見出し画像

【短編小説】牡鹿になりたい恵みの牝鹿

【あらすじ】
 深夜、康生に電話をかけてきたのは、三年前に知り合った関達也という若い男だった。達也はすっかり酔っており、康生に執拗に絡み続ける。やがて康生は、彼の意図を察して真実を語る覚悟を決めた。
 達也が知りたいこと。それは三年前、康生と共に夏山で遭難した際に経験した、ある出来事の詳細だった。死の恐怖に怯えながらも、登山に慣れている康生の判断により無事に生還を果たした二人。しかし三年経った今、達也の胸には、生還に関するある疑念が芽吹いていた。
 遭難時、飢えと渇きにとことん苦しめられ、極限状態に追い込まれた二人が、三年後の深夜、再び生死を分ける極限状態に追い込まれる。


 寝酒の心地好い気怠さを抱いてベッドに潜り込んだ矢先、枕元の携帯電話が鳴った。人のまどろみに横槍を入れるとは、なんて無粋なやつだろう。康生こうせいは自宅の寝室で、誰に聞かせるでもなく舌打ちを響かせた。確かに彼は人一倍丈夫な身体を持っているが、睡眠まで不要と思われるのは心外だ。
 鳴り止まない呼び出し音に辟易した康生は、ベッドから渋々腕を伸ばした。次の瞬間、彼はせっかくのほろ酔いを冷たく振りほどくことになった。電話をかけてきた相手があまりに意外な人物だったからだ。
「康生さん、こんばんは。久しぶりっすね」
「ああ。久しぶりだな、達也たつや君」
 関達也の口調は、すっかり酔っていて呂律がかなり怪しかった。彼の声を聞くのは三年振り。春に大学を卒業し、社会人になりたてだった当時と比べると、ずいぶん世間擦れしてしまった印象だ。
「こんな時間にすいません。でもあのとき康生さんは言いましたよね。話をしたくなったらいつでもかけてこいって。だからまさか、眠いから明日にしろ、なんて言ったりしませんよね。へへ」
 達也は康生より十も歳下だ。三年前、しばらく一緒に過ごしたときの彼は、最後まで律儀に敬語を使い続け、不躾な態度を取ったりすることもなかった。それなのに三年経った彼の横柄な雰囲気は、電話越しでもありありと伝わってくるほどだ。明らかに、康生が知っている誠実で落ち着きのある達也ではない。
「かなり酔っているみたいだな。大丈夫か?」
「なぁに言ってんすか。取引先と行ったレストランで、ワインを一本飲んだ程度ですよ。大丈夫に決まってるっしょ。それに、僕が今こうして生きているのは康生さんのおかげ。せっかく救ってもらった命ですから、酒なんかで体調を崩すわけにはいきません。二日酔いにでもなろうものなら、康生大明神様の天罰が下るってもんです」
「俺は何もしていない。達也君と俺を救ったのは山岳救助隊だ」
「でもあのとき、僕ひとりだったら絶対に生き残れませんでしたよ。だから今でもね、康生さんにはすごく感謝しているんです。もう、今すぐ死にたくなっちゃうくらい」
 達也が素面しらふではないことはわかっていたが、それでも息を呑まずにはいられなかった。どうやらこの乱れ様は酒だけが原因ではないようだ。まさかとは思うが、とうとう恐れていた日が来てしまったのだろうか。
 康生は大きく息を吸い込むと、ついさっき閉店したばかりの重い瞼を勢いよく跳ね上げた。
「死にたくなるくらい、とは穏やかじゃないな。俺だってあのときは必死だった。何も達也君を救うために頑張ったわけじゃない。自分が生き残るために無我夢中だっただけだ。だから感謝なんて必要ない」
 電話の向こうの不気味な沈黙が、じわじわと全身にのしかかってくる。康生はきつく眉を寄せ、汗で滑りそうになる携帯電話をきつく握りなおした。
 康生が迂闊に話を継いでしまったせいで、達也の記憶をより奥まで掘り起こしてしまったらしい。とにかく、これ以上あのときの話を続けるのは危険だ。ただでさえひどく悪酔いしているというのに、もし彼があのときの事実を隅々まで知ってしまえば、今以上に正気を失ってしまうことは目に見えている。
 ただそれでも、話をしたいという達也から逃げるわけにはいかなかった。康生は、あのとき起こった出来事のすべてを知る唯一の人間だ。そして達也には、そのすべてを知る権利と、彼だけに課せられた義務がある。
 彼が真実に近づきたいと欲するなら、康生は彼の欲求にとことん付き合わなければならない。義理や約束事だからではない。そういう宿命を負っているのだ。そして、康生と達也を結びつけているものは三年前に起こった山岳遭難事故だけ。達也が康生に電話をかけてきた理由は、その件以外にはありえない。
 堪えがたい静寂を先に破ったのは、達也の人懐こい失笑だった。
「──嫌だな康生さん。まだ何も話していないのに、そんな怖い声を出さないでくださいよ。康生さんにはこれから、僕の一大決心を聞いてもらわなきゃならない。ですから、キレるのはせめてそのあとにしてもらえませんか?」
「決心? 俺に聞かせたいことなんてあるのか?」
「ええ、康生さんにしか話せないことです。僕はね、決めました。今から死にます。こんなの堪えられない」
 この三年間、康生の心にずっと沈殿し続けていた懸念が、とうとう現実となってしまった。静かに目を閉じ、達也の言葉を腹の底で受け止める。衝撃的な言葉には違いなかったが、動揺はそれほどでもなかった。達也はいずれ辿り着くだろう。当初からそんな予感はしていた。それだけに、強烈ではあるが予想通りにぶつかってきてくれたおかげで、心の踏ん張りはきく。
「馬鹿な真似はやめろ。そんなことをしても周りの人たちが悲しむだけだ。それに……」
 一旦言葉を切った康生は、ともすると震えそうになる口元を決然と引き締めた。
「あの日、彼女の分も生きると誓っただろう?」
 康生の問いかけに対する達也の答えは、怒りにまかせた握り拳でも、春の訪れを諦めた吹雪でもなく、予想もしなかった暢気な笑い声だった。
「今さらそんなこと言います? 僕はもう、可笑しくてたまりませんよ。酔って電話をかけている自分も、康生さんの反応も、あの事故から今日までの空虚な三年間もね」
 なおも達也は、電話の向こうで自嘲的に笑っている。何がきっかけだったかはわからないが、三年前の壮絶な記憶が彼の脳裡に蘇ってしまっていることだけは間違いないようだ。ただ彼は、激情に流されて簡単に死を選ぶほど愚かではないはずだ。酔いが醒めて落ち着きを取り戻しさえすれば、普段の理性と判断力をもって己を律することができるようになるだろう。
