その憧れの太陽に近づきすぎてしまったらしい。だからギリシャ神話に出てくるイカロスのように、蜜蝋で固めた翼を溶かされて墜落してしまった。僕はやっぱり、太陽にも到達できると自分を過信した傲慢なイカロスだったのだ。

 僕たち三人は、毎年誰もいない砂浜で打ち上げ花火を観るのが恒例になっていた。夏祭りの雰囲気にすっかり興奮した僕たちは、いつも以上に上機嫌で、すべてが満たされていたからか一種の万能感のようなものに包まれていた。だから僕は、無敵になった気がして誰にも気兼ねなく大笑いしていたし、勇ちゃんはよく無茶な戯け方をしていた。
 勇ちゃんの悪ふざけが一番ひどかったのは、裸で海に入り、濡れた身体で砂の上を転げ回って、揚げる前の天ぷらみたいになったときだろう。僕とあーちゃんはその姿を見て腹を抱えて笑い、気を良くした勇ちゃんはそのままの格好で帰る気満々だった。確かに砂がたくさんまぶされていて、浜辺の暗がりでは見えてはいけないものはよく見えなかったのだが、いくらその場の雰囲気に酔っていたとはいえ、さすがにそれはあーちゃんと二人で止めた。
 あーちゃんは花火の日になると、よく大人の真似事をしていた。普段なら良心が咎めるようなことも、あの夜の空気ならちょっとした悪戯で済まされると思っていたようだ。僕としては、あーちゃんのそういうところはあまり見たくなかったし、勇ちゃんも見て見ぬ振りをしていたけれど、そっぽを向いた目は心なしかいつも悲しそうだった。あーちゃんの背伸びをしたい気持ちも、わからなくはなかった。でもまさかその性格が、後にあんな事件を引き起こすとは思いもよらなかった。
 そんな花火の夜、例年の如く悪乗りに余念がない勇ちゃんが、珍しく最高に笑えないふざけ方をしたことがあった。あれは確か小学六年生の夏。あの年のあーちゃんは、缶チューハイを少しだけすすって顔を真っ赤にした後、砂の上に座って静かに花火を眺めていた。
 目が少し潤んでいたのは、慣れないお酒を飲んで酔ったせいもあったのかもしれないけれど、それよりも多分、純粋に花火の美しさに感動していたんだと思う。あーちゃんは昔から、そうやって泣いたり笑ったり、時には魔性に魅入られたかように人の話が耳に入らなくなったりと、感性が鋭く、情緒豊かなところがあった。
 それまで僕と冗談を言い合っていた勇ちゃんは、そんなあーちゃんを見て急に神妙な顔になった。不安になった僕が話しかけようとすると、勇ちゃんは僕を差し置いてあーちゃんに駆け寄り、彼女の隣にぴったりと肩を寄せて座った。次の瞬間、勇ちゃんがさらりと言い放った言葉を、僕は今でもはっきりと覚えている。
「大人になったらさ、俺たち結婚しようぜ」
 耳に入った途端、電撃を浴びたような感覚に襲われた。放心していた僕の耳に、呆れた笑いが混じったあーちゃんの反応が届く。全身の痺れに悶えていた僕はさらに、頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「えー、別にいいけど」
 二人は視線を合わせて小さく吹き出し、その後勇ちゃんはすぐに立ち上がっていつものおふざけを始めた。それを見たあーちゃんは、まるで何事もなかったかのように無邪気な笑い声を上げている。僕にはそのときの勇ちゃんがちっとも面白くなく、しかも二人に置き去りにされたような気がして、ほんの数分間ではあったけれど、今すぐこの場から消えてしまいたいと思った。
 僕には勇ちゃんの気持ちがわかっていた。無心に花火を見上げるあーちゃんを見て、勇ちゃんは彼女を放っておけないと思ったに違いない。あのときは僕だってそう感じていた。あーちゃんはすぐ大人ぶるくせに、どこか天真爛漫な少女みたいなところがあって、ふとしたことで気持ちが崩れたり、勝手な思い込みだけで向こう見ずに突き進んでしまったりする。だからあのときも、うっとりと花火を眺める瞳が得体の知れないものに憑かれてしまったかのようで、危なっかしくて見ていられなかったのだろう。
 ただ、花火に没入しているあーちゃんを現実に戻すために、わざわざあんな大それたことを言うだろうか。あの勇ちゃんのことだから、何の含みもなくそのくらいの軽口を叩いても不思議ではない。でも、会話の後に一瞬だけ見つめ合った二人の眼差し──。あの場面を思い出すたび、僕の心は尻尾を踏まれた猫みたいにびくりと飛び上がってしまう。
 この話はそれっきり僕たちの間では出ることもなく、恐らく勇ちゃんとあーちゃんの間でも話されることはなかったようだ。なぜなら、僕たちの仲はその後も何ら変わることがなかったからだ。もし二人があの夜を境に急接近したのなら、邪魔者の僕がその後も同じように扱われるはずがない。どんなに気を遣ったところで、所詮子供だ。特別な関係の二人が、僕への態度を何年にもわたって完璧に取り繕い続けるなんてまず不可能だろう。
 ただ、話は出なくとも、僕の心には二人の言葉が深く刻まれてしまっていたし、進展が無いなら無いで、あの夜の記憶は僕のくすぶっていた気持ちをより一層燃え上がらせる油となってしまった。いやでも二人をこれまでとは違う目で見てしまうことになり、そのせいで以後の僕は、二人と会うたびに嫉妬という炎に焼かれることになった。僕も勇ちゃんみたいに堂々と軽口を叩けたなら、どんなに気が楽だっただろう。
 そんな僕たちの間には、意見の違いやちょっとした小競り合いはあっても、三人の仲を揺るがすほどの衝突は皆無だった。だから当然、未来にもそんなものは存在しないと信じていた。でも、存在しないと思われていたものが実は存在していたなんてことは、科学の歴史を紐解けば決して珍しいことではない。
 原子より小さい素粒子も、これまで観測できなかった遠い銀河も、ずっと存在していたのに人類が発見できなかっただけだ。この宇宙の大部分を満たしていると思われるダークマターやダークエネルギーの正体だって、今は謎に包まれているけれど、そのうち当たり前のように学校で教わるようになるだろう。
 人類は発見を積み重ねていく生き物だ。だからなのか、高校生になって間もない僕と勇ちゃんは、これまでまったく予見できなかった未来を垣間見ることになった。このことも人類の喜ばしい進歩の一端と言えなくもないけれど、こんな未来ならむしろ発見しないほうが幸せだった。ちょうど過去の人類が、共産主義や核の軍事利用を発見してしまったのと同じだ。

 学校であーちゃんの変化を見ていた僕は、まだましだった。高校一年の夏、あーちゃんがいつもの砂浜に来なかったことは、久しぶりの対面を楽しみにしていたであろう勇ちゃんをひどく落胆させた。ただ、入学以来あーちゃんはメッセージアプリに反応しなくなっていたので、勇ちゃんだってこの認めたくない未来を薄々予感していたに違いない。
