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物語の欠片番外篇1 常盤色の想い出

-サルビア-

 何故こんなことになってしまったのか。
 アルカンの森の主の根元に横たわったままサルビアは考える。
 どうやら涙は枯れ果ててしまったようで、身体の中には空虚しかなかった。慈雨の涙すら流せないようならば、大地の化身としての自分すら既に不要な存在に違いない。

 ポタリ……。
 ひと粒の雫が顔に当たる。
 雨……?
 そういえばこれまでこのアルカンの中の森で雨が降っているのを見たことがない。外がどんなに嵐でも、此処はいつも穏やかな空気に包まれていた。
 樹々のドームは、雨を通さないのに光は通す。これまで不思議にも思わなかったが、そんなことは起こり得るのだろうか。
 いや、そんなことはもうどうでも良い。それよりこの雫は何処から……。
 ポタリ……。
 再びひと粒の雫が、今度はサルビアの口元へ落ちて来た。おかげで、随分と掠れてはいるが声を出すことができた。
「……主様、泣いているの?」
「樹は泣かぬ。そなたが随分泣いたからな、森が潤っておるのじゃ。わしの葉が、こうして露を滴らせるくらいに」
 つい先程まで泣いてばかりいたというのに、くすりと笑いが漏れる。森の主はなんと素直なのか。今にも消えてしまいそうなサルビアの側に居ても、涙を流して心配したりしない。同情してみせたりも、励ましたりもしない。人間が見せるそのような行為は、結局は自分の悲しみや不安を相手に見せつけているだけなのだ。
 人柱になってしまったアイリスや他の仲間たちを前にして泣いてばかりいた自分も、彼らの為というよりは自分の為に泣いていただけなのだろう。いつでも其処にただ在る森には、全く敵わない。何が、大地の化身だ。
「漸く笑うたな」
「主様のせいよ。……このまま消えてしまおうと思ったのに」
「ほっほっほ。それはすまなんだ」
 サルビアの手の中には赤い羽根がひとつある。
 マカニ族の戦士のリーダーの証としてアイリスが身につけていた、翼の形をした飾りの一部だ。人柱になる前に、アイリスがそっと渡してくれた。
 初列風切羽根しょれつかぜきりばねという、一番立派な羽根なのだそうだ。今のサルビアにはそれが全てだったが、それすら生きる気力を呼び起こすには不十分だった。あの時、何故一緒に人柱になれなかったのだろう。今からでは遅いのだろうか。自分が居るべきはこの森ではなく、マカニなのかもしれない。
「……ねぇ、主様。私、マカニの風の神殿へ行こうかしら」
 珍しく森の主が言葉を詰まらせる。どうしたのかと問うと、いかにも気が進まないという風に話し始めた。
「……此処を出れば、おそらく見たくないものを見ることになる。アルカンの森の一部は焼け、マカニ族は、エルビエント山の奥へと追いやられてしまった。エルビエントの山を登るのは、今のそなたには辛いであろう」
「……森が……燃えた? ……マカニ……族が……?」
 自分が悲嘆に暮れていたこの少しの間に、一体何が起こったというのか。サルビアは、とうに枯れてしまったと思った力を振り絞って起き上がった。重い身体を引きずるようにして森の主の広場を出てゆこうとするサルビアを、森の主は止めなかった。
 サルビアの為に森の主が作ってくれた結界を抜けると、其処は以前のような楽園ではなかった。
 生命という生命が焼き払われ、一面の黒。空さえくすんで見えた。森の主は一部と言ったが、焼かれたのは一部ではない。寧ろ、残ったのが一部……森の主の結界の中だけだ。
「……なんと……いうことを……」
 王だ。間違いない。森を焼いたのは王だ。森の主がサルビアを結界の内側に隠したことに怒り、森を焼いたのだ。
 そして、それでも収まらぬ怒りを、今度はマカニ族に向けた。
 サルビアは一度だけアイリスに連れられてマカニの村を訪れたことがあった。アルカン湖のほとりの美しい村。
 人々は皆知的で穏やかで、鳥たちが賑やかだった。
 マカニ族は鳥に敬意を表して背中に翼の形をした飾りをつけていた。森と鳥と共に暮らし、大きな鳥に騎乗して空を飛ぶことができる種族。
 山奥に追いやられたということは、少なくとも逃げ延びたのだ。そうであってほしい。どうか命の犠牲が出ていませんように。初対面のサルビアにも優しかったマカニ族の顔が次々と浮かんだ。しかし、少なくとももうあの湖畔こはんの美しい村は無いのだろう。おそらく此処と同じように焼き払われて……。 
「……何故……」
 何故、王の怒りを受けるのが自分ではないのだ。
 何故、代わりに自分に関わったものたちが……。
 禍の元は自分だ。
 やはり自分はマカニへ行くべきではない。
 できることといえば、せめて、この命に代えても、王の怒りに触れたこの大地を癒すこと。
 サルビアはアイリスの羽根を胸に抱いて、アルカンの森の主の結界と外界の狭間に横たわった。
 そのまま静かに祈る。
 ーーこの身を大地にお返しします。この身体に残る最後の力の全てを、どうか私の為に消えた命の為に使わせてください。
 アイリスにひと目逢いたいと願うことすらしなかった。自分にはその資格はない。どうか、アイリスを含めて自分のせいで傷ついたものたちが、自分の最後の力で、少しでも癒されますように。