 そんなことはわかっている。わかってはいるのだが、それでも冷たい汗が康生の首筋から引くことはなかった。なぜなら、今の彼を突き動かしているものがおぼろげな疑念ではなく、揺るぎようのない確信なら話は別だからだ。もしそうなら、もう誰も彼の錯乱を止めることはできないかもしれない。
「何が可笑しいのか俺にはわからんが、相当酔っているようだし、そろそろ頭を冷やしたらどうだ。いくらあの事故を振り返っても笑えるような話は何ひとつない。達也君より意識がはっきりしていた俺が言うんだ。間違いない」
 思わず携帯電話を耳から離した。達也の高笑いが耳の奥に突き刺さったからだ。
「康生さん、あんたよく言いますね。しかもそんなに澄ました声で!」
 電話から伝わってくる達也の気配は、自嘲も、苛立ちも、怒りも通り越して、もはや狂気さえ感じさせた。このままだと彼は本当に、過去に取り殺されてしまうかもしれない。
 今すぐ彼のもとに駆けつけて頭から水でもぶっかけてやりたいところだが、肝心の居場所がわからない。どこにいるのか訊ねたところで、興奮している彼が易々と居場所を教えるはずもなかった。
「わかった。どうやら改めてあの山奥の日々を振り返る必要がありそうだな。達也君は今、自宅にいるのか? パソコンが使える場所にいるのなら、君のメールアドレスを教えてくれ。今まで内緒にしていてすまなかったが、実はあそこで撮った動画があるんだ。まずはそれを見てくれないか? 話はそれからだ」
 やがて達也の笑い声は聞こえなくなった。あまり思い出したくはないだろうが、それはお互い様だった。康生にしても、達也と過ごした三年前の日々は二度と思い出したくない。あの日、目の前に突きつけられた正解のない選択肢。それは康生にとって、一生忘れることができない辛く悲しい光景だった。

    *

 三年前の夏、社会に出たばかりの達也は、初めての長期休暇を利用して登山を楽しんでいた。彼にとってこの年の登山は、それまで経験したどの登山より気分が良く、見る景色はどれも彩りにあふれていて格別に見えた。彼はその夏の登山のパートナーとして、次の春に結婚を予定している婚約者を連れていた。それだけに、向かったのは学生時代にも登ったことがある慣れた山だったが、彼は初めて挑む山を前にしたときのように終始浮かれていた。
 婚約者である由那ゆなとの出会いは、達也が通っていた高校の教室だった。同級生の二人は三年生のとき同じクラスになり、同時期に学級委員を務めたことがきっかけで仲良くなった。ただ、惹かれ合う二人が本格的に付き合い始めたのは、高校卒業後、それぞれが別の大学に進学してからだった。高校三年生だった二人は大学受験を間近に控えており、どうしても親交を深める時間を捻り出すことができなかったのだ。
 当時、由那の友人たちは揃って達也との交際を反対していた。達也が遠く離れた大都市の大学に進学してしまったからだ。地元に残った由那は間違いなく達也に忘れ去られる。遠距離恋愛なんて絶対に続かない。悪いことは言わないから、悲しい思いをする前に身近なところで新しい恋を育みなさい。そのほうがずっと現実的で、由那のためにもなるんだから。それが周りの者たちの大方の意見だった。
 しかし由那と達也は大方の予想を大いに裏切り、相手を諦めてしまったり、蔑ろにしたりすることはまったくなかった。普段はメッセージアプリなどで頻繁に連絡を取り合い、長期休暇になると達也は真っ先に帰省して、休みのほとんどを由那との時間にてた。
 慕い合う二人の熱量を前に、周りの者たちは次第に次の恋の話をしなくなり、代わりに二人の恋を温かく見守るようになった。それほど達也と由那の交際は、誰もが憧れ、祝福せずにはいられない純粋さに満ちていた。二人が大学を卒業する頃には、達也と由那の結婚を疑う者など一人もいなくなっていた。
 二人にとって三年前の登山は、独身最後の婚前旅行という特別な意味を持ったイベントだった。強く引き合う磁石同士も、互いの距離が磁力以上に離れてしまえばくっつくことができない。離れて暮らしていた間、二人は距離に負けじと磁力を高め合ってきたことだろう。大学卒業と同時に距離がなくなり、強力な磁力でくっつき合うことが叶ったこの時期、二人は二度と離れるまいと存分に相手を引きつけあっていたに違いない。
 登山とは言っても、達也の登山経験は遊びに毛が生えた程度で、由那に至っては山歩きの経験はほとんどなかった。それでも達也に不安はなかった。登山はあくまでついでであり、旅行の主な目的は山の麓にある豪華な温泉旅館だったからだ。二人は整備された初心者用のハイキングコースを、腹ごなし程度に登る予定だった。しかし、運命とは皮肉なものだ。婚約者との思い出をより豊かにしたい。そんな誰もが願うであろう素朴な欲求が、二人の長閑で幸福な休暇を激変させてしまった。
 昼過ぎに下山を始めた二人は、ハイキングコースを真っ直ぐ下りるルートを変更し、やや険しい西側ルートに踏み込んだ。そちらへ足を伸ばすと、ハイキングコースにはない絶景や美しい沢、荘厳な滝を拝むことができる。この山に数回登ったことがある達也は、どうしても由那にその景色を見せてやりたくなったのだ。
 誤算は由那の体力だった。山歩きに慣れていない彼女の歩速は、西側ルートに入ると目に見えて落ち始めた。登山をしていて辛く感じることが多いのは登りだが、実は身体の負担が大きいのは下りのほうだ。
 下山時は足を前に繰り出すだけで進むことができるので、思いのほか速度が出てしまう。速すぎるペースを制御するためには、ブレーキとして働く筋力が必要だ。疲れてくると、膝が笑う、という状態になることがある。あれはブレーキに使う大腿四頭筋が疲労したときに起こる症状だ。
 由那は下山に適した姿勢や歩き方を知らず、また今回の登山にそういった技術が必要になる予定もなかった。それはそうだろう。本来なら、なだらかで足元がきちんと整備されているハイキングコースを下る予定だったのだから。すぐにルートを再修正すれば問題は起こらなかっただろう。しかし達也は、歩くペースが落ちても引き返そうとは思わなかった。歩速を彼女のペースにまで落としても、日没までに西側ルートで下山できると踏んだのだ。どうしても見せたい景色があったとはいえ、これはかなり甘い判断と言わざるを得ない。