「トモ、ちょっと訊きたいんだけどさ」
 砂浜で花火の空騒ぎを呆然と眺めていると、立ちすくんだまま黙りこくっていた勇ちゃんがぼそりと呟いた。
「あいつ、元気でやってんの?」
「うん、元気だよ。お互い忙しくてさ、あんまり話はしてないけど、楽しくやってるみたい」
 半分は本当だが、半分は嘘だ。話をしていないのは忙しいからではなく、僕があーちゃんから避けられているから。そしてたまに見かけるあーちゃんは、いつもたくさんの友達の中にいるけど、お世辞にも楽しそうとは言えない。本人の耳に入ったら目を吊り上げて怒るだろうけど、まるで本来の自分を必死に押し込めて、他の誰かを演じようとしているみたいだ。
「そうか、ならいい。楽しい居場所があるならよかったじゃん。俺たちもそろそろ、新しい世界に目を向けないといけないのかもな」
 勇ちゃんの声に、いつもの明るさはなかった。ただ、この受け入れがたい現実には概ね納得しているらしい。僕は盛大に肩透かしを食ったような気がして、思わず食ってかかった。
「いいの? あーちゃんはもう、戻って来ないかもしれないんだよ?」
 勇ちゃんは意地悪だ。僕が珍しくいきり立っているというのに、こういうときに限って大人みたいな顔をする。
「それはあいつの勝手だしな。それに、トモだってあいつの性格、知ってるだろ。俺たちが何を言っても聞かねえよ」
「でも……」
 次の言葉が喉につかえた。できれば言いたくなかったが、どうしても言わずにはいられない。
「勇ちゃんが誘えば、戻って来るかも」
「──何で俺なんだよ。トモがやればいいだろ。俺がそんなことする理由もねえし」
 一段と低い、抑揚のない声。足元から這い上がってくるさざ波の音のほうが、まだ存在感がある。
「あるよ、あーちゃんを誘う理由。あーちゃんは僕より、勇ちゃんに誘われるほうが嬉しいはずだから」
 本音を漏らしてしまった唇を思い切り噛み締めた。僕は一体、何を言っているのだ。
「何だそれ。そんなわけないし、いちいち誘ってやらなきゃ来ないなんて面倒見きれねえよ」
 夜空に広がったしだれ柳が、苦笑いを浮かべて頭を搔く勇ちゃんの横顔をぼんやりと照らし出した。
「安心しろって。あいつはそんなやつじゃない。たぶん今は食べ慣れた味より、新しくて刺激的な味が欲しいだけだ。俺たちだって、たまにそう思うこともあるだろ。可愛くて大人しくて、あいつみたいなぺったんこじゃない女の子と仲良くなりてえなー、とか」
 勇ちゃんはそう言ってちょっとだけ吹き出すと、服が砂で汚れることも気にせず、その場に腰を下ろして大の字に寝転んだ。
 少し視線を下げれば花火に彩られた贅沢な夜景を楽しめるというのに、勇ちゃんは冷たく黙りこくった頭上の星空を静かに眺めている。
「あいつと、何かあったのか?」
 心臓が口から飛び出そうになって、慌てて息を呑み込んだ。勇ちゃんは依然として仰向けのまま、花火の輝きとは比べ物にならないほどささやかな星空を見つめている。
「別に、何も無いよ。むしろ無さすぎて寂しいくらい」
 勇ちゃんの顔を見ていられなくなり、僕も勇ちゃんの隣に寝転がって夜空と対峙した。花火を観に来たというのに、花火の音を聞きながら星を見ることになるとは夢にも思わなかった。
「俺、学校が違うからさ。あいつのこと頼むわ」
 どういう意味なのか訊いてみたかったが、僕の口からはもう何も出てこなかった。何と言って訊けばいいのかわからなかったし、もしかすると訊くのが怖かったのかもしれない。そう、僕はずっと怖かった。僕を視界に入れようとしないあーちゃんと、僕たちのことを一番気にかけてくれている勇ちゃんの、何かの拍子に思わずこぼしてしまう本音を聞いてしまうことが。

 こんな有様だったので、高校二年の夏は誰もあの砂浜に行かなかった。僕は一応、勇ちゃんにメッセージを送って、今年はどうするつもりなのか訊ねていた。彼の返事は、今年は忙しくて行けない、という素っ気ないものだった。
 それも仕方のないことだ。二年生になった勇ちゃんは水泳部のエースになっており、しかも三年生が引退する秋には部長を押し付けられる予定だと、さも億劫そうに言っていた。それほどの期待を背負っていたのだから、夏の間の練習は文字どおり毎日が真剣勝負だっただろう。
 ただ、いくら多忙とはいっても、祭りの夜の二時間さえも捻出できないという返事には疑問が残った。あの、ニンニクとうなぎとすっぽんを煮詰めて人型にしたような、元気の塊である勇ちゃんが、昼間の練習でバテて花火を観られないなんてことがあるだろうか。勇ちゃんの返事は、僕には体のいい言い訳のように聞こえた。なぜそんな言い訳をしなければならなかったのか。それはもちろん、あの砂浜に行きたくなかったからに違いない。
 考えられる可能性は二つ。一つは、新しい友達や、もしかすると彼女と呼べるような女の子との時間を優先したかったから。勇ちゃんの容姿と人柄なら、学校でもたくさん友達がいただろうし、多分女の子にもモテたはずだ。悔しいけれど、勇ちゃんは僕なんかよりずっとかっこよくて社交的で、男の僕でさえ憧れてしまうことがあるくらい魅力的だ。だからあの日、僕の他に勇ちゃんを必要としていた人がいた可能性は高く、それならば僕は喜んで勇ちゃんを送り出そうと思った。
 ただ、もう一つの可能性は少し事情が違った。それは、勇ちゃん自身があの砂浜を拒否しているという可能性だ。しかし勇ちゃんに限って、僕たちにそっぽを向いたり、過去の関係として見限ったりといったことはありえない。それだけは断言できる。それほど勇ちゃんのことを心得ている僕だからこそ、二つ目の可能性を思いついてしまったときは自分を責めずにはいられなかった。
 もし勇ちゃんがあの砂浜に行きたくないと思ったなら、その原因は間違いなくあーちゃんだ。当時の勇ちゃんはおそらく、あーちゃんに会いたくないと思っていたのではないだろうか。ただ、もし砂浜に行っていたらあーちゃんに出くわしていたかというと、当然そんなことはない。なぜならあの年のあーちゃんは、前年にも増して僕たちへの興味を失っていたからだ。
 でも勇ちゃんは、僕があーちゃんの素っ気ない様子を伝えていたにもかかわらず、砂浜に行くとあーちゃんに会ってしまうと思っていた。現実のあーちゃんではなく、記憶の中のあーちゃん。僕たちが三人で馬鹿騒ぎしていた頃の、屈託なく笑う天使みたいなあーちゃんにだ。つまり勇ちゃんは、あーちゃんのことを思い出したくなくて、あの年の花火を見送ったのではないか。もしこれが真実なら、僕にとってこれほど悩ましいことはない。
