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ピラティスの指導練習で学んだこと@下書き博物館

【下書き博物館】
注:以下の文章はおそらく2年ほど前に書いた下書きを掘り起こしたものです。

これは他愛もない話です。
自分にとっては別にそうでもないことでも、他の人にとっては有難いこともある、そういうお話。

実は今、ピラティスインストラクターなる資格を取るために猛勉強中です。
その資格を取得するためにはいくつか要件があるのですが、そのうちの一つに「指導練習」というものがあります。

これは、ピラティスをしたことがない一般の方(友人や知人が中心)にピラティスを指導・実践し、指導方法を習得するという修行のようなものです。

つまり、インストラクターでもなんでもないヘボヘボのピラティスを友人や知人に受けて頂くわけで、身体と時間を貸して頂く側としては、申し訳なさ1000%でやっているわけです。

でもでも、どうしたことか今のところそんなヘボピラティスであっても、受けてくれた方は喜んでくれます。めっちゃ。
そして、自ら「次もおねがい!」なんて言われちゃうわけなんです。

嬉しさが込み上げる反面、戸惑いもあります。
「えぇ!こんなニセモノピラティスを喜んでくれるのー⁉️」と。

しかし、そういう思いになるのは失礼だな、と思い至りました。だって、相手は僕を多少なりとも信頼して時間と身体を分けてくれてるわけですから。
そんな方々に、自称「ヘボピラティス」を提供するわけにはいきません。

指導練習は指導する私たち側の練習のためではあるのですが、時間と身体をわけてくれた相手に対して自分なりの精一杯をお返しする。
それで「ありがとう」のキャッチボールは成り立っているのです。

僕は理学療法士として病院に勤め始めたときから今も、治療を行なって、その対価としてお金を頂いています。でも、患者さんがお金を払う場面を見たことはありません。

自分は会社の歯車で、自分のやっていることがどのように社会に還元できているのかわからない。。それはとても危険なことだと思います。

今回、練習の名のもとにピラティスを提供するようになってから、「施し」と「お返し」の社会の原理原則が肌身で感じられました。


そして、この指導練習でもう一つ体感したことは自分にとっては申し訳なさや力不足を感じていても、誰かにとっては必要なことだったりする、ということです。

ありがとうの語源は「有り難い」だと言います。それはつまり、あなたにとっては普通のことでも、誰かにとっては難しいことだということです。

自分の能力に卑屈になりすぎず、または傲慢にもなりすぎず、自分のできる限りを相手に尽くすこと。
それが出来れば、自然と心と生活が満たされていく。

そんなことを実感できたエピソードになりました。
他愛話にお付き合いありがとうございました。(読んでくださる方がいることも僕にとっては有り難いことなのです)

それではっ!

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