 西側ルートの見どころをすべて巡り終えたとき、彼の胸に湧いたのは満足感でも達成感でもなかった。悪寒だ。日没がすぐそこまで迫り、思いのほか辺りが暗くなっている。ただでさえ周りは、どこまで行っても同じような風景ばかりだ。その上、どちらを向いても斜面や木々ばかりで見通しもひどく悪い。少しでも気を抜けば、あっという間に方向感覚を失ってしまうだろう。
 それに足元も不安だった。昼間以上に注意深く歩を進めなければ、ちょっとした出っ張りでつまづいたり、折り重なった落ち葉を踏んで滑ったり、知らないうちに道無き道へと迷い込んだりしかねない。夕方までに下山するハイキングのつもりだっただけに、二人は明かりや緊急時の装備などもまったく用意していなかった。
 完全に日が暮れてしまうと、山は一歩先も見えないほどの闇に閉ざされてしまう。達也が焦るのも当然だった。もちろんその焦りは、一緒に歩いている由那にもひしひしと伝わっていただろう。二人は自然と早足になり、さっき見た絶景の感動も忘れて黙々と麓を目指した。多少は山歩きに慣れている達也と、ほとんど山に入ったことがない由那。前を歩く達也は次第に後ろを振り返る余裕を失っていき、二人の間隔は少しずつ開いていった。
 そして悲劇は起きた。突然の悲鳴にはっとして振り向くと、ついて来ているはずの由那がいない。ひどい疲労に加え、足元が暗くなったせいで、山道を踏み外して斜面に転落したのだ。柔らかい土で覆われた六十度ほどのきつい斜面は、一度勢いがついてしまうと簡単には踏ん張ることができない。足の筋力をすっかり使い果たしていた由那が、余力のある男性でも踏み止まることが難しい傾斜に抗えるはずがなかった。由那が斜面を滑り落ちていく音が、泡を食うばかりの達也を置いて凄まじい速さで遠ざかっていく。
「由那!」
 彼女が消えていった斜面に身を乗り出すと、いきなり何者かに腕を引っ張られた。
「よせ、そんな勢いで飛び出すとお前もああなるぞ」
 振り返った達也の目に、無精髭を生やした三十代前半くらいの男が立っている。達也の腕を摑んだのはこの男のようだ。
「離せ! 早く追いかけないと!」
 達也が裏返りそうな声で怒鳴っても、男はがっしりとした腕で達也の手首を摑んだまま離そうとしない。
「装備はあるのか? そんな軽装で追っても遭難者が一人増えるだけだ」
「だったらどうしろと? このまま放っておけないだろ!」
 男は噛みつかんばかりの達也に鋭い視線を向けると、達也の目を凝視したまま言い聞かせるようにかぶりを振った。
「下山して救助を呼ぶ。ここらの地形はかなり厄介だが、運が良ければ四、五日で救助できるはずだ」
「四、五日──。そんなに待っていられるか! 僕は行く!」
 目を吊り上げた達也が、男の手を強引に振りほどく。すかさず男は、どすの利いた野太い声を張り上げた。
「やめろ! ここの斜面は下に行くほど大きく抉れている。落ちたら最後、反り返った崖の下に真っ逆さまだぞ。本格的な装備が揃っていたってそう簡単には登れねえ」
 男は再び達也に摑みかかった。達也はまるで歯医者を怖がる幼児のように、必死になって暴れ狂った。
「そんな話、信用できるか! それに、もしそれが本当なら由那は……」
「打ち所が悪ければ最悪の結果もあり得る。だがな、人間はそう簡単に死にはしない。即死じゃなければ、あとは救助の早さ次第だ。わかったら、とっとと下山して助けを呼べ!」
「うるさい! 見ず知らずのお前に何がわかる。由那を置いて行けるか!」
 二人は激しい揉み合いになった。よろけた達也の片足が、山道の脆い縁を踏み抜いてがくりと斜面に落ちる。バランスを崩してその場に倒れこんだ達也は、咄嗟に男の足を摑んだ。不意に足元をすくわれた男はたちまち平衡を絡め取られ、機敏に膝をついて踏ん張りはしたものの、二人はそのまま声を上げる余裕もなく連なって斜面を転げ落ちた。

 達也が少しだけ瞼を開けると、辺りは怖いくらいの闇と静寂に塗り潰されていた。全身の感覚がひどくおぼろげだ。すぐにでも起き上がって光を探したかったが、そもそも身体があるのかさえも判然とせず、とても動けそうにないと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
 夜陰の恐怖は都市部で育った達也にもある程度経験があったが、圧倒的な闇がこれほど背筋を凍らせるものだとは思わなかった。身体が自由にならない心細さと、夜の黒に踏み潰されているような息苦しさ。堪らず口元から細い呻き声が漏れた。
「意識が戻ったな。俺の声が聞こえるか? 聞こえているなら手の指を動かせ。どの指でもいい」
 男の声が後ろから聞こえる。そのことに気づいて初めて、達也は自分がうつぶせに倒れていることを知った。すべての意識を両手に集中し、少しずつ手の指を曲げていく。
「よし、お前は運がいい。出血はしていないようだ。少しずつ身体を裏返すぞ。痛くて無理そうだったら、今やったみたいに指で伝えろ。いいな?」
 返事ができる状況ではなかった。痛みと痺れを煮詰めたような苦痛が、全身を隈なく覆い尽くしている。心もひどく震えていた。もし声が出るほどの気力が残っていれば、喉がれるまで大声を張り上げていたかもしれない。
 応答らしきものがなかったからか、それとも達也の狂おしい精神状態を察したのか。男は結局、達也の身体を動かそうとはしなかった。その代わり、達也の頭の近くに腰を下ろして顔を覗き込んでいるようだ。
「おい、今は何も考えるな。この状況でもっとも避けなければならないことは何だと思う? 我を失うことだ。お前は怪我をしているようだが、見たところ命に別状はない。必ず助かるから安心しろ。まずは落ち着くんだ」
 男の言葉を聞いた途端、瞼が熱くなってぼろぼろと涙がこぼれた。我ながら意外な反応に驚かずにはいられない。
 ひとしきり涙の意味を探って、達也はようやく悟った。自分は今、とてつもない恐怖に打ち震えている。そして自分が転落に巻き込んでしまった見知らぬ男の言葉に、心底勇気づけられている。
「俺が辺りを見張っているから、お前は気にせず休め。ここでは寝るのも重要な仕事の一つだ。余計なことは考えるな。今後のことは夜が明けてからゆっくり考えればいい」
 そう言って男は、ぽつりぽつりと自分の話を始めた。達也の不安を少しでも紛らわすためか、もしくは彼自身も何かに没頭していなければ、圧倒的な闇の恐怖に蝕まれてしまいそうだったのかもしれない。