 僕の胸の中では、ずいぶん前に聞いた言葉が古傷のようにうずいて熱を持ち、周りの血肉をじりじりと焦がしていた。
〝大人になったらさ、俺たち結婚しようぜ〟
 あのときの勇ちゃんが、どれくらい本気でこの台詞を言ったのかはわからない。でも、わかりたいとも思わなかった。そんなことを知ったところで、僕にはどうすることもできなかったからだ。勇ちゃんと張り合ったところで勝負になんかならないだろうし、もし勇ちゃんが僕の前に立ち塞がらなかったとしても、僕だけの力であーちゃんを振り向かせるなんて到底無理な話だった。

 その頃のあーちゃんは、前年度とはまったく雰囲気が違うグループの中にいた。陽気だけど、ちょっと屈折した感じがする近寄りがたいグループ。進学校の中にも落ちこぼれはいる。そういった部類の生徒が、居場所を求めて寄り集まったような顔ぶれだった。
 あーちゃんがそういうグループと付き合うようになったので、僕とあーちゃんの距離はさらに大きく開いてしまった。前年度までは、校内の移動時などにわざと遠回りをしてあーちゃんの様子を窺うこともあったが、二年生になってからはむしろ僕のほうが彼女を避けるようになった。
 嫌いになったわけではない。ただ単に、見たくなかったのだ。小さい頃から感情に流されやすいところはあったけれど、あーちゃんはいつだって真っ直ぐな心を失わずに持っていた。それなのにあの頃は、自分を見失って空回りしていたのか、あんなに無垢でいじらしかった心がすっかり歪んでしまったようで、とても見ていられなかった。偶然すれ違うときに見る仲間同士の笑顔も、昔の彼女を知っている僕に言わせれば、下手な作り笑いでしかなかった。
 あーちゃんが良からぬ小遣い稼ぎをしていると聞いたのは、高校二年の秋口だったと思う。僕が中学から何となく続けていたソフトテニス部を辞め、大学受験に本腰を入れ始めた頃だ。そんな折、僕とあーちゃんが同じ中学ということを知っている友達が、くだんの噂を得意げに持ってきた。当然、僕の心中は穏やかでないどころか、ぐちゃぐちゃに押し潰された。
 僕は、自分が相当な身の程知らずだということを思い知らされた。自分があーちゃんの眼中に入っていないことを知りながら、心のどこかでは、いつかきっと振り向いてくれるという甘い期待を捨てきれずにいたのだ。この目でずっとあーちゃんの迷走を見ていながら、何も行動を起こさず、ただただ傍観し続けていた弱虫のくせに!
 僕の心の乱れは、理不尽極まりないものだった。多分、付き合っている彼女の浮気を知るとこんな気持ちになるのだろう。それなのに、付き合っているわけでもなく、ましてや相手にもされていない僕が、こんなにも激しいやきもちを焼くなんてどうかしている。いいや、それだけではない。僕はやきもち以上に、あーちゃんを買った相手のことを羨ましいとさえ思っていた。
 僕はお金の魔力に打ちのめされると共に、その魔力に魅入られてもいた。お金があれば、あーちゃんの時間と視線を独り占めできるし、何ならこれまで知らなかった髪の匂いや、肌の温かさまで知ることができる。それがひどく卑しい考えだということも、もちろんわかっていた。わかっていたからこそ、自分のおぞましい願望をくまなく鏡に映し出されたようで、それに気づいたときの怖気といったらなかった。
 あーちゃんの姿を思い浮かべるたびに、焼けた鉄のような積年の思いが胸を焼く。情けないことに、お金で欲望を買える大人がとことん恨めしく、それでも羨ましくて仕方がなかった。でも、たとえそのときの僕がお金を持っていたとしても、あーちゃんは僕の相手なんて絶対にしない。きっと心底呆れた目をして軽蔑するだけだ。その光景だって簡単に想像することができたから、僕の心は余計に八方塞がりになっていた。どうして大人だけは、お金で何を買っても許されるのだ!
 素行の乱れは得てして外見に現れるもので、そういった噂のある生徒たちはほぼ例外なく、競うように派手で垢抜けた格好をしていた。しかしあーちゃんだけは、化粧や制服の着こなしはもちろん、細かいアクセサリー類の趣味に至るまで、まったく変わる気配がなかった。
 だから僕は、噂のショックが落ち着いて少し冷静になってくると、次第に噂の真偽を疑うようになった。確かにあーちゃんはそういうことをやりかねないグループに属しているようだが、彼女に限ってそんな馬鹿なことはしていないのではないか。単にあのグループと昵懇じっこんというだけで、十把一絡じっぱひとからげに噂を立てられたのではないか。そう思い至ると、風に揺られるやじろべえのようだった僕の心は、急速に平衡を取り戻していった。

 それが僕の勝手で都合のいい気休めだと気づいたのは、すっかり桜の花が散り終えた、高校三年生になったばかりの頃だった。受験勉強に没頭していた僕は、その日の学校帰り、繁華街の大型書店に立ち寄っていた。週末の勉強用に、数学と物理の問題集を買い足すためだ。
 書架の前で問題集を片っ端から吟味していると、唐突に腹の虫が鳴って我に返った。問題集選びに没入するあまり、完全に時間を忘れていた。振り返って店内の時計を見ると、すでに午後八時を回っている。僕は物色に踏ん切りをつけると、慌てて帰路に就いた。
 気が急いていたため、普段は通らない裏道を使ったのがよくなかった。車がやっと擦れ違えるくらいの薄暗い裏道を急いでいると、前から腕を組んだ男女が歩いて来るのが見えた。急いでいたし、特に珍しい光景でもないので、普段ならまともに見もせず、こうして記憶にも残っていなかっただろう。しかし、そのとき出くわした男女は僕の目を釘付けにした。なぜなら、その女性があまりにも見慣れた服装をしていたからだ。
 男性のほうは三十代半ばくらいで、どこにでもあるカジュアルな普段着を着ていた。おそらくスーツ姿を強制されない職場に勤めているのだろう。そして隣を歩く女性はというと、僕が毎日目にしている学校の制服を身に着けている。間違いない。あーちゃんだった。着飾ったり、学校では禁止されているような装飾をすることもなく、普段と寸分も違わない姿だった。
 最初、二人は付き合っているのかもしれないと思った。しかしその想像は、あーちゃんの表情を見た途端に消え失せた。辺りが暗く、多少距離はあったにしても、この僕が彼女の表情を読み間違えるなんてありえない。あーちゃんは微笑みこそ浮かべていたが、心底楽しんでいる顔ではなかった。つまり、面白がってはいるものの、少なからず義務感のようなものも感じていたということだ。