***

-アイリス-

 アルカンの森の上空に、緑色の光の帯がひらひらと漂う。
 サルビア……。
 あの光はサルビアだとアイリスは確信した。サルビアの、最後の光だ。
 人柱になった時点で、三百年柱の中で生きる自分はサルビアの最期を知ることになるだろうと覚悟はしていたが、それはこのような形ではなかった。自分が去っても、どうか闇が浄化された世界で幸せに生きてほしいと願っていた。手渡した羽根は、他に心の拠り所を見つけるまでの御守りとして渡したつもりだった。最終的には、他の誰かと幸せになって欲しかった。
 人柱の中ここからは、世の中のことが思いのほかよく見えた。本来は世の中を見守る役目だったからなのだろうが、おかげで見たくなかったものを沢山見る羽目になった。どうやらサルビアが居たであろうアルカンの森の中心部と、アイリスと同じく柱の中に居る他の化身たちの様子だけは眼に入らない。今頃、皆、どのような思いで柱の中に居るのだろうか。自分たちが柱になった原因が、アイリスとサルビアの関係であったことを知って、アイリスたちを恨んでいるだろうか。できることなら恨んでいてほしい。彼らが憤りをぶつける先がアイリスだけならば尚更いい。
 マカニ族をエルビエント山脈の頂上付近まで追いやった王族は、帰りにこの神殿にも寄って行った。
 王は、本来直接は今回の問題に関係の無いマカニ族に十分な迫害を終えてなお忌々しそうな顔を柱に向け、頑丈な斧のような武器で柱に傷をつけようと振り下ろしたが、かすり傷をつけることもできず斧の方にひびが入った。
 その一撃で手首を痛めたらしき王は一瞬逆上したが、すぐに威厳の欠片も無い相手を侮辱する表情を浮かべてこう言った。
 ーーお前のせいでサルビアは森へ閉じ籠ってしまった。きっとあのまま衰弱するに違いない。可哀そうに。
  マカニ族も哀れよの。お前のような不届きものを抱えたおかげで地の果ての山へ追いやられることになった。此方の嶺は戦士たちに見張らせる故、あの果ての嶺から此方へは降りて来られまい。鳥たちも随分処分してやったから、如何ほど籠城していられるかのう。あのまま村ごと滅亡するやもしれぬ。
  満足か? 全てお前のせいだ。

 スベテオマエノセイダ。
 そんなことは言われなくとも、とうに知れている。
 自分とサルビアの、普通の人間としての恋であった筈のものが、実はこのような影響力を持っていると気が付くことができなかった自分の落ち度だ。
 気が付こうと思えば気が付けたのだろう。幾度も行動を共にした王子の表情や態度から。そして、少し異常とも取れる程の、王のサルビアに対する寵愛から。
 マカニ族の戦士のリーダーともあろう者が、このような甘い判断をしていたら、いずれマカニ族に危機が訪れていたのは間違い無い。自分が早々にリーダーを譲って人柱になったのは正解だ。
 そんな自分を最後まで信頼してくれた戦士たち。そしてここまで一切アイリスを責めることをしなかった族長。彼らはきっと生き延びるに違いない。今度は自分が彼らを信頼する番だ。
 しかし……。
 最も大切だと思っていたサルビアを、自分は不幸にしてしまった。きっとあの後サルビアも、自分という男に心を預けたこと悔いていただろう。命は早く尽きたが、後悔の苦しみが短く終わったのは唯一の救いなのかもしれない。