 男の名前は内川康生。三十二歳の会社員で、この山には一人で来たらしい。登山が趣味で、月に二回はどこかの山に登っているらしく、その日は達也たちの復路と同じ西側ルートを辿っていたという。夏山特有の開放感につい長居をしてしまい、早足で麓に向かっていたところ、女性の悲鳴を聞いて達也のもとに駆けつけたそうだ。その後の顛末は言うまでもない。
 康生の話し声に安心したのか、達也はいつの間にか眠りに落ちていた。ただ、寝たとはいっても全身に苦痛を感じながらの、ごく浅いまどろみだ。しかしたとえ浅くても、不安と恐怖に怯えながら孤独に夜を明かすのとは雲泥の差だ。空が白み始め、遠くからひぐらしの鳴き声が聞こえてきたとき、康生は達也の傍らに座り込んで遠くの空を眺めていた。まんじりともせず、一晩中達也に寄り添っていたらしい。
 朝になり、辺りの景色が目に映るようになってくると、早朝の清々しい空気はたちまち淀み、達也の胸をひどく重くした。木々に囲まれた湿っぽい地面、鮮やかな緑の苔がびっしりと生えた岩場。そして草や低木が鬱蒼と生い茂った、とても登る気になどなれない絶望的な急斜面。こんな山肌を勢いよく転がり落ちてきたと思うと、今さらながらぞっとせずにはいられなかった。
 達也と康生は完全に遭難していた。達也の身体はまだ痛むが、一晩休んだおかげで何とか身を起こせるくらいにまでは回復している。ただそれでも気分は果てしなく重かった。一番の原因は右足の強い痛みだ。康生の見立てによると、折れてはいないが骨にヒビが入っているかもしれないらしい。脛の外側が大きく腫れていて、自力では一歩たりとも歩けそうにない。この足で険しい獣道を迷いながら下山など、とてもじゃないが遣りおおせるとは思えなかった。
「見ての通り、俺たちがいたのはこの急斜面のずっと上だ。俺は幸い軽い怪我で済んだが、さすがに何の装備もなしでこの斜面を登ることはできない。当然携帯も繋がらないし、助かるには少々運が必要なようだ」
 康生はそう言うと、やれやれとでも言わんばかりに首をすくめてみせた。ただ、達也にはその言葉が半分も耳に届いていなかった。
「由那、由那はどこに……」
「先に落ちた彼女か。落ちた方向が俺たちとは違うようだな。だが、それほど大きくはれていないだろう。あとで俺が探しに行く。君は……」
「関です。関達也」
「達也君は怪我を悪化させないよう、なるべくここで休んでいてくれ」
「──わかりました。あの、何だかすいません」
 康生は返事を声に出さず、静かに頷くだけで会話を終わらせた。遭難事故に巻き込んでしまった責任を感じている達也の、いたたまれない気持ちを汲み取ってくれたのだろう。
 達也も康生も日帰りのつもりで登山に来たため、本格的な装備は持っていない。ただ、ちょっとした雨具や上着、おやつ程度の食料しかリュックに入っていない達也に比べ、康生のリュックにはヘッドライトやナイフ、エマージェンシーシート、湯を沸かす程度の調理器具などが入っていた。
 自力で下山できない以上、ここで救助を待つしかない。戻らないことを心配した旅館の者が捜索願を出し、この山奥に救助が辿り着くまでどのくらいの日数がかかるだろう。康生が落ちる前に言った通り、四、五日か。それとも十日、二十日、それ以上か──。いずれにしても、遭難者ができる唯一の努力は救助が来るまで生き延びることだけだ。
「まず必要なのは飲み水だ。俺は近くに沢がないか探す。この辺りはかなり湿気が強いから、多分すぐに見つかるだろう」
「沢があるということは、水が流れているんですよね」
 康生は、達也が呟いた当たり前の問いかけに訝しげな視線を向けた。ゆっくりと上半身を起こした達也が、痛みに顔を歪めながらも得意げに続ける。
「何も急斜面を登らなくても、沢を下れば麓に出られるんじゃないですか?」
 それを聞いた康生は相変わらず浮かない顔をしている。とても妙案に希望を感じているようには見えない。
「そんな気がするのも無理ないな」
 康生は険しい目をして、自分たちが落ちてきた斜面を見上げた。
「沢を下れば、確かに君が言う通り麓に近づく。理屈は間違っていない」
「それなら僕を残してすぐに沢を下ってください。そのほうが確実に救助が早くなる。心配いりません。こんな有様ですけど、二、三日くらいなら一人でも大丈夫です」
「駄目だ」
 康生は達也に向き直ることなく、じっと斜面を睨み続けている。
「沢を下るとほぼ確実に、俺たちが滑り落ちたこの斜面のような難所が立ちはだかる。ただ、昨日みたいに事故で落ちるわけではなく、時間をかけて慎重に下れば怪我をすることはないだろう」
「だったらどうして駄目なんです? 慎重に下れば無事に下山できるんでしょう?」
「そうやって無事に下っていったとしよう。だが、一見穏やかな沢の成れの果ては何だと思う? 高低差の激しい滝だ。そこに待っているのは斜面ではなく、正真正銘の切り立った断崖。特別な装備でもない限り下ることはできない。そして引き返そうにも、そこまで下ってきた道のりは……」
 康生の人差し指が、目の前の斜面をぴたりと指した。
「こういった、辛うじて下ることはできるが、とても登ることはできない斜面だ。つまり、沢を下ると必ず立ち往生になる。滝の傍は極めて危険な場所だけに、一度入り込んでしまうと救助も期待できない。そうなるくらいなら、多少は開けているここでじっと救助を待つほうが安全で、しかも無駄な体力を使わずに済む」
 康生の言ったことは事実だろう。命の危険に晒されているのは、達也も彼も同じだ。現実的な下山の術があるのなら、達也に言われるまでもなくすでに実行に移しているだろう。やはり彼の言う通り、今はここでおとなしくしているしかなさそうだ。

 いくら山奥で涼しいとは言っても、季節は真夏だ。水筒の水は一日で尽きた。遭難三日目に康生が小さな沢を発見したので、当面の飲み水は心配ない。ただ、綺麗な沢とはいっても生水を飲むのは危険だ。万が一、下痢でも起こそうものなら、あっという間に衰弱して死の危険に晒されてしまう。
 康生が持ってきた小さなクッカーとバーナーが、二人の命を永らえさせた。それで沢の水を煮沸すれば、水あたりの危険は相当回避できる。だが、バーナーの燃料は無限ではない。飲み水を必要最小限に抑えればしばらく保つとはいえ、それまでに救助が来なければ二人とも確実に干上がってしまう。
