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物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 1 パキラの話

-パキラ-

 今現在この館にある中で一番いい葡萄酒を手にして戻ってきたイベリスを、パキラは苦笑して迎えた。
「あらためていい酒の飲み直しです」
 イベリスはまったく悪びれない様子で笑った。
 それが一点の曇りも無い笑顔ではないことは、今のパキラには分かっていたが、作り笑いさえ自分に向けたことのなかった昔のイベリスと比べれば、関係が良い方向に向かっているのは明らかだ。そのことが自分にとってだけではなく、イベリスにとっても、そしてシュンランにとっても良いことであることを信じたい気持ちがある。
「まだまだ甘いな」
 俺も、という言葉は口に出さなかった。イベリスは自分のことだととったらしく、へへへと笑う。笑いながら葡萄酒の栓を開け、パキラのグラスを葡萄酒で満たす。いい葡萄酒を開けているