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物語の欠片 濡羽色の小夜篇 7

-カリン-

 雨の中ガイアを走らせながら、カリンは酷く後悔していた。
 目の前には、美しい白馬に乗ったセダムの背中が見える。
 ツツジに呼び出された後で仮眠室へ行くと、セダムはちょうど目を開けたところだった。寝起きらしくまだぼんやりとした様子のセダムは、しかし、妙に大人びた表情で、しっかりとした口調で言ったのだ。「アルカンの森へ行きたい」と。
 そう口にした後、セダムはまるで自分の声に驚いたかのように急に自信のなさそうな表情に戻り、今度は呟くように「もし、できることならば」と付け加えた。カリンは、それでセダムの気持ちが少しでも晴れるならばと、翌日アルカンの森へ連れて行くことを承諾したのだった。相談したユウガオは、治験薬の準備で薬師室に来ていることにすればいいと言ってくれた。
 森に居る間のセダムは、のびのびとしているように見えた。森の主は今日は多くを語らなかったが、セダムはそれでも満足しているようだった。森の主の広場を辞した後、セダムは笑顔でカリンに礼を言いさえした。そこまでは良かったものの、その表情と足取りは、森の出口に向かうにつれて再びどんどんと重くなっていった。森へ来る前よりも酷いのではないかという落ち込みように、カリンは戸惑った。
 そして、雨。
 アルカンの森を出たところで急激に天候が崩れ、雨が降り始めた。セダムは雨除けの準備をしていなかったようなので、慌てて自分の雨除けの外套を羽織らせ、帰路を急いだ。しかし、雨脚は強くなる一方だ。
 と、一線の稲光が走ったかと思ったら、しばらくして轟音がとどろいた。セダムの馬が脚を止め、その場で足踏みをする。カリンはガイアから降りてセダムの馬に近づいた。表情が怯えている。しかしそれは、馬上のセダムも同じだった。
「セダム様、落ち着いてください。セダム様の不安はフヨウに伝わります」
「し、しかし……」
 もう一度、雷鳴。
 カリンはやむなく無理矢理フヨウに飛び乗った。後ろから左手でセダムを抱きしめ、落ち着いて、と繰り返す。右手は、セダムの手から手綱を受け取った。セダムが乗馬を始めたのはツツジの家に引き取られてからだ。まだ日が浅い。荒天の中で馬を乗りこなすのが難しいのも仕方のないことだった。
「少し、雨宿りしましょうか。雷も危険です」
 幸い、近くに古い遺跡があったので、そのままそちらへ歩みを進める。ガイアは大人しく後ろからついてきた。