 喉の渇きは、どうしようもない苛立ちとなって二人を苦しめた。そのうち頭痛やだるさ、時には手足の痺れを感じるようになり、日を追うごとに何も考えられなくなっていった。それでも身体が動けば多少は気が紛れるのだろうが、絶食のためそれも叶わない。食料と言えるほど食べ物を持っていない二人は、遭難からほんの五日ほどで飲料水を作るのもやっとの状態になってしまった。
「──そうだ、康生さん。火があるんだから狼煙のろしを上げましょうよ。山から煙が上がれば、捜索隊もすぐに気がつくんじゃないですか?」
「捜索隊が神様ならな」
 康生は、にべもなく達也の案を受け流した。これには達也も納得がいかない。やりきれない渇きと空腹が、余計に達也の気持ちを逆撫でした。
「どういう意味です? このままだと、そう長くはもちませんよ。多少水があったって、いつ蛇に噛まれたり、毒虫に刺されたり、肉食動物に襲われたりするかわからないんです。神にでも何でも、すがれるものにはすがるしかないでしょう」
 体力温存のため、手頃な石を枕にして横になっていた康生は、のそりと身を起こして小さく溜め息をついた。
「いいか、煙は遠くの人間の目にはほとんどとまらない。見つけてもらうなら、煙なんかより光るもの。そして目立つ色だ。発炎筒や照明弾のようなオレンジ色なら、遠くからでも発見してもらえる可能性はあるだろう」
「でも、狼煙だってやらないよりはマシでしょう?」
「狼煙の煙が視認できる範囲はどのくらいだと思う? しかも山には、絶えず風が吹いている。煙なんてあっという間に風に溶けちまうんだ。どんなに上手く煙を上げられたとしても、見つけてもらえる可能性があるのはせいぜい半径一キロ圏内だろうな。まあ、運良く探索ヘリが近くを通るか、もしくは神様が天から山を捜索しているっていうなら話は別だが」
 そう言うと、康生は皮肉っぽく口角を上げた。これ以上この話を続ける気はないらしい。達也は、康生の無気力な姿勢がどうしても許せなかった。
「だったら、よく見えるようにたくさん煙を上げればいい。ありったけの枯葉や枯れ枝を集めて……」
「やめとけ」
 康生は目も合わせず、達也の提案を遮った。先ほどまでとは違って、彼の言葉には叱りつけるような厳しさがあった。どうやら康生は、達也が勝手に行動を起こすことを恐れているようだ。
「いいか、地図上だとここから麓までおよそ三キロってところだろう。三キロ先からも見える煙を上げるのに、どのくらいの燃料が必要か想像してみろ。燃料集めだけで半月はかかっちまうぞ。しかもだ」
 さらに目元をきつくした康生は、横目で達也を睨みつけながら続けた。
「火は大きくなればなるほど、俺たちの手には負えなくなってしまう。今は夏だからな。辺りの木々に燃え広がって山火事でも起こそうものなら、俺たちはあっという間にお陀仏だぶつだ。火に焼かれるより早く、酸欠か一酸化炭素中毒でぶっ倒れるだろうよ」
 康生の話が脅しでないことは、彼の真剣な眼差しが厳然と物語っていた。ここまで言われてしまうと、達也もさすがに口を閉じるしかなかった。やはり生きて山から下りるには、忍耐強く助けを待つ以外に方法はないようだ。

 達也の足の具合は依然として芳しくなく、一週間経っても立つことすら難しかった。康生は一日置きに、沢に水を調達しに行く。出かける際は、獣を狩るためにアウトドア用のシースナイフを携帯していたが、残念ながら獲物を持って帰ったことは一度もなかった。たとえ体調が万全でもナイフのみで野生動物を狩るのは至難の業だというのに、今は空腹と脱水で走ることさえままならないのだから、すばしこい野生動物相手の狩りなど成功するはずがなかった。
 二週間経っても救助は現れなかった。達也は、捜索隊が本当に自分たちを探しているのか不安で仕方がなかった。康生はいつも一人でふらりと山に出かけるので、今回も行き先は誰にも伝えていないという。捜索隊が、康生の線からここに辿り着く可能性はまずないようだ。
 達也と由那は家族に旅行先を伝えているし、しかも麓の温泉宿に連泊中だった。出かけた宿泊客が帰ってこないとなれば、真っ先に遭難を疑われるに違いない。そう高をくくっていたが、よくよく考えてみると他の可能性も大いにあることに気がついた。宿にはハイキングに行くとしか伝えていないし、初心者用のハイキングコースは子供や高齢者でも登れるほどきれいに整備されている。遭難などするはずがない。もしかすると達也と由那は、失踪か、もしくは事件の線で捜査されているのかもしれなかった。
 達也は日に日に薄れていく意識を懸命に奮い立たせ、虚しく過ぎていく時間のほとんどを由那への謝罪と愛惜あいせきに費やした。
 才色兼備で、明るく気立てのいい彼女の評判は、高校入学から一週間も経たないうちに全校生徒に知れ渡った。由那と付き合っていた三年生の一年間は、同級生の羨望の眼差しがとても痛かった。だがその痛みも、彼女の笑顔を前にするとすぐに吹き飛んだ。彼女は人の不安や痛みに敏感で、母性本能も強いほうだ。とすると、いつも達也を元気づけていたあの笑顔は、自分のせいで同級生に冷やかされていた達也への申し訳なさから出たものだったのかもしれない。
 大学進学と同時に離れ離れになったが、達也と由那には共通の趣味があり、そのことが遠く離れる二人の間を取り持つ大きな助けになった。
 二人の趣味は写真を撮ることだった。達也と由那は、印象的な風景や静物を撮ったり観たりするのが好きで、暇さえあれば相手の作品を観賞し、そのあとあれこれと感想を言い合うのが何よりの楽しみだった。お互い、携帯電話や一眼レフカメラで頻繁に作品を撮って送り合う。そのことは遠く離れている二人にとって、どんな言葉よりも濃密でかけがえのないコミュニケーションとなっていった。
 二人は大学時代の長期休暇にも、よく撮影旅行に出かけた。旅行先で撮った同じ場所の写真でも、互いのものを並べてみると印象がまったく違う。そのたびに達也は、自分には無い視点と感性を持つ目の前の恋人に感動と尊敬を覚えずにはいられなかった。
「康生さん、どうでした?」
 水筒に水を汲んで戻って来た康生に、いつもの苦い質問を絞り出す。康生は黙って視線を落とすと力なくかぶりを振った。もう何度も見た光景だけに溜め息も出ない。
