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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 8

‐カリン-

 濡れた髪を拭って衣装を着替えると、少しだけ気持ちがしっかりした。
 身体はまだ冷えているが、建物の中は暖かい。執務室のある棟から二階の回廊を通って医局のある棟へと渡り、ツツジの部屋のある医務室へ辿り着くまでにはツツジと話す心の準備が整った。しかしカリンは、ユウガオへの報告を忘れていたことに気がつき、医務室の扉を通り過ぎて先に薬師室の扉を開けた。
「なんだお前か」
 受付に座りながら例の資料の訂正をしているのだろう。万が一にも医務室の医師に知られてはならないので、扉が開く度に気を張っているに違いない。ほっとした表情を見せたのも束の間、ユウガオはカリンを手招きして声を落とした。
「リリィ様に会ったか?」
「ああ、やはりこちらへもいらっしゃいましたか」
「そりゃあまあ凄い剣幕だった。悪いな……隠し通せなかった」
「いえ。ユウガオさんのせいではありません」
「で?」
「はい。確かにリリィ様にはお会いしましたが、すぐにツツジ様がいらっしゃいまして……」
「ああ。そうか、良かった」
「もしかして、ユウガオさんがツツジ様に知らせて下さったのですか?」
「そんなわけはないだろう。いや、少し考えはしたけどさ。俺はそんなにツツジ様と親しくないんだよ。どんな顔して伝えに行けばいいんだ? おそらくリリィ様はここの前に医務室へ行ったはずだ。そこで、朝から薬師室に行ったっきりだと聞いてここへ来たに違いない。ツツジ様はそれを聞いていらっしゃったのだろうよ」
「そうですか」
 カリンはツツジに呼ばれている旨を伝え、自分が任されたはずの仕事をユウガオひとりにやらせていることを詫びた。
「まだ序盤だからな。たいした手応えはない。お前の分の仕事はしっかり残しておいてやるからさっさとツツジ様との話を終えて来い。仕事ができないくらい落ち込んで帰ってきたら承知しないからな」
 ユウガオはそう言って手をひらひらと振ると、視線を手元の紙の束に戻した。