 僕はあーちゃんに気づかれないよう、俯いたまま早足でその場を通り過ぎた。機嫌よく一方的に喋る男と、適当に相槌を打つあーちゃんの声。ここのところ落ち着いていた僕の胸が、切迫した早鐘を打ち始めた。真っ赤に焼けた鉄のような思いが、早鐘のハンマーに打たれて火花を散らしている。僕はすべてを悟った。残念ながら、あの噂は本当だったのだ。
 学校に知られたら大変だというのに、校外でも普段の姿で通しているということは、おそらく自然で現実的な高校生の風貌に需要があるのだろう。早鐘が胸中を激しく震わせているというのに、どこか冷ややかに現実を傍観している自分がいて、僕はとうとう心が壊れてしまったのかと思った。実際、中学までのように物事を純粋に捉え、普段の遊びの中で勇ちゃんたちと善悪を確かめ合っていた僕はすでにおらず、その点では本当に壊れてしまったと言ってよかった。
 ただ、せめてもの救いがあるとすれば、それは僕がこの日、自室で一人になった途端に泣き崩れたことだった。僕にはまだ、勇ちゃんたちと培ってきた良心と義憤が残っている。そして、誰よりも大切な人の手を取り、その手を引いて迷いの森から引っ張り出してやる勇気がない自分に、改めて怒りを覚えることもできている。
 僕の勝手な独りよがりでしかないけれど、あんなあーちゃんを見るのはもう堪えられない。勇ちゃんからだって、あーちゃんのことを頼まれている。僕が何とかしなければ。これは僕にしかできないこと。でも、どうやって? 今のあーちゃんが、僕の話をまともに聞いてくれるとは思えない。たとえどうにかして彼女の耳に届けたとしても、うざったい説教として黙殺されるのがおちだ。
 僕はひたすらやきもきするだけで、その後もあーちゃんと話す機会を作れずにいた。メッセージアプリはまだ生きているけれど、高校生になってからは返信をもらえた試しがない。勇ちゃんに対しても完全に無言だし、僕がお節介なメッセージを送ったところで、逆効果でしかないことは目に見えている。
 やはり話をするには直接会うしかなく、そのハードルの高さは僕に様々な言い訳を拵えさせた。当時の僕は受験勉強に明け暮れており、そのプレッシャーが日常をひどく億劫なものにさせていた。時間や労力を勉強以外に割く余裕がなく、ただでさえ困難を極めるあーちゃんとの接触がどんどん後回しになっていったのも、仕方のないことだった。

 そして、夜の街であーちゃんを見かけてから二か月後。指定校推薦の話がちらほらと出始めた六月の初旬に、僕は一生分の後悔をすることになる。あーちゃんが素行不良のため停学になったという噂は、前回の噂を真っ先に知らせてくれた早耳の友達に聞いた後、じわじわと校内に広がり始めた。学校側は穏便に済ませたいらしく、全校集会などで取り上げられることはなかったが、夏休みに入る頃にはほとんどの生徒がこの噂を耳にしていただろう。
 僕は、自分の怠惰と意気地のなさに嫌というほど打ちのめされた。僕がとっとと何らかの行動を起こしていれば、あーちゃんは停学になどならずに済んだのだ。それなのに僕は、危険な森から引っ張り出してやれるのは自分だけだとわかっていながら、彼女に手を差し伸べようともしなかった。僕は大馬鹿で甲斐性なしで臆病な、自分のことしか考えていないとんだ偽善者だ。こんなことになってしまうなんて、僕はどんな顔をして勇ちゃんに会えばいい。
 そうやって僕は、終わりのない悔恨にいつまでも打ちひしがれていた。停学中なら、家を訪ねればあーちゃんと話すことができるかもしれない。しかし、今さら会って何を話すというのか。此の期に及んで素行に口を挟んでも、傷口に塩を塗るようなものだし、具体的な事情を何も知らない僕が言う慰めなんて、嫌なことを思い出すだけで、最も聞きたくない言葉の一つだろう。
 受験勉強が手につかないまま、悶々とした六月が過ぎ、気がつくとカレンダーは夏休み目前の七月中旬となっていた。勇ちゃんに相談することもできず、僕はすっかり抜け殻のようになっていた。そんな僕に再度命を吹き込んでくれたのは、間抜けな僕の被害者であるあーちゃんだった。
 驚いたことにあーちゃんは、これまで梨のつぶてだったメッセージアプリにメッセージを送ってきた。
〝これまでくれたメッセージ、ずっとほったらかしにしててごめん。元気にしてる?〟
 夜九時を過ぎ、少しも捗らない問題集を前にため息ばかりついていた僕は、携帯電話を慌てて摑み上げた。発信元を念入りに確認してみる。あーちゃんに間違いないとわかると、震える指で一文字、一文字、刻み込むように返信を入力していった。
〝元気だよ。ほったらかしだなんて、そんなこと気にしないで〟
 僕とあーちゃんは、ぽつりぽつりと近況を報告し合った。しばらく学校を休んでいたことについては知らないふりをして、そちらに話が向かないよう細心の注意を払った。あーちゃんもそのことを気にしているのか、その話に触れようとはしなかった。
 メッセージのやり取りを続けるほどに、虫の息だった僕の心が息を吹き返していく。携帯の画面の向こう側にいるあーちゃんは、疎遠になってかなりの月日が経ったからか、少し他人行儀なところはあったけれど、中学までの明るく朗らかなあーちゃんそのものだった。僕は歓喜した。このままいけば、夏休みが明ける頃には本当のあーちゃんに戻っているかもしれない。もう二度と戻らないと思っていた、三人で馬鹿みたいに笑い転げていた愛おしい時間が、また戻ってくるかもしれない。
 ただ、そうやって期待に胸を膨らませる僕は、あーちゃんとのメッセージを終える頃にはもういなくなっていた。あーちゃんが豹変して、停学になったことを急に愚痴りだしたとか、居心地が悪くなったので学校を辞めると言い出したとか、そういうことではない。メッセージを切り上げる直前、あーちゃんは僕に頼み事をした。その頼み事は、あーちゃんにとっては何でもない些事だったのかもしれないけれど、僕にとっては未来を大きく左右する御前会議ものの重大事だった。
 あーちゃんの頼み事は、三人でいつもの花火を観よう、という提案の後、まるで用意していたみたいに送られてきた。僕なら、この頼み事を二つ返事で引き受けてくれると思ったようだ。あーちゃんは僕を知らなすぎだ。聞き分けのいい善人だと買いかぶりすぎだ。こんな頼み事、易々と引き受けられるわけがない。
 本当の僕は、善人でも温厚でも冷静でもない、臆病でずる賢いただのハゲタカだ。暢気にメッセージを交わし合っていたときだって、僕は内心、すっかり参っているあーちゃんに付け入って、あわよくば友達以上の地位にありつこうと目を光らせていた。花火の提案を目にしたときも、心の中ではどうして二人ではなく三人なんだと激しく地団駄を踏んでいたんだ。そんな男に向かってこともあろうか、勇ちゃんも誘え、だなんて。ここまでくるともう、鈍感を通り越してどうかしてる!