 康生は水汲みのついでに、食料と由那の行方を探している。体力が充分でないためそれほど遠くまでは足を延ばせないが、それでも達也たちがいる辺りはあらかた捜索を終えていた。
 もし由那が無事に生還していれば、達也を探すためすぐに付近の捜索が行われるはずだ。未だに合流できず、麓からの救助も来ないということは、由那はまだこの山のどこかにいるか、考えたくはないがすでにこの世にいないのかもしれない。もし康生がいなければ、今頃達也も脱水と空腹で干からびていたことだろう。二週間経った今、大した装備もない由那が単身生き延びているとは到底思えなかった。

 彼らの遭難生活に大きな変化が訪れたのは、バーナーの燃料が尽きかけていた三週間目の週末だった。覚束ない足取りで水の調達に向かった康生が、自分の上着を大事そうに抱えて戻って来た。
 康生のたくましかった顔つきはすっかり瘦せこけてどす黒く曇り、生気のない表情とは対照的に両目だけはぎょろぎょろと不気味に動いている。ただ、その日の彼からはいつもにも増してひどい疲労のほかに、わずかながら活気のようなものが感じられた。いつになく憤っているようでもあり、必死に興奮を抑えようとしているようでもある。
「達也君。俺はもう一度、沢に飲み水を汲みに行ってくる。だから君は、この水を一番大きな容器に入れて沸かしておいてくれないか」
「わかりました。あの、その手に持っているのは?」
 小さく頷いた康生は、何かを包んでいるように見える上着を地面に置き、中身を開いてみせた。痛いほど鮮やかな色彩に目がくらむ。上着で丁寧に包まれていたものは、いくつかに切り分けられた瑞々しい獣の肉だった。
「達也君もかなりやつれた。最近は声もあまり出ないようだし、水さえも喉を通らなくなってきただろう。このままだと俺たちは、あと一週間も保たない。だから今日は、いつもより遠くまで探索してみた。そうしたらな、沢の上流に鹿が倒れていたんだ。たぶん俺たちと同じように、斜面で足を滑らせたんだろう。足に大怪我を負っていて、もう助かる見込みはなかった」
 康生はかすれた声でそれだけ言うと、水筒の水を別の容器に移し、再び水筒を持って沢に向かってしまった。どことなく急いでいるようだったが、この状況では当然だろう。一刻も早く食物を腹に入れたいのは達也も同じだった。それに、そろそろ終わりかけとはいえ、季節は夏。もたついて新鮮な肉を腐らせてしまっては目も当てられない。その場に残された達也は、美しい赤身の肉に目を奪われながらも急いで湯を沸かし始めた。
 達也は鹿の肉を食べたことがない。癖があって食べにくいのではという彼の懸念はある程度的中し、口に入れた途端、独特の歯触りと臭みに胸が悪くなった。しかし、三週間の絶食という調味料の影響は凄まじく、癖が強く塩さえない茹でただけの肉も、二口目からはこれ以上ないご馳走となった。見た目以上に脂身を感じる部位だったため、弱った胃にはひどく重たく感じる。それでも極限まで追い詰められた状況での食の喜びはひとしおで、食べ辛さも消化器の鈍さも、血走った食欲があっさりとねじ伏せてくれた。
 胃がかなり小さくなっていたのだろう。一度の食事ではほんの数口しか食べることができず、二人は久し振りの食物を数回に分けて余さず胃の中に摂り込んだ。肉を焼かずに茹でたのは、茹で汁もすべて飲み干すためだ。次はいつ手に入るかわからない貴重な栄養分だけに、ひと雫たりとも無駄にするわけにはいかない。
 久々に腹が満たされた二人は、こんな状況だというのに気がつくと笑みを浮かべていた。死にかけていることに変わりはないのだが、人間とはどんな苦境に立たされていても、ほんのわずかな幸運に人生のすべてを肯定するほどの喜びを見出すことができる生き物らしい。
 よくよく考えてみると、それは大抵の人の人生そのもののようにも思えた。人の一生は押し並べて、幸福より苦労を感じている時間のほうが圧倒的に長い。だからこそ人の脳は、稀に訪れる幸運をとてつもない僥倖ぎょうこうのように誇張することで、惨めな自分を都合よくあざむくようにできているのかもしれない。
 そういった人間の本質、生への執着、たくましさや貪欲さをまざまざと突きつけられた達也は、これまでの半生を振り返らずにはいられなかった。生きるとは何か。人にとって幸福とは何なのか。世の中には裕福で恵まれている人間なんていくらでもいるが、彼らは今の自分ほど強烈に満たされたことがあるだろうか。達也は半ば確信していた。答えは否、これほど満たされた気持ちになった者はまずいないだろう。
 達也はこれまでに出会った、自分より偏差値の高い大学に入った者、有名企業に就職できた者、太い実家を持つ者たちの顔を次々に思い起こし、彼らを羨ましがった自分の馬鹿さ加減を痛感せずにはいられなかった。生きる上でもっとも肝心なこととは、高い地位や裕福さではなく、自分に与えられた幸せをしっかりと自覚し、精一杯で噛み締めることだ。
 他人と比べることでしか幸せを感じられないなんて、不幸以外の何物でもない。理想や願望が叶わないことが不幸? そんなものは人生において単なる平常運転であって、不幸どころか不運でさえない。不幸とは、己の幸せに鈍感であること。幸せの不感症こそが、この世でもっとも悲しむべき不幸と言えるのではないだろうか。
「康生さん。僕たち本当は、とても運がいいのかもしれませんね。何だか助かるような気がしてきました」
 達也の明るい声を聞いた康生は、一瞬だけはっとした顔をすると、遠くの空に目を遣って何度も小さく頷いた。
「ああ、実は朗報があってな。俺たちが飲んでいる沢の水は、少量ずつなら煮沸しなくても問題なさそうだ。バーナーの燃料が切れたら終わりと思っていたが、何とか希望は繋がった。俺たちの命を繋いでくれた鹿の命を無駄にしないためにも、絶対に生還しないとな」
 思いがけない糧を得たこの出来事は、身体だけでなく、極限に近かった二人の精神をも少なからず癒した。
 そんな二人の意気が通じたのか、それから一週間ほど経った遭難三十二日目。二人はようやく山岳救助隊に発見され、無事保護された。達也も康生もすっかり痩せ細ってはいたが、地元の新聞は憔悴しょうすいすることなく過酷な一か月を乗り切った二人の生還を奇跡だと書き立てた。
