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関係に癒される

今日は21時から大学時代の友人達と呑んだ。
その呑んだ続きで、いまnoteを書いている。

呑んだといっても全員が理学療法士であり、それぞれの医療機関で働いているので、会うことはできない。
なので、オンラインで呑んだ。

最後に集まって呑んだり語り合ったりしたのは、それこそコロナ禍になる直前だったと思う。
つまり約2年ぶりだったので、それなりに緊張した。ちゃんとうまく喋れるかな、前みたいに笑い合えるかなって。

けれど始まってしまえば、それは杞憂に終わった。
オンラインといえど、あっという間に大学時代の頃のノリに戻り、互いをいじり合ったりしてよく笑った。

会話の中身は、家のローンのこと、子供のこと、仕事のことなど…大学時代の頃とはやっぱり変わっていたけれど、通底している関係というのは全く変わっていなかった。

彼らとのオンライン飲み会を終えて思ったのは、やっぱり利害のない関係というのは良いもんだな、ということ。

職場の人間関係も決して悪くはないのだけれど、それでも自分が本来の自分らしく笑えているかというと、やっぱりそうではないと思う。

仕事というのは、どうしても互いの役割や互いの仕事の進捗によって支えられているから、1人1人に「どれだけ組織に貢献したか?」が問われる。
それは詰まるところ「お前に何ができるか?」を問われている事と同義であり、どんな面白い人間であっても組織に貢献できなければ淘汰される。

そういう能力主義な社会にあって、本来の自分を見せることはない。互いの良い部分だけを見せ合って、なんとか協力関係を築いている。

でも、別にそれは嫌ではない。やっぱり仕事は仕事だし、組織に「自分」を持ち込みすぎるのもどうかと思うからだ。(もちろん極力自分を出せる職場であることに越したことはないけれど)

同時にだからこそ、帰って来られる場所があるのは良いことだと思う。
僕で言えば、家族であったり、今日の大学の友人達であったり。
利害なんて気にせず、ありのままを表現できる場所。

僕はあんまり人付き合いが得意な方ではないし、むしろ人と付き合うと疲れる方だ。
それでもたまに友人達と飲みたいな、家族との時間を大切にしたいな、と自然と思うことがあった。

なんでそう思う時があるのだろう?
古い友人に会いたいとか、互いの近況を知りたいとか、それが理由なのだと思っていた。

だが違った。
きっと関係に癒されたかったのだ。
それが今日、はっきりと分かった。

RPGゲームなんかでよく「入るとHPが回復する泉」みたいなのがあるけど、そんな感じ。
その関係の中に入ると、日々の利害のコミュニケーションで削られた自分のなかの何かかが回復する感じ。

それを今日のオンライン飲み会ではっきりと感じた。

自分は人付き合いが苦手で、人との関係は疲れる。
そんな風に思ってたのに、アホなことを言って笑いあったり、いじったりいじられたりしていくうちに、日々のなか疲弊し削り取られた何かが癒され回復した感覚があった。

人付き合いが苦手だと思っていた自分が、まさか人との関係に癒されてただなんて。


ただし、癒しの関係を築けるチャンスは、僕の肌感ではそんなに多くない。
だからこそ、いまある癒しの関係を大切にしたいし、おじいちゃんになっても付き合える関係を築いていきたいと思う。

以上、酔っ払いの文章でした〜

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