 しばらく悩んだ末、僕はあーちゃんの頼みを引き受けることにした。この光栄で残酷な頼み事の結末は、この僕だけが握っている。だから僕は、今後二度と後悔することのないよう、綿密に、大胆に、そして何より僕自身が納得するために、高校最後の花火という舞台で大立ち回りを演じる覚悟を決めた。

 勇ちゃんは、僕が誘った通りの時間に砂浜に現れた。あーちゃんも来ると伝えただけで、この変わりよう。昨年とは打って変わって誘いをすぐに快諾し、こうして時間通りに現れるのだから、表情は不機嫌そのものだが、心は少なからず躍っているに違いない。もちろん勇ちゃんだけでなく、僕の胸も張り裂けんばかりに躍っていた。ただ僕の躍りは、勇ちゃんとはかなり種類が違ったのだけれど。
 波打ち際で勇ちゃんと世間話を話していると、昼の熱気が冷め始めた夜の空気を鋭く震わせる一発が夜空に上がった。今年も始まったねと言うと、勇ちゃんは「誰かのせいで一回、観損ねたけどな」と皮肉っぽく呟いて、最初の花火が上がった辺りへ目を向けた。僕も勇ちゃんに倣って、夜空に目を遣った。次の花火を待ち受ける僕たちの視界に、これからの僕と勇ちゃんを暗示するかのような、バンバンと騒がしい音を立てて閃く花雷はならいが上がった。
 砂浜には僕と勇ちゃんしかいない。でも多分あーちゃんも到着していて、この付近に潜んでいるはずだ。大方、砂浜沿いに茂っている松林あたりに隠れているのだろう。取りあえず僕は、花火が小休止に入るまで静かに待つことにした。待ちわびた二年ぶりの花火だったし、花火が上がっている最中は騒がしくて、僕たちの会話があーちゃんまで届かないかもしれないと思ったからだ。
 二十分ほど経って打ち上げが小休止に入ると、辺りは怖いくらいの闇に沈んだ。これまで何度も遊んできた馴染み深い砂浜なのに、まるで果てしない宇宙に放り出されたかのようだ。しかし、どれほど心細くても頼れるものは何もない。僕は今、三人のすべてをこの頼りない双肩に担っている。改めて自分にそう言い聞かせると、いつもは心地好い潮鳴りさえ気持ちを逆撫でするノイズのようで、思わず耳を塞いでしまいたくなった。
「亜美のやつ、またかよ。俺たちだって暇じゃねえんだぞ」
 勇ちゃんが苛立ち始めている。それはそうだろう。ここまでの展開は、あーちゃんが現れなかった二年前とまったく同じだ。でもあーちゃんはすでに到着しているし、たった今の悪態だって聞いているはずだ。何も知らないのは、勇ちゃんだけ──。
「勇ちゃんは水泳部の部長だし、昔からモテるもんね。もしかして、女の子との約束をすっぽかしてここに来た?」
 そんなはずはない。モテるのは事実だが、今夜は抜かりなく予定を空けていたはずだ。それくらい再会を期待していたからこそ、あーちゃんが現れないことにこれほど苛立っている。勇ちゃんは昔も今も、考えていることがとてもわかりやすい。
「あーちゃんにも色々あって、どうしても間に合わなかったんだよ。それに女の子だし、着の身着のままで出て来られる僕たちのようにはいかないんじゃない?」
「女の子? 俺たちと一緒に裸同然で泳いでたあいつが? トモだって覚えてるだろ。この浜でずぶ濡れになって馬鹿笑いしてたあいつの、色気の無さといったら……」
 それはまあ、確かにそうかもしれない。でも僕は、そういうところもあーちゃんの魅力だと思う。やっぱりあーちゃんには、いつも夏の太陽みたいに笑っていてほしい。学校で同じグループの仲間に見せている笑みは、いつだってどこか冷たく、人を見下しているようで、あんなに笑うのが上手かったあーちゃんらしくない笑みばかりだ。急いで大人にならなくていい。あーちゃんは素のままで、充分素敵なんだから。
 僕と勇ちゃんは、ひとしきり昔話に花を咲かせた。ただ、話題は幼いあーちゃんが仕出かした愉快な失敗ばかりで、どこかで会話を聞いていたであろうあーちゃんは、頭に上った血を冷ますのに一苦労だったかもしれない。
「──あのさ、あーちゃんはどうして今年、僕たちを花火に誘ったんだろうね?」
 無駄話はこのくらいにして、そろそろ本題だ。僕は努めて何気ない素振りを作って、勇ちゃんの返事を待った。勇ちゃんは少し首をすくめて、静かに苦笑いを浮かべている。やはり、あまり答えたくないようだ。二年以上、あーちゃんと言葉すら交わしていない勇ちゃんが、誰よりも彼女のことを気にしていることはわかっている。勇ちゃんが語るに落ちるのも時間の問題だろう。
「あいつ、強情なくせにすげえ寂しがりだからな。今になって、俺たちと過ごした夏が恋しくなった、ってところじゃねえの? でもいざ会うとなると、寂しくて音を上げたことがカッコ悪くて出て来られない。いかにもあいつらしいよ」
 そうだよ、勇ちゃん。僕に連絡をくれた十日前のあーちゃんは、きっと頭から布団を被って、口に押し当てた枕に向かって大声を張り上げていたと思う。僕にテキストメッセージを送るだけでもそんな有様だったはずなんだから、近くでこの話を聞いているあーちゃんがどんな気持ちかは推して知るべしだ。他ならぬ僕たちに頭を下げて来てもらうなんて、カッコ悪いどころじゃない。今頃は、頭からもうもうと湯気でも上げているんじゃないかな。
「気づいてたんだ。あーちゃんが寂しがり屋だってこと。それならさ、学校が離れてからどのくらい連絡してあげた?」
 思った通り、勇ちゃんは反射的に両目を吊り上げた。勇ちゃんの痛いところを言い当てるくらい、僕にとっては昔三人でよくやったなぞなぞより簡単だ。そういえば勇ちゃんが出す問題は、どれも単純だったけど笑える答えが多かったな。今思うと、勇ちゃんにとっては僕らを困らせる難しさより、面白さのほうが大事だったんだね。
「はあ? どうして俺が連絡すんだよ」
 ごもっともだ。あーちゃんは二年以上も前に、勇ちゃんの日常から出て行った人。返信のない相手に連絡をし続けなければならない義務などない。
「そう言うトモだって、あいつのことかまってんのか? あいつがトモを避けているとしても、同じ学校なんだからばったり会ったりすることもあるだろ?」
 そりゃあるよ。でも勇ちゃんはそれでいいの? 僕があーちゃんをかまって、助けて、僕たちの三角形の一辺だけが太く短くなっても。それとも、そんなことできないと思ってる? だとしたら勇ちゃんは、僕を侮りすぎだ。僕は勇ちゃんが思っているほど淡白でもなければ、お人好しでもない。
「学校は同じでも、会おうと思わなければ案外出くわさないものだよ」
「何だよ。結局トモだって俺と同じじゃんか。いや、近くにいるくせに声もかけないんだから、俺より薄情だろ」
 仕方ないだろ。僕だってそばにいたかったよ。でもあんな目で見られて、赤の他人のふりをされて、それでも強引につきまとうことが最善だったって言える? あれ以上あーちゃんに拒絶されるなんて、僕には堪えられない。
「あーちゃんは、僕らと離れる必要があった。僕は一年生のとき、あーちゃんの学校生活を見てそう感じた。だからそれ以来、わざと距離を置いてる」
「なんだよ、それ。俺たちは嫌われてるってことか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。答えを知っているのは、あーちゃんだけだよ。でも、これだけははっきりしてる」
 勇ちゃんだって本当はわかってるくせに。どうしていつまでもとぼけてるんだよ。勇ちゃんがそんなだから、話が余計にややこしくなるんだ。とばっちりを食ってる僕の身にもなってよ。
「今のあーちゃんは、僕たちを必要としている」
「だろうな。花火を観ようって切り出したのはあいつなんだろ? そして俺たちは誘われるままに集まって、性懲りもなく二年前みたいに待ちぼうけを食ってる。てことは、俺たちの役目はこの突き合わせた馬鹿面をあいつに笑われることか?」
 突き合わせた馬鹿面、か。本当にそうだね。僕も勇ちゃんも本当に馬鹿だ。あんなに仲が良かった僕たちなのに、どうして衝突し合っているんだろう。あーちゃんに、迷いや、ばつの悪さを与えない選択肢だってあったはずだ。でも、今さら後悔したって仕方がない。だって僕と勇ちゃんは、幼い頃からずっと一緒に遊んできた幼馴染同士。だからなのか、見た目も性格もちっとも似ていないけれど、たくさん転ぶことでしか成長できない馬鹿ってところだけはそっくりだ。
「そうかもしれないね。でも、本当に僕らを笑いたいだけかな? 一度見切りをつけた旧友をこうして呼び出すなんて、かなり勇気がいることだよ」
 勇ちゃんが、大嫌いなピーマンを食べたときの顔をしている。苦くて青臭いかもしれないけれど、もう少しだけ僕の話に付き合ってもらうよ。
「僕たちが会っていない時間は、たったの二年ちょっと。仲が良かった頃の記憶も、あーちゃんに背を向けられたときの驚きも、まだまだ鮮明だよね。だから今回、僕たちを花火に誘ったあーちゃんは、相当気まずかったんじゃないかな」
「──何が言いたいんだよ」
 言いたいことはいっぱいある。でも、すべてはもう終わったことだ。過去の過ちをいくらほじくり返したって、今の僕らは何も変わらないし、救われることもない。だから僕は、勇ちゃんと未来の話をするためにここに来た。本当は勇ちゃんだって、僕とこの話がしたくてたまらなかったんだろう?