 マスコミは生還までの経緯を訊くため康生に群がったが、彼は詳細を語らず、誰に対しても大まかな説明に終始した。共に生き延びた達也からすれば、詳しく話せばもっと世間の関心を集めることができるにもかかわらず、そうしない康生はつくづく欲のない男だという印象だった。
 しかし、ほどなくして康生の思惑を察した達也は、一転して感謝の気持ちでいっぱいになった。達也と康生が救助されたあとも捜索は続けられたが、結局由那が発見されることはなかったからだ。そうなると、遭難の詳細を語れば語るほど彼女の不幸を蒸し返すことにもなる。達也たちの生還が話題になっている間、康生の口が最後まで重かったのは、達也の心の傷に塩を塗りたくないという思いがあったからなのだろう。

    *

 遭難現場で撮った動画の存在を知った達也は、よほど意外だったのかしばらく絶句していた。それでも電話を切ってしまわないところを見ると、会話を続ける意思はあるらしい。康生がそうであるように、彼にしてもあの夏の絶望を思い出すようなものは見たくないはずだ。しかしそれ以上に、自分が辿り着いてしまった疑念の真偽を確かめたい気持ちのほうが強いのだろう。
 達也がどうやって真実の糸口を摑んだのかはかわからない。だが糸口だけでは、真実まで辿り着くことは不可能だ。だからこそ彼は、こんな夜中にもかかわらず康生に電話をかけてきた。康生しか知り得ない事実を問い質し、あの夏の過酷で忌まわしい日々を総括し尽くすために。
 永遠とも思える沈黙の末、達也は細い震え声でメールアドレスを口にした。何かに怯えているようでもあり、沈黙の間、声を殺して泣いていたようにも感じられる。無理もない。今の達也は、真実を求めてあらゆる可能性を頭の中に思い描いている。当然、都合のいい可能性だけではなく、想像すらしたくない地獄も脳内で再現しているだろう。
 すぐにメールアドレスをメモした康生は、耳と肩で携帯電話を挟んだままノートパソコンを開き、長い間ディレクトリの最下層で眠っていたフォルダを開いた。このファイルが達也を救ってくれるならそれでいい。しかし、決して楽観はできない。下手をするとこの動画ファイルは、今の達也にとって逆効果になりかねないからだ。
 達也に動画ファイルを送ることは、康生にとっても危険な賭けだった。もしかすると動画を送らずこのまま白を切り通したほうが、達也は幸せになれるかもしれない。しかしその幸せは、彼にとって本当の幸せと言えるだろうか? そこに少しでも迷いがあり、真実が達也を幸福に導く可能性があるのなら、やはりどうにかしてやり切るしかなかった。それに、自死をほのめかす今の達也を止めることができるのは、あの夏のすべてを知っている康生とこの動画だけだ。
「教えてくれないか。どうして達也君は、今夜急に俺と話そうと思ったんだ。この三年間、一度も連絡なんて取り合っていないだろう」
「──レストラン、ですよ」
 康生は思わず歯を食いしばった。やはり達也は、あの夏の核心に足を踏み入れてしまっている。いざとなればファイルは送らず、口先三寸で言いくるめる選択肢も残していたが、こうなればもうとぼけてばかりもいられない。
「そうか。ということは、ちょっと変わった店に行ったんだな」
「ええ。取引先の人が、本当に美味いものを食わせてやるって言うんでね。有名なジビエ料理専門店に連れて行ってもらいました」
「残念だが、俺は達也君が求めている答えを持っていない」
「持っていない? 答える気がないの間違いでしょ? じゃあ、僕が言ってやりますよ。今夜、僕の目の前に野生の鹿肉料理が並べられた。三年前の夏を思い出してしまいそうで見るのも嫌だったけど、取引先の好意だから食べないわけにもいかない。僕は仕方なく、目を閉じて料理を口に放り込んだ」
 達也の声から、徐々に抑揚が失われていくのがわかった。すっかり凍えてしまった達也の胸が、話す言葉まで固く凍りつかせているかのようだ。
「脂質も臭みもほとんどなく、あっさりとしていて牛肉の赤身に近い味。野生の鹿の肉は、すぐに二口目が欲しくなってしまうほど旨味が詰まっていて美味しかった。三年前に食べた鹿肉とは比べ物にならないくらい……」
「仕方ないさ。あのときは遭難していたんだ。調理器具も調理法も限られていたし、何より調味料が一つもなかった」
「黙れ。僕が言っているのはそんな小手先の話じゃない。肉そのものの味わいが違ったんだ。食感も、匂いも、硬さや舌触りもすべて。こんなことは、いくら調理法や味つけを工夫したってあり得ない」
「──何が言いたい」
 ひと呼吸おいた電話口から、唾を呑み込む音が聞こえてくるようだった。次の一言を発するべきか否か。彼の苦々しい葛藤が、電話越しにもかかわらずびりびりと伝わってくる。
「遭難中に食べた肉は、鹿じゃない」
 予想通りの指摘だった。達也はこの一言を言いたいがために、夜更けにもかかわらず泥酔したまま電話をかけてきたのだ。確かに泥酔していなければ、この答えを口にすることはできなかっただろう。
「馬鹿言うな。鹿じゃなければ一体何だと言うんだ?」
 思った通り、達也は返答に窮している。それはそうだろう。たとえ確信を持っていたとしても、そう簡単に口にできるはずがない。
「今の僕は生きる資格なんてない。僕が無理にルートを変更していなければ、もっと注意深く足取りを気にかけていれば、あのときすぐに下山して救助を呼んでいれば……」
「達也君」
 康生は達也の語尾を遮って問いかけた。これ以上話を続けさせても、取り返しがつかなくなるまで自分を追い詰めてしまうだけだ。
「君は、俺を恨んでいるか?」
 しばらく逡巡しゅんじゅんしてくれるならと思ったが、康生の期待はあっさりと裏切られた。達也はまるで準備していたかのように、間を置かずぼそりと呟いた。
「どうしたら恨まずにいられるんです?」
 万事休す、だ。もはや達也は、康生の説得に耳を傾ける気などないらしい。となると、残された道はただ一つ。あとは達也の判断と精神力を信じるしかない。
「そうだな。だったらまず、俺への恨みを晴らしに来い。これから送るメールに俺の住所を書いておく。あと、これだけは忘れるな。住所と一緒に送る動画ファイルは、このあとすぐに俺のパソコンから削除する。俺の役目は終わったからな。今後、このファイルの持ち主は君だ。俺みたいに大切に保管するか、とっとと削除するかは君次第だ。頼んだぞ」
 住所を書き込んでエンターキーを叩くと、どっと肩の荷が下りたような気がした。もう後戻りはできない。あとは仕上げに、ちょっとした昔話を添えるだけだ。