 ユウガオの言ったとおり、リリィは医務室でも相当に騒いだのだろう。いつもより医師たちの視線を強く感じながら、極力誰とも目を合わさないようにカリンは医務室を横切り、ツツジの部屋の前まで行った。
 扉を叩くと、開けてくれたのはアオイだった。応接用の椅子にツツジの姿が見えないので一瞬不思議に思ったが、なんとツツジは自らお茶を淹れて戻ってくるところだった。
「遅かったな。しかし、茶にはいいタイミングだった」
「申し訳ございません。薬師室に寄っておりました」
 ツツジは無言で頷くと、顎でアオイの隣に座るよう指示し、テーブルにポットとカップの乗った盆を置いた。
「客人には主が自ら茶を淹れた方が礼に適っているからな。私にも茶くらい淹れられるのだ」
 アオイは知っているのだろうから、これはカリンへの言葉なのだろう。しかし返事に迷っていると、カリンの鼻孔を華やかな茶の香りが通り抜けた。
「あ……」
 思わず声が出る。
「何だ?」
「いえ、先日のお茶の葉と違ったのでつい……」
「さすがに薬師は良い鼻をしている。くだらん騒ぎで時間を使った故、少々思考の転換が必要だ」
 特別なお茶ということだろうか。カリンは再びどう反応して良いか分からず、余計な手間を取らせたことを詫びた。
「お前が謝る必要があるかどうかは話を聞いてから決めると言ったはずだ」
「わたくしの軽率な行動のせいでお時間をとらせたことには間違いありませんから」
「軽率かどうかも話しを聞いてから判断する……それより、茶でも飲んだらどうだ」
 カリンは素直に礼を言ってカップに口をつけて驚く。カエデのお茶のようにカリンの心を解きはしないが、雑味無く綺麗に整った味だった。温かいお茶が、身体の芯に残った冷たさをじんわりと癒してゆく。
「美味しい……」
 呟いたカリンの言葉には反応せず、ツツジは自らもゆっくりと香りを味わうようにお茶を口に含んだ。
「準備が整ったのならば話を聞こう」
「はい。ツツジ様もご存知のとおり、わたくしはセダム様からあることについてご相談を賜っております。その延長で、アルカンの森へ行きたいとご要望をいただきました。以前一度お連れしたことがあり、セダム様はアルカンの中の森にとても心を動かされたご様子でしたので、セダム様のお気持ちが晴れるのならば、という浅い考えでお連れすることを承諾してしまいました」
 しかし実際はセダムの気は晴れなかったであろうこと、突然の雨、遺跡での雨宿りからリリィとのやり取りまでを、セダムの相談の内容以外は包み隠さず全て話した。ツツジは相槌を打つこともせず、一見お茶を飲むことに集中しているように見える様子で話を聞いていたが、カリンが話し終えると小さく息を吐いた。
「お前の悪いところは、すべてにおいて、自分が悪いという歪んだ判断を起点にし、その後の物事が展開される点だな。それでは報告の精度が落ちる。しかしまあ、今は仕事の報告をしているわけではない故、それでも許そう」
「はい……申し訳ありません。ですが、リリィ様がわたくしを好ましく思っていないことは存じ上げていて、その上でのこの行動は、やはり軽率であったと思います」
「何故あの場で、アルカンの森へ行きたいとセダムに頼まれたのだということをリリィに説明しなかった?」
「それは……」
「話しても無駄だと思ったか?」
「……」
 リリィには話しても無駄だと考えることは、リリィの存在を軽んじることになるだろうか。いやしかし、カリンはあの場でそこまで考えられたわけではなかった。ただ単純に、昔を思い出して声が出なかったのだ。
「無駄……かもしれんな。あれは、自分の見たい世界しか見ようとしない」
 カリンはツツジの言葉の意図を正確に理解しようとして顔をじっと見つめたが、ツツジとは相変わらず目が合わなかった。
「……だから誰もリリィに本当のことを話してやらなくなった。しかし、リリィのことはともかくセダムは、あの場を逃せば一生本当のことを話す機会を失っただろう。あれも、リリィにはずいぶんと気を遣っている。それは、セダムの心に要らぬ後悔を残すことになるのではないか?」
 カリンははっとした。それから、唐突にアオイの存在を思い出してアオイの方を向いた。カリンがまず謝るべきはアオイだったのではないだろうか。今回のことに直接関係が無かったのにもかかわらず、カリンを助けようとして随分と不快な思いをしたはずだ。そして、おそらくアオイもあの時のことを思い出しただろう。
 アオイは、優しく微笑んでいるようでも、困っているようでも、苦しいようでもある、複雑な表情を浮かべていた。
「アオイ様、あの……」
「私はむしろセダム殿のお気持ちがよく分かる。私自身は今日のことで、長年の後悔を少しだけ軽くすることができた」
「アオイ様……」
「小さな子供の頃から、母上に逆らえないことは山のように在ったが、あの馬術場での出来事は、それらの中でも強烈な印象を残していて、あれは……不甲斐ない自分の象徴だったのだ」
「……」
「もちろん、今日自分が取った行動だけで全てが帳消しになるわけではないが、ほんの少しだけ、自分を許すことができたように思う。だから、私のことは気にしなくとも良い。それよりも、セダム殿が気がかりだな」
 カリンは改めて自分の愚かさを噛みしめた。自分が悪い部分を引き受けることで生まれる後悔もあるのだ。そんな簡単なことにも気がつかずに……。そんなカリンの思考は再び口を開いたアオイの声ですぐに中断された。
「勘違いしないでほしいのだが、カリンが悪いわけではない。お前の立場で母上に物申すのは難しいだろう。あくまでも、母子でありながら、自分が正しいと思うことを主張できなかった私が悪い」
「責任の所在はそれぞれにあろう。もちろんリリィにも、そしてこの私にも。しかしここはそれを話す場ではない」
「父上……失礼いたしました。過分な口出しをお許しください」
「過分ではない。お前の気持ちも理解できる。しかし今は個人の事情を話し合う場ではない。この場は、医局で起きた騒ぎの原因を正確に把握することが肝要だ。私には説明責任がある。今ここでで個人の気持ちを消化しなければ問題が解決しないならば仕方がないが、そうでもなかろう?」
「はい。おっしゃるとおりです」
「今回のことは私が依頼したことにする」
「え?」
 カリンも、それからアオイも、驚いてツツジの顔を見た。
「私がカリンに、教育のためでも気分転換のためでも良いが、セダムをアルカンの森へ連れて行くよう命じた。しかしそれを医務室の面々には特に伝えていなかった。もちろんリリィにも。それだけの話だ。私の命令であったとなれば医務室の面々はすぐに興味を失うだろう。リリィもこれ以上文句は言えまい。セダムは、カリンに矛先が向かないと知れば少しは気が楽になるだろう。私がカリンから事実を聞いている旨知らせてやればおそらく無駄に気に病むこともあるまい。もちろん私自身は痛くも痒くもない」
 ツツジはそれだけ言うと、話は終わったとばかりにカップを置き、カリンとアオイのカップに残ったお茶に目を遣って片方の眉を上げ、飲まないのかと尋ねた。カリンとアオイは慌てて残りを飲み干す。すでに冷めたお茶は、それでもとても美味しかった。
 カリンはポットとカップの後片づけを申し出たのだが、早く本来の仕事に戻るようにと言われてしまい、仕方なくアオイと共にツツジの部屋を出ることになった。ツツジは出てゆく二人に目もくれず、再び自ら盆を持って片づけに立った。
 話の間ツツジはずっと不機嫌そうな表情だったが、カリンの胸には、端正なお茶の香りと共に数々のツツジの言葉が残った。
 アオイには更に思うところが大きかったのだろう。他の医師たちの視線がある医務室だという理由もあるが、二人とも言葉少なに別れ、カリンは薬師室へと向かった。
 今自分ができることは、これ以上ツツジに対して何かを言うことではなく、今医局で起きている問題の解決に少しでも役に立つことだろうと思った。そして、できることならば、セダムを苦しみから救ってやりたいと心から思うのだった。
 

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