「あーちゃんが僕たちに声をかけた理由は、二つあると思う。一つは、自分ではどうすることもできない窮地に立たされた心細さから」
 勇ちゃんの目つきが、さっと鋭くなった。ほら、早く思い出してよ。中学の頃、あーちゃんはこの浜で溺れそうになった。そのとき僕と勇ちゃんが、どれほど必死になって彼女を助けたか。
「窮地って、あの噂のことか」
 そうだよ。勇ちゃんだってあの噂、絶対に聞きたくなかっただろう? 中学のときは僕たち二人であーちゃんを救った。でも今回あーちゃんは、取り返しのつかないところまで流されてしまった。僕と勇ちゃんが、自分のことばかりにかまけていたせいで。
「停学は本当だったんだな。あの馬鹿……」
 僕たちは馬鹿だからこそ、三人で一緒にいたんじゃないか。誰かが道を踏み外しそうになったら、あとの二人がすぐに助ける。どうして僕たちは、自分一人でも生きていけるなんて傲慢な勘違いをしちゃったんだろうね。
「僕も本人に訊いたわけじゃないから、真実かどうかはわからない。でも、学校で広まっている噂は作り話とは思えないくらい具体的で、しかもしばらくの間、学校を休んでいたのも事実……」
「だとすると、自業自得の停学を同情してもらうために俺たちを呼んだってことか。ふざけやがって……、トモもそう思うだろ?」
 まあね。それが事実なら僕も同意見だよ。でも僕は、それが事実ではないことを知っている。だから僕は、勇ちゃんみたいにあーちゃんを責めたりしないと思うだろう? 違うよ。さっきも言った通り、僕は勇ちゃんが思ってるようなお人好しじゃない。本当は僕だって言ってやりたいんだ。あーちゃんに向かって大声で、ふざけんな、って。
「同情が目的なのか、それとも他に理由があるのか。僕にとってはどっちでもいいことだよ。だけど、沖まで流されて自力で戻って来られないあーちゃんが、この砂浜に帰りたがっていることだけは間違いない」
 あの勇ちゃんが絶句している。さっきまで勇ちゃんの矛先は、来る気配のないあーちゃんに向いていた。でも今、矛先は僕に向いている。もう一息。こんな僕でも勇ちゃんと互角に渡り合えるってことを、今日この場で証明してあげるよ。
「あーちゃんは現実的にも、精神的にも追い詰められている。僕たちを呼んだもう一つの理由は、そこにあるんじゃないかな。あーちゃんはきっとこう感じてる。この先、自分ひとりで立ち直るのは無理なんじゃないかって」
 顔を苦々しく歪めてはいるが、それでも勇ちゃんは何も言おうとしなかった。もしかすると、煮えたぎる感情はあっても、それを言葉にすることができないのかもしれない。その感情があまりにも熱すぎて、脳が言語化のために触れることを拒否しているのだろう。
 花火の小休止が終わり、鋭い光が勇ちゃんの強張った顔を照らし出した。続けて七色の火花が夜空に飛び散り、力強い和太鼓のような破裂音が景気よく拍子を刻む。僕は覚悟を決めた。どうしても返事をしないなら、僕が先に勇ちゃんを殴る!
「だから今夜、僕はあーちゃんにとって特別な男になる」
 勇ちゃんだって男だろ。だったら僕の言葉に殴られっぱなしになんてならないで、思い切り殴り返してこい!
「──お前、正気か? あいつは俺たちに愛想を尽かしただけじゃない。平気で初対面のおっさんと遊び回るような女なんだぞ」
 そうじゃないって! あーちゃんがどんな失敗をしたかなんて、今は関係ない! それよりも目の前にいる敵、僕を殴り返せ!
「勇ちゃんも、あーちゃんを女性だって認めてるんだね」
「そういう問題じゃねえ。あんな女のどこがいい?」
「どこが? 愛嬌があって、一緒にいると元気をもらえるところかな。それに何より、あーちゃんは僕たちの大事な幼馴染だよ。放っておけない」
 勇ちゃんの肩が一瞬だけびくりと動いて、僕は思わず身を固くした。本当に殴られると思ったからだ。しかし勇ちゃんは勇ましく拳を握るどころか、どこまでも偽物の平和主義を押し通そうとする。
「お前まさか、あいつとやりたいだけなんじゃ……」
 馬鹿じゃないの? そんなの当たり前だって。もちろんそれだけじゃないけど、好きな子に触れたいと思わない男なんているの? もしいるなら、僕よりそっちのほうがずっと不健全だよね? そんなことを言うんだったら勇ちゃんはどうなのさ。
「違う、僕は本気だよ。それを言うなら勇ちゃんこそ、中学のとき、海から上がったあーちゃんの身体をジロジロと……」
「うるせえ! お前、やりたすぎてマジでイカレたのか? 取りあえず落ち着け。あんなやつでサカってないで、あっち行って抜いてこい」
 もうやめてよ。僕たち命懸けで、溺れたあーちゃんを助けたよね。あのときの勇ちゃんは本当にカッコ良かったよ。真っ先に服を脱いで海に飛び込んで、パニックになったあーちゃんに暗い沖でしがみつかれても、少しも取り乱さず最初から最後まで冷静だった。早くあのときの勇ちゃんに戻ってくれないと、僕だってこれ以上手加減は……。
「勇ちゃんだって、さっきからずっと変だよ。どうしてそんなにムキになるの? 僕が誰を好きになろうと勝手だし、あーちゃんのこと嫌いならほっとけばいいじゃん。それともまさか、僕に取られるのが怖い?」
 いきなり勇ちゃんの腕が伸びてきて、僕の襟を勢いよく摑んだ。一瞬、息ができなくなって怯んでしまったが、ここまできてだらしない顔を見せるわけにはいかない。
「寝言は寝て言えって。あんなやつ、頼まれたって願い下げだ」
 言ったな? あとで吠え面かくなよ。本当は張り倒してでも僕を止めたいくせに!