 講堂の跡だろうか。苔むした石造りの、広く天井が高い建物に、馬ごと入る。天井は所々大きな穴が開いていたが、外に居るよりも随分とましだった。崩れてくることも無いだろう。
 激しい雨と雷が及ばないことにひとまずほっとして、カリンはフヨウの背から降り、セダムが降りるのを手伝った。
「申し訳ありません」
 セダムの声は、ほとんど雨の音に掻き消されてしまう。
 カリンは首を横に振って、フヨウの首を撫で、その後でガイアに声をかけた。カリンとセダムが少し距離を置くと、二頭の馬は身体を振って水滴を飛ばした。
 当然ながら、遺跡の中はしんとしていた。
 激しい雨音だけが響く。
 カリンは、セダムに何と声をかけたら良いのか迷っていた。大丈夫だと繰り返すことは意味の無いことに思える。
「帰りたくない……」
 セダムの声を聞いて、カリンの後悔は決定的になった。やはり、連れて行くべきではなかった。ほんのひと時の癒しが訪れたとして、問題の解決していないままでは、結局落差を味わうだけなのだ。
 家に帰ればまた、あの夢を見るかもしれない。
 その恐怖は、カリン自身が子供の頃に味わっていたのと同じものだ。ただ、カリンには夢と闘う意思が在った。レンを、人柱にしないために。自分は、レンへの気持ちにどれだけ救われてきたのだろうと思う。
 大切な人ができることは、苦しさを含んだ上でのしあわせなのだ。
 何度も繰り返してきた族長の言葉が、更に重みを帯びる。
「ずっと森に居るわけにはいきません」
 非情な言葉しか浮かばない。自分は、何度も森へ閉じ籠ってしまおうと思ったくせに。しかしセダムは、弱弱しい顔で笑った。
「そうですね。逃げてばかりいても仕方がありません。そのためにカリン殿に相談したのに」
 その健気さと痛々しさに、胸が締め付けられる。
「お城の生活にはもう慣れましたか?」
 そう尋ねたのも、自分の子供の頃のことが心にあったからだ。セダムと自分は似ているのかもしれない。それならば、もしかしたら城での生活は、あまり肌に合わないのではないか。
「はい。まだ分からないことも多いのですが、随分慣れました」
「ご無理をなさって、お疲れなのではないですか?」
「ああ……知らず知らずのうちに無理をしていて、その歪みが夢に?」
 セダムは賢い。カリンは、その可能性もあるのではないかと頷いて見せた。
「ですから、セダム様がご無理をなさらずに、お楽になさることが解決への近道なのかもしれません」
 つまりそれは、最初からユウガオが言っていたことではないか。
「楽に……」
「ふふふ。こんなことを申しておりますが、実はわたくしも苦手なのです」
 カリンは、自分が如何に周囲に迷惑をかけ、遠回りしてきたかを話して聞かせた。その辺りの話題には事欠かない。話しているうちに、セダムの表情も少し柔らかくなってきた。終いには、くすくすと笑いを漏らす。
「そうですか。カリン殿も……。それは、少し安心します」
「はい。セダム様はわたくしなどよりずっとお若くしてお気づきになったのですから、きっと大丈夫。味方だって沢山いらっしゃいます」
「そうですね。それは本当に有難い」
 雨は一向に止みそうになかったが、セダムの気持ちが落ち着いたところで、今度は戻る時間が気になってきた。カリンひとりならばまだしも、セダムは医局長の大切な息子だ。あまり遅くなっては騒ぎになるかもしれない。
「セダム様、提案がございます」
「提案?」
「あまり遅くなっては気温も下がります。そろそろ戻った方が良いでしょう。しかし、まだこの雨。セダム様は、わたくしのガイアに乗ってくださいませ。ガイアは、セダム様をアグィーラまで安全にお運びできることをわたくしが保証いたします。セダム様のフヨウをわたくしにお貸しいただけますか?」
「それは……もちろん……」
 セダムは言いながらガイアに目を遣ったが、ガイアはじっと外を見つめている。その耳が、時折ぴくぴくと動いた。
「ご安心ください」
 そう言って取ったセダムの手が予想以上に冷えていることに驚き、カリンの気持ちは焦った。寒くはないかと尋ねると、少し、という答え。
 カリンが声をかけると、ガイアは漸くこちらを向いた。
 セダムを乗せてアグィーラまで行って欲しいと頼むと、鼻先を突き出して抱擁をねだる。その鼻先を抱いて眉間を撫でてやりながら、カリンはもう一度、「お願いね」と念を押したが、そこには自分が思った以上に祈りの気持ちが込められていた。

