見出し画像

【難病】脊髄空洞症だった②

検査

2018年2月。

その日、私は白い部屋に鎮座した固い台の上で
仰向けになり天井を見つめていた。

やがて白い巨大なリング状の機材が
私の体を頭から飲み込んでいった。

私はMRIの中にいた。

顔から10センチほど上を覆う機材の表面には何の特徴もなく
目を開けても閉じていても情報量に大差はない。
耳栓をしているからなのか、やたらと自分の呼吸が気になって
私は静かに大きく息を吸った。

この頃には症状は悪化しており
「くしゃみをすると電流が脳に走る」ような感覚だけでなく
慢性的に「左の小指にしびれ」を感じるようになっていた。

症状をネットで検索すると
「てんかん」「多発性硬化症」「統合失調症」
というページがヒットした。

仕事柄、リサーチは得意なつもりだが
いずれも症状にフィットする内容ではなく
納得の行く記事を見つけることは出来なかった。

こうなったら徹底的に肉体を調べ上げようと腹をくくり
人間ドッグを脳ドッグ付きで申し込んだ。

死を思う

MRIの中、不規則なリズムと音程の機械音が鳴りはじめた。

想像以上に狭い空間で身動きの取れない私は
自分と向き合うことを余儀なくされた。

この症状は、もはやなにかの間違いではない。
きっとこの検査で何かしらの病気が判明するだろう。
もしかしたら死に至る病なのかもしれない。
しかし、私はそれが何であれ現実を受け入れて
立ち向かわなければならないのだ。

暗いイメージを持たれても困るので
あまり周囲に言わないようにしているが
私は基本的に常日頃から死を意識している。

そのきっかけとなったのは
20代の中頃に同窓会の幹事をしたこと時のこと。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病した同級生がいることを知った。
ALSとは次第に全身の筋肉が動かなくなる難病で
ホーキング博士が患っていた病気として知られていると思われる。

Aというその同級生は中学時代、エアガンの撃ち合いをした時に
何発撃たれても痛がる素振りなど見せずに
こっちに向かって歩いてくるような中学生だった。

まるでターミネーターのような姿をいまも鮮明に覚えている。

そんなAがALSの発覚後、自ら命を絶ったという情報が入った。

真相の確かめようがなかったが
その時、私はショックを受けると共に、
自分も死ぬのだということを痛感した。

この頃から、人生の選択において常に
後悔のない生き方を選ぶことにしている。
後悔とは、やらなかったことに対して抱く概念なので
やりたいとおもったことを先送りにすることをやめた。

Aの死の噂を聞いた数年後、
バックパッカーとして世界一周をした。
そして帰国後、何のつてもなかったが上京して
放送作家になった。

やりたいことはまだ沢山あったが
それをするために今やるべきことは
まずこの病の治療であることは明白だった。

音が鳴り止み、MRIが終わった。

あっけない告知

後日、自宅に人間ドッグの検査結果が送られてきた。
封筒を開けると、そこにはこんな言葉が書かれていた。

脳以外では第一頚椎レベル以下の脊髄中心管が拡大しています
(脊髄空洞症と呼ばれる所見です)
症状があるようなので脳神経外科を受診し
今後の取り扱いについて相談して下さい。

そして私は脊髄空洞症をスマホでググった。
難病に指定されていることを知った。

随分、あっけない告知だなと思った。

私は難病患者になった。

見つからない病院

すぐに東京の脳神経外科を
リストアップして順番に連絡をした。

通常は検査をした病院でそのまま診察を受けるものだが
私が人間ドッグを受けた施設は検査専門のクリニックだった。

感覚障害、温痛覚障害、しびれ、筋肉の痩せ、脳神経障害…

脊髄空洞症についてネットでググると
さまざまな症状が挙げられており
小指の先に感じているしびれが拡大し
やがて腕全体がしびれて無感覚になるところを想像した。

早く進行を止めなければ。
早く治療をしなければ。
早く医者に見てもらわなければ。

治療は希望だ。

名の知れた10件ほどの病院に電話をしたのだが
結果は散々だった。
どこも取り合ってくれなかったのだ。

脳神経外科に繋いでもらい病名を伝えると

「脊髄空洞症を診察できる医師がいない。」
「治療をするための設備がない。」

と言った理由で立て続けに断られてしまった。

「紹介状がないと受け付けられない。」とも言われたが
紹介状の意味がわからず、ないと答えると、
「では受け付けられません」と抑揚のない声で返答をされた。

とんでもない病気にかかったなと
絶望的な気分になった。

医者の幼馴染

このとき、私がもっとも頼りにしていたのは
幼馴染の医師Nだった。

Nは小学5年生の頃に転校してきて
学年が終わる頃にはまた転校していったので
一緒に過ごしたのは1年間にも満たないが
(いまとなっては微笑ましいが)文通を重ね
定期的に連絡をとったり、数年ごとに会う関係だった。

Nは九州で医師を務めており脳神経外科は専門外だったが
病院探しで困っていることを相談をすると
紹介状は人間ドッグを受けたクリニックで頼めば
書いてくれるというとアドバイスをくれた。

病院の受付に電話をした時、「紹介状」と言われて
私は医者とのコネクションを持つ富裕層だけが入手できる
証明書のようなものを勝手にイメージしていた。

調べれば分かるようなことだが
つい悲劇の主人公になりきって
冷静さを欠いていたことに反省した。

Nに教えて貰った通り
クリニックのアポを取り
紹介状を書いてもらった。

紹介先は聖路加国際病院にした。

地下鉄サリン事件での英断と奮闘をテーマとした
再現ドラマを担当番組で作ったことがあり
ここでの治療を決めた。

紹介状があることを告げると予約を取ることが出来たが
非常に混み合っていて、ようやく取れたのは3月末。

どれくらいのスピードで症状が進行するのか分からず
もちろん焦りはあったが
それでも診察が受けられる日程が決まったことで
ようやくスタートラインに立てた気持ちになれた。

【難病】脊髄空洞症だった③に続きます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?