「トモ、お前どうしたんだよ。本当にあいつでいいのか? たとえうまくいったとしても、あいつはまたお前を置いてどこかへ行っちまうかもしれないんだぞ。あいつは──、亜美はそういうやつだったんだよ。俺たちが好きだった亜美はもういない」
 うるさい! 誰があーちゃんをそんな風にしたと思ってる? あーちゃんを繋ぎ止めておけなかったのは、僕と勇ちゃんのせいだろ? 夜の海は危ないって知っていながら、沖に行かせちゃったのは僕らのせいだろ!
「そんなことにはならない。僕は、勇ちゃんとは違う」
「俺とは? ふざけんなよ!」
 怒鳴り声と共に突き飛ばされ、情けないことに僕は砂の上へ仰向けに倒れた。ふざけてなんかいない。僕は今、この上なく真剣に僕たちの未来を考えている。勇ちゃんなんかよりずっとずっと、正気で冷静だ。
 後悔のない未来。この夜のため心に刻んだ覚悟を思い出すと、身体が勝手に動いた。勢いをつけた上半身が、勇ちゃんの鍛え抜かれた腹筋目がけて吸い込まれていく。信じられないことに、僕の渾身の体当たりはあの勇ちゃんをよろめかせ、遂には尻餅をつかせた。
「あーちゃんは絶対に渡さない!」
 勢いのまま勇ちゃんの腹に馬乗りになると、火山の噴火を思わせる怒声が目の前で噴き上がった。
「俺がトモなんかに負けるわけねえだろ!」
 勇ちゃんの噴火は、声だけではなかった。僕はもの凄い力で腕を摑まれ、あっという間に砂の上に引き倒された。気がつくと天を見上げていて、僕の腹の上には勇ちゃんがずしりと乗っかっている。
 とうとう殴られる。そう直感した矢先、あまりの眩しさに両腕で顔を覆った。殴られて意識が飛んだわけではない。特大の尺玉が、僕の見上げる夜空の先で大爆発を起こしたのだ。
 恐る恐る腕を退けると、勇ちゃんが見たこともないような形相で僕を見下ろしていた。引き絞った右拳は、まだ肩の側で止まっている。
「あんたたち、何やってんのよ!」
 どこからか懐かしい声がして、僕と勇ちゃんは強烈な磁力に引きつけられたかのように声の方へ目を向けた。松林の暗がりから、見慣れた格好のあーちゃんが裸足で駆けて来る。学校の制服姿でも、背伸びした大人っぽい服装でもない。僕らと馬鹿騒ぎするときの動きやすいショートパンツに、手に持っているのは中学の頃も履いていたパステルカラーのスポーツサンダル──。
 どうも様子がおかしい。あーちゃん、泣いてるの? 僕はちゃんと約束を守ったよ。勇ちゃんを誘って、望み通りこうして三人で集まることができたよね。それなのに、何か気に入らないことでもあった?
 勇ちゃんとの会話を聞いていたなら、びっくりさせちゃった場面もあったかもしれないね。それらは決して、あーちゃんを泣かせるつもりで言ったわけじゃないから。でもね、これで終わりじゃないんだ。僕は、あーちゃんや勇ちゃんが思っているほどお人好しじゃないからね。
 あーちゃんは以前、ここで溺れたことがあっただろう? あの夜、水をたくさん飲んでしまったあーちゃんをこの砂浜で介抱したのは、僕と勇ちゃんだ。真っ先に人工呼吸を始めた勇ちゃんの素早い判断。僕は目を逸らすこともできず、隣で呆気に取られていたよ。でもその甲斐あって、あーちゃんはすぐに水を吐き戻し、ぼんやりと目を開けてくれた。
 沖に流されたあーちゃんを助けるとき、身に着けていたシャツやショートパンツは勇ちゃんが剝ぎ取ったんだ。衣服は濡れると重たくなって身体にまとわりつく。着たままだと救助の邪魔になってしまうから仕方がなかったんだ。そのとき何もできなかった僕は、せめて自分ができることをしようと思って、あーちゃんの服を探しにもう一度海へ向かった。
 服は運良く浅瀬に漂着していて、僕は難なく目的を達することができた。ただ、僕の苦悶はここから始まる。回収した服を持って引き返していると、花火に照らされた二人の姿が目に飛び込んできた。砂浜に寝かされたあーちゃんと、人工呼吸を続ける勇ちゃん。違和感の正体はすぐにわかった。意識は戻っているのになぜ人工呼吸? そして、勇ちゃんの首に回されたあーちゃんの腕──。
 さあ、これで終わりにしよう。最後に残っている分厚い壁は、僕の力で必ずぶち破ってみせる。こう見えても、僕だって少しはたくましくなったんだ。それにこれは、あーちゃんや勇ちゃんのためじゃない。他ならぬ僕の、後悔のない未来のためなんだから。
「泣かないで。あーちゃんは僕が守る」
 目の前で俯いているあーちゃんに呼びかけると、僕に跨っていた勇ちゃんはゆっくりと立ち上がり、僕の手を取って起き上がらせた。
「あの、遅くなってごめん」
 いいや、むしろ絶妙なタイミングだったと思う。あーちゃんがこの瞬間を狙ったかどうかはわからないけれど、僕にとっては願ったり叶ったりだ。それより、またびっくりさせちゃうことになるから、こちらこそごめんね。
「いいよ、そんなこと。それより聞いてほしいことがあるんだ。僕はあーちゃんのことが……」
「待て。何か忘れてないか? 俺もいるんだぞ」
 もちろん忘れてないよ。だってある意味、今日の主役は僕でもあーちゃんでもなく、勇ちゃんなんだから。
「わかった、続きはあーちゃんと二人きりになってから言うよ。それでいい?」
「そうじゃねえ。くそっ、どうしてこんなことになっちまったんだ。──亜美、トモの話のあと、俺の話も聞け」
 そう、それでいい。ここまで本当に長かった。これでようやく、あの夜からずっと絡みついている呪いから解放される。
 そのとき、僕たちがいる砂浜が真昼のように明るくなった。今年の花火が終盤を迎えて、色とりどりの火花が夜空を盛大に埋め尽くしている。ずっとずっと言いたくてたまらなかった言葉が、様々な思いでいっぱいになった僕の胸をするすると昇り、ようやく打ち上がった。
「あーちゃん、好きだ」
 このときの勇ちゃんの渋面といったらなかった。僕にだけは絶対に言わせたくなかったって、顔に大きく書いてある。でも、もう言ったよ。あとはどうなろうと、僕は知らないからね。
「次は俺だ。おいバカ亜美、独りですねてんじゃねえよ。俺がいるだろうが」
 あーちゃん、終わったよ。君の願いはちゃんと叶えたからね。やり過ぎだったなんて言わないでよ。僕にだって、僕なりの事情ってものがあるんだから。
「──ただいま。信じてもらえないかもしれないけど、聞いて。本当は一度も忘れたことなんてなかった。私は小さい頃からずっと、この砂浜が大好き」
 あーちゃんは人目も憚らず、ぐしゃぐしゃに泣いている。勇ちゃんは所在なさそうに、夜空を埋め尽くす花火の最後を見届けている。そして僕はというと、何一つ変わらない、いつもの僕だ。本当にもう嫌になるくらい、冷静で理性的で穏やかな僕。でも今の僕は不思議と、そんな自分もまんざらでもないと思い始めている。