 セダムがフヨウを走らせるよりは早かっただろう時間にアグィーラの城門へと辿り着いたが、すでに陽は暮れ始めていた。門番に立っていた内の一人が、慌てた様子で城の方へと駆けて行ったので、やはり騒ぎになっているのかもしれない。
 厩舎に馬を預けてから城へ向かうと、そこには、供を引き連れたリリィが待っていた。リリィがこちらへ駆け寄ろうとすると、供の者が慌てて大きな傘を差し出しながら後をついて歩く。
「ああセダム……無事で良かった。でも、こんなに濡れてしまって……」
「母上。ご心配をおかけいたしました。遅くなりましたが、只今戻りました」
「寒くはない?」
「ええ。カリン殿が雨除けの外套を貸してくださって。そう、私よりカリン殿が……」
 リリィはその言葉を完全に無視した。そして、カリンの方を振り返る。リリィがセダムの傍を離れたので、リリィに傘を差しだしているのとは別の従者がいそいそとセダムに向かって傘を差しかけた。
 久しぶりに、真正面からリリィの顔を見た。この顔は……
 カリンは頭で考えるよりも先に、反射的にリリィの前に膝をついた。
「このような天候の中、セダム様を連れだしてしまい、申し訳ありませんでした」
 朝は晴れていた。そんなことは言い訳にならない。
「謝れば済む問題だと思っているの?」
「母上。カリン殿のせいでは……」
 ああ、これはまるで……
 自分はなんと愚かなのか。セダムはリリィの息子でもある。連れ出せばこうなることは分かっていたではないか。
「この女はいつもこうなのよ」
 リリィの言うとおりだ。自分は子供の頃から、全く成長していない。
 セダムにリリィを悪く言わせてはいけない。それなのに、あの時のように反論する声も出なかった。二の轍を踏むなよ、と言ったいつかのユウガオの顔が今更ながら頭をよぎった。
「母上」
 静かな声にはっとする。
 セダムの声ではない。これは……
「あら、アオイ。貴方、まだわたくしのことを母と呼んでいますの?」
「書類上、まだご縁が残っているようですが、もしお望みならばこれからはリリィ様とお呼びいたしましょう」
「構わないわよ。貴方を産んだのは確かにわたくしですもの。生き物の仕組みとしては母で間違いありません。貴方の方にその気持ちが残っていることが驚きだっただけ。ところで何をしに来たの? ああ、そう。この女はまだ貴方にとって大切な存在という訳ね?」
 カリンはそのやり取りに堪らなくなって顔を上げたが、アオイは穏やかな瞳でカリンの瞳を捕らえ、小さく首を振った。確かに、自分はもう口を開かない方が良いかも知れない。
「セダム殿はご無事だった。その上でのこのような行いは、母上の評判を下げます」
 アオイはそう言いながらカリンに近づき、手を差しのべた。
「わたくしがが強いたわけではないわ。その女が勝手にひざまづいたのよ。ああ、なるほど。そういうことなのね? こうやってわたくしの評判を下げることが目的。従順な振りをして、なんて卑怯な……」
「何の騒ぎだ」
 それほど大きな声ではなかったが、そのひと声で、その場の時間が止まったように感じられた。ふと気がつくと、雨さえもいつの間にか止んでいる。
 アオイに手を引かれて立ち上がったカリンの目に、リリィたち一行の向こう側、これ以上不愉快なことはないというような表情のツツジの姿が見えた。
「なんでもございませんわ。セダムの帰りが遅いので迎えに来ただけです。来てみたら、この雨の中アルカンの森へ行ったというじゃない」
「それならばお前のするべきことはここに長く留まることではなく、雨に濡れたセダムを早く家に連れて帰ってやることだろう。いつまで濡れたままそこに立たせておくつもりだ? ここは私に任せてさっさと帰るが良い」
「貴方がいらしたならば、言われなくてもそうさせていただきますわ。わたくしだって長居したくはありません。ではごきげんよう」
 リリィはセダムの肩を抱き、二度とこちらを振り返ることもなく去って行った。周囲に付き従う供の者たちの間から、時折こちらを振り返ろうとするセダムが見えたが、カリンはもちろん、声をかけることはできなかった。
「お前も濡れている。執務室に着替えはあるな?」
 いつの間にかツツジがすぐ傍に立っていた。カリンはツツジの問いに黙って頷く。
「まずは着替えろ。その後、疲れているならば休んでも良いが、気力があるならば話を聞こう」
 疲れていないと言ったら嘘になるが、休める気などしなかった。
「大丈夫です。お話させてください」
「では、私は自分の部屋に居る。着替えが終わったら来るが良い。アオイ、お前も時間があるならば同席しろ」
「良いのですか?」
「良いから言っている」
「あの……」
 申し訳ありませんでしたと頭を下げようとしたカリンの言葉をツツジの言葉が遮る。
「まだ話を聞いていない。謝罪すべきことか分からぬ故、謝る必要も感謝する必要もない。全ては話を聞いてからだ。分かったらさっさと行け」
 そう言うとツツジは自らも医局の方へ向かって歩き始めた。アオイがカリンにひとつ頷いて見せてから後を追う。結局医局の建物に消えるまで二人の姿を見送って、カリンは身震いをした。今更ながらに身体が冷えていることに気がつく。心まで、凍りついてしまったようだった。
 まずはツツジと話をしなければならない。その義務感だけが、カリンの身体を動かし、ようやくカリンは中級官吏の執務室が集まる区域へと足を向けた。

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濡羽色の小夜篇1

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