「俺が達也君にできることは、残念ながらこれだけしかない。この件の決着は、君が好きにつけてくれ。ただ、最後に遺言と思って俺の話を聞いてくれないか?」
「──何ですか?」
「なあに、行き倒れ寸前の牝鹿を見つけた日の話だ。五分で終わる」
 携帯電話を握る手に力がこもった。やっと誰かにこの話をすることができる。ずっと心に押し込めてきた牝鹿の魂を、真実を知るべき男に届けてやることができる。
「あの日、俺は水を汲むついでに、かなり遠くまで足を延ばした。一日でも長く生き延びるために、新たな何かが必要だったからな。それまでは、沢の下流を探索することが多かった。たとえ緩やかでも登り坂は空腹にこたえる。自分のねぐらに帰るためなら坂を登ることができるが、当てもなく何かを探しに出かけるとなると、登る気力がなかなか湧かなかったんだ」
 電話の向こうが、いやに静かに感じられた。ひどく緊張した達也の顔が目に浮かぶ。この張り詰めた空気の中で、彼は一体何を考え、何を思い出しているのだろう。
「後ろ脚に大怪我を負った牝鹿は、俺たちのねぐらから十分ほど登った先の、沢のほとりに倒れていた。近づいてみると、身じろぎひとつしないが息はある。赤黒く固まった血痕の具合から、怪我を負ってから数週間は経っているようだった」
 康生はここまで話すと、急に声を詰まらせた。康生の脳裡に、あの日の光景がありありと蘇ってきたからだ。続けて、熱い嗚咽が喉に込み上げてくる。息を止めて必死に堪えていると、視界があっという間に涙に沈んでしまった。
 ここまできて、今さら取り繕ったところで何になる。康生は唇を噛み締めて嗚咽を乗り越えると、電話の向こうに聞こえることも気にせず思い切り鼻をすすった。
「次の瞬間、俺は思わず目を逸らした。牝鹿の右前脚が、あるはずのところに無かったんだ。右前脚の代わりにあったのは、凄惨な傷跡と鮮やかな血痕。しかも全身を覆っている表皮には、おびただしい数の引っかき傷が残っていた。俺は背筋の震えが止まらなくなったよ」
「引っかき傷? ということは、け、獣に襲われた──」
 達也の声が激しく震えている。彼が今感じているのは恐怖なのか、それとも後悔なのか。どちらにしても、ここまで来てしまったのだから引き返す道などない。ただ、もし引き返すことが許されるなら、どれほどありがたいだろう。
 康生にしても、好き好んでこの道を選んだわけではない。できることなら、今からでも三年前の発端に戻ってすべてをやり直したいくらいだ。
「あの傷はイノシシやサルじゃなかった。おそらくクマだ。クマはよほど切羽詰らない限り肉食はしない。それでも前脚を一本持っていかれたということは、襲われた際にかなり激しく抵抗したんだろう。俺たちがクマと遭遇しなかったのは、おそらく頻繁に火を焚いていたおかげだろうな」
 達也の荒い息遣いが聞こえる。痛ましい事実を知って、かなり興奮しているようだ。康生は、話の続きを飲み込まずにはいられなかった。このまま話を続けても大丈夫だろうか。ただでさえ参っている彼に鞭を打つようで、どうしてもやるせない気持ちになってしまう。だがやはり、ここで話を終わらせるわけにはいかないだろう。彼だってきっと、どんな結末であろうと最後まで聞く覚悟を固めているはずだ。
「牝鹿は大怪我を負いながらも、沢の水を飲んで何とか生き延びていた。さらに近づいて顔を覗き込むと、牝鹿は気配に気づいて気怠そうに俺を見上げた。俺は思わず、こう声をかけたよ。『大丈夫か? 今、達也君のところに連れて行ってやる』ってな。だが牝鹿は、今にも閉じてしまいそうな瞼を懸命に開いて、静かに首を振った。そしてそのあと、信じられないことが起こった。俺の耳に、牝鹿の声が聞こえてきたんだ」
「鹿の声、ですか──」
「ああ。牝鹿は達也君の状況を訊ねたあと、消え入りそうな声で確かにこう言った。『達也と一緒になりたい。お願い』とな。牝鹿は絶食と大怪我で、明らかに最期の時を迎えていた。遅かれ早かれ……」
「嘘だ! 都合のいい作り話をでっち上げるな。この人殺し!」
 康生は、まるで達也の言葉をゆっくりと飲み込むかのように、固く瞼を閉じた。あの瞬間の光景、感触、匂い、そして涙の味が、空腹と疲労で朦朧としていたにもかかわらず、あたかも昨日のことのように蘇ってくる。
 ではあのとき、どうすれば良かったというのか。瀕死の牝鹿が振り絞った、あの決然とした瞳の輝きを、すべて見なかったことにすれば良かった? 彼女の無念と、覚悟と、希望を、受け取りもせず目の前で踏みにじれば良かった?
「達也君、俺のメールが届いているだろう。そこに書かれたリンク先に、三十秒ほどの動画ファイルが上がっている。まずはそれをダウンロードしてくれ」
 電話の向こうから、微かにマウスのクリック音が聞こえた。これで、できることはすべてやり終えた。あとは動画を見た達也の判断に委ねるしかない。
「そういえばあんた、どうやって動画を撮った? 遭難中は携帯電話を持ち歩いていなかったはずだ」
 先ほどの怒声とは打って変わって、達也の声はすっかり潮垂れてしまっていた。知りたいことがほぼ明らかになったので、今は怒りより、新たな事実を受け止めることに精一杯のようだ。
「牝鹿の傍に落ちていたリュックから、一眼レフカメラのレンズが覗いていたんだ。リュックの落とし主は、写真が趣味だったんだろう。俺は咄嗟にカメラを拾い上げて構えた。生きている最期の瞬間を収めてやりたくなったんだ。牝鹿もそのことに気づいてくれたみたいでな。カメラに向かって一言、語りかけてくれたよ」
 これから達也が見る動画には、沢のほとりに横たわった牝鹿の最期の表情が映っている。
 レンズを向けられた彼女は、すっかり蒼白くなった顔で懸命に笑みを作った。どこにこれほどの水分が残っていたのか、彼女の両方の目尻から滔々と涙が溢れる。気がつくと康生の視界もゆらゆらと滲んでいて、次々に込み上げてくる嗚咽を堪えきれなくなった。
 やがて牝鹿は、レンズの向こうの大切な誰かに向かって幸せそうに微笑みながら、今にも消え入りそうな声で最期の言葉を絞り出した。

〝ただいま これからもずっと 一緒だね〟

(了)

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門