 こういう風に自分を肯定できるようになったのは、ずっと苦楽を分かち合ってきてくれた、大切な幼馴染たちのおかげ。

 携帯電話の通知音が車内に鳴り響いて、僕は雲を抜けた飛行機みたいに微睡まどろみから覚めた。まだ眠い目をこじ開けて通知を確認すると、テキストメッセージが一件届いている。
〝ありがとう。今日のお昼にはそっちに着く予定です。この時期は毎年、お仕事が忙しいって言ってたよね。時間はあまり取れない?〟
 僕は返信しようとした指を止めて、車のハンドルを握った。うたた寝を始めて、もう二十分も経っている。早く配達と仕入れを済ませなければ、予定の時間に間に合わなくなってしまう。
 海岸沿いの国道を、仕事用のバンで軽快に走り抜ける。車の窓はもちろん全開。今夜は毎年恒例の夏祭りが催されるだけに、花火会場は準備に大わらわのようだ。
 そのまま国道を五分ほど進むと、潮の香りが一段と濃くなる場所がある。その辺りが、僕たちの秘密の砂浜。別に懐かしくはない。今でも毎年、ここで花火を観ているから。
 高校卒業後、僕は実家を離れて都会の大学に進んだ。そのまま都会で就職して、やり甲斐のある毎日を過ごしていたけれど、やっぱり何か物足りなくて結局実家の和菓子屋を継ぐことにした。
 後悔はまったくしていない。だって和菓子作りは、会社の仕事よりずっとサイエンスで僕好みだから。餡子炊き、砂糖や塩の加減、練り切りの模様の考案。どれもこれも推論と実験の繰り返しで、僕の探究心を余すところなく満たしてくれる。まさに和菓子作りは、どれほど研究を重ねても果てが見えない宇宙そのものと言っていい。
 勇ちゃんは体を使うのが好きだからって、大型自動車や重機の免許を取って、今は建設現場で奮闘しているみたいだ。そのうち自分で土建屋をおこすなんて言ってたけど、実家の跡継ぎはどうするつもりなんだろう。やっぱり弟に任せちゃうのかな。
 そしてあーちゃんはというと、大学受験のため一年浪人して、僕と同じように地方の大学に進学した。でも僕みたいに進学先で就職したりせず、卒業後はすぐ故郷に戻ったみたいだ。理由は言うまでもなく、勇ちゃんがこっちに居たから。その後、勇ちゃんの仕事の都合で、今は二人とも隣の県に移り住んでいる。二人が結婚したのは、ちょうどその頃だ。
 高校三年のあの夜がなければ、もしかすると二人は結婚していなかったかもしれない。もしそうなら、僕たち三人の仲はあのまま消滅していただろう。そんな想像をするたび僕は今でもぞっとしてしまうのだが、同時に自分が果たした役割の大きさを誇らしくも思う。
 あの年の夏休み直前、花火を十日後に控えた夜に、あーちゃんは突然メッセージをよこした。用件は、三人で花火を観ようという誘いだった。そして彼女はメッセージの最後に、僕に頼み事を託した。その頼み事とは、勇ちゃんの気持ちをそれとなく訊いてほしい、というものだった。
 頼まれた僕がどんな心境だったかは、わざわざ説明する必要なんてないだろう。あーちゃんが好きなのはやっぱり勇ちゃんで、僕のことなんてはなから眼中になかった。そのことを知ってしまうだけならまだしも、この僕に勇ちゃんの気持ちを訊けと言う。もはや拷問だ。だから僕は、あーちゃんにこう返した。花火当日に直接訊くから、あーちゃんは遅れるふりをして、陰で僕と勇ちゃんの会話を聞いていてほしい、と。
 僕を間者として放ち、勇ちゃんを騙した。あーちゃんは今でもそう思っているだろう。でも真実は違う。本当に騙したのは僕で、二人は今もなお、僕に騙されたことに気づいていない。
 あの夜、僕には始めから勝ち目なんてなかった。十日前、すでにあーちゃんの気持ちを知ってしまっていたし、勇ちゃんの本心だって僕の目には透け透けのガラス同然だった。でも、この二人は放っておいても完全にくっつくことはない。まるで素粒子物理学における電荷が同じ粒子のように、近づいてもすぐに反発しあってしまう。必要なのは、反発しようとする電磁気力よりも強い相互作用。つまり、強い力を媒介するグルーオンだ。
 だから僕は、二人にとってのグルーオンとなった。僕たち三人で構成された原子核がバラバラに壊れてしまわないための、決して切れない絆としての存在。そのために僕は、無駄だと知りながら自分の正直な思いを二人にぶつけた。僕が必死に本心を打ち明けたのだから、さすがの二人も素直にならざるを得ない。それがどんな化学反応を起こしたかは、のちに仲の良い夫婦となった二人を見れば一目瞭然だ。
 ただ、あーちゃんを諦めてもう十年も経つというのに、僕は未だに独り身だ。あーちゃんという太陽は、僕にはあまりにも眩しすぎた。だから僕の胸中では、今も君の笑顔が光り輝いているし、君への思いは胸の底にずしりと溜まったままだ。あーちゃんは、E=mc²という等式を知っているかな。この等式を簡単に説明すると、質量とエネルギーは等価であり、ほんのわずかな物質にも膨大なエネルギーが秘められているってこと。
 つまり僕は、君への膨大な思いを今も質量として保存し続けているんだ。この質量をすべてエネルギーに変換し尽くすには、まだまだ時間がかかりそうだよ。だから今の僕の太陽は、あーちゃんではなく、うちの店のお天道最中ってことにしてる。こいつに胸の中のエネルギーをありったけ注ぎ込んで、いつか胸の底の重みがなくなったら、そのときは僕も他の誰かを好きになれるんじゃないかな。
 僕はつくづく、あーちゃんを騙してばかりだな。さっきのメッセージも本当は返信してあげたいんだけど、僕は二人が思っているほどお人好しじゃないからね。今日の仕事を終えた僕が、どんな予定を立てていると思う? 二人がそれを知ったら、一体どんな顔をするだろう。
 君たちが泊まるのは、いつもの宮本楼だろう? 実は僕も今夜、宮本楼に部屋を取ってあるんだ。今夜はあの頃みたいに花火を観て、その後みんなでたっぷり馬鹿話をしよう。そういえば、あーちゃんたちには小さい子もいるんだったね。だったら子供たちが夜中に怖がらないよう、とっておきの話を披露するよ。
 なんとフナムシの最大の天敵は、鳥や魚じゃないんだ。フナムシが最も恐れるその生物の名は、宮本勇輝。そう君たちのお父さんだ。お父さんは小さい頃ね、お母さんが安心して寝られるように、この宿に入って来たフナムシを一晩中、一人で退治し続けたんだ。それくらいお父さんは、小さい頃からお母さんのことが大好きなんだよ。

(了)

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