 何度も自分にそう言い聞かせて三百年が経った。
 そうしてその日、アイリスは人柱としての役目を終える筈だった。しかし、アイリスはまたしても自分の考えが甘く愚かだったことに気が付かされたのだ。
 三百年後の闇の浄化の日、城の神殿には大地の化身は居なかった。
 新たな大地の化身は現れなかったのか……。
 もしかしたら、サルビアは命は尽きても役目を終えられず、まだ何処かで独り、苦しんでいるのかもしれない。
 現に次の闇が浄化されたにも拘らず、アイリスの存在は滅びなかった。それもまたそのことを裏付けているように思われて、アイリスの心はひたすらサルビアを探して彷徨い続けた。何処なのかも分からない昏い昏い闇の中を。幾日も、幾日も。既に、時間の感覚は麻痺していた。

どれほど彷徨ったか知れない。
ふと、サルビアによく似た緑色の光が見えた。
やはりサルビアも滅びることができずに彷徨っていたのだ。今更一緒になってどうなるのかは分からなかったが、その存在を確かめたかった。
二度、失敗した。
しかし二度とも、其処には同じ少女が居た。
あの少女の中にサルビアは居る。
三度目は少々知恵を絞った。
そしてついに……。

ーーサルビア

確かにその光はサルビアと同じものだったが、抱き竦めた少女の中からサルビアの声は聞こえなかった。応えたくないのか応えられない理由があるのか、それともアイリスの勘違いなのか分らなかった。
アイリスはアグィーラからマカニへ戻る途中で、思い立って昔マカニの村があったアルカン湖の畔へ寄った。
そしてアルカン湖に映るおのれの姿を見て納得した。
いつから自分は魔物だったのか。
もしかしたら、生まれた瞬間からずっとこうだったのかも知れぬ。
人間の皮を被っていた魔物。
魔物の自分には、最初からサルビアと一緒になる資格など無かったのだ。
アイリスはマカニの神殿の真上の、イヌワシの岩と呼ばれる場所に座ってアルカンの森を眺めた。
陽が、少しずつ傾いてゆく。
夜の闇は、自分の心の闇に比べればずっと明るい。
自分は魔物だ。
ならばいっそのこと、この世界を闇に染めてみせようか。
そう思って舞い上がった空から、つい先程まで座って居た筈のイヌワシの岩に、サルビアの光が見えた。あの少女だった。
暫く躊躇ったが、やはり抗えずにその前へ降り立つ。
少女は逃げない。
アイリスが一歩前に出て少女の身体を抱くと、少女もアイリスの背中に手を回した。
サルビア、そう言おうとした時、少女が先に口を開いた。
「ごめんなさい。私はサルビア様ではないの。でも……貴方の傷が、どうぞ癒えますように……」
少女の身体が緑色の光に包まれる。
「……サルビア」
これは確かにサルビアの光だ。
「サルビア様は亡くなりました。ご自分の命と引き換えに、燃えてしまったアルカンの森を癒して。……貴方も、どうか同じこの力で、帰るべき場所に帰ってください」
「嫌だ!」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
帰る場所など無い。
自分は魔物だ。
マカニには帰れない。サルビアの元へも行けない。もう柱すら無い。帰る場所など何処にも無いのだ。この少女がサルビアなのではないとしたら私は……
「……お願い……アイリス……」
サルビアの声ではない。少女の声だ。しかし、それならば何故アイリスの名を知っている?
「……何故……その名を」
「サルビア様が呼んでいます。早く、アルカンの森へ」
アルカンの……森?
魔物の自分がアルカンの森へ入れるのか。
半信半疑のまま、アイリスは緑色の光に包まれた。少女の……いや、これはサルビアの……。


 何かが頬に触れるのを感じてアイリスはゆっくりと目を開けた。
 触れたのは人の手だ。
 目の前に、どれほど焦がれたか分からないサルビアの顔がある。これは、現実だろうか。いや、夢なら夢でいい。そもそも何処までが現実なのかすら分からないのだ。サルビアが目の前に居る。それが全てだった。
 しかし同時にアイリスは、アルカン湖に映った自分の姿を思い出す。
 そして、見降ろした自分の両手に絶望した。
 黒く醜い鉤爪……。自分は、魔物だ……。
「アイリス」
「……私は、魔物だ」
「そうかもしれない。でも貴方の名前はアイリスよ。魔物でも人間でも構わない。だって、人間だって恐ろしいのだもの」
 人間だって恐ろしい、確かにその通りだ。
「……私は、アイリス」
「そう。そして、私はサルビア」
「サルビア……ああ……サルビア……」
 これが、サルビアだ。
 私の、帰るべき場所。
 両方のまなこから、温かい水が溢れ出すのが分かった。その水は、夜の闇よりも深かったアイリスの闇を少しずつ、少しずつ、洗い流していった。

***

-カリン-

「ねえ、主様、あのサルビア様の石像はどうやってできたの? 誰かが造ったわけではないのでしょう?」
「ほう。今日はまた珍しいことを訊きおるな」
「初めてあの像を見た時、王国内にあるどんな女神像とも意匠が違うなと思ったの。その後あれがサルビア様だと分かって納得したのだけれど、でもよく考えたらどうやってあそこに現れたのかと思って」
「以前、化身の使う貴石は森と大地の化身の力の結晶だと話したことがあったじゃろう」
「はい」
「大地は石を生むのじゃよ」
「大地は石を生む……。石は、様々なものが堆積したり結晶化したり溶解凝固を繰り返したりして生まれるわけでしょう?」
「そう。その成分はまさに様々じゃ。それに人間が、勝手に役に立つ経たないで仕訳けて名前を付けおる」
「……あの石像は、あのままの形で大地から生まれた」
「それだけ解っておれば十分じゃろう」
「……他の大地の化身はこの森に眠っても石像にはならない」
「知っておる限りはそうじゃな」
「サルビア様は、やはりあそこでアイリス様を待っていらっしゃったのね」
「そうかも知れぬし、そうでないかも知れぬ。……人の心の本当のところは、分からぬものじゃよ」
 森の主の言うとおりだ、とカリンはそっと反省する。
 以前は森の奥にひっそりと佇んでいた像が、今はその手に鳥を抱いている。そうなったのはカリンがイヌワシの岩でアイリスを見送った後だ。
 しかし、自分は其処に、自分にとって理想的な物語を当て嵌めているだけなのかも知れない。
 二人の六百年分の苦しみも知らずに。二人の意識が今何処に在るのかも、もしかしたら消えてしまったのかも知らずに。
 自分にはあの像に向かって祈ることしかできない。
 今も何処かに居るならば、二人が安らかであるように。
 もしあの瞬間二人の存在が本当に消えたのであれば、どうかその最期が穏やかなものであったように。
 もう二人が決して、苦しまなくて済むように。


Iris & Salvia by KaoRu IsjDha



昨年、『物語の欠片-朱鷺色の黎明篇-』でKaoRu IsjDhaさんに挿絵をお願いした。どうにかこの試みを続けたくて、けれど本編でそれをやるには制約が多すぎて、そうして考え出したのがこの『番外篇』である。
私の中には、まだ描いていない物語がそれはそれは山のように在る。
これからKaoRuさんには本編の流れに捕らわれず『物語の欠片』を題材に思うがままに絵を描いていただき、そこから繋がった私の中のまだ書いていない物語を、本編の連載の合間にこのように短編に切り出してお届けしようと思う。
あくまでもお互いの気持ちが乗ったタイミングなので、不定期である。しかし反対に、お互い気持が乗りに乗ったら短編ではなく中編くらいになるかもしれない。そんなこれからが、作者として益々楽しみなのだ。
先行きの分からない誘いを即答で受け入れて下さったKaoRuさん、有難うございます。これからもよろしくお願いします。


KaoRuさんによる制作秘話はこちら▼


鳥たちのために使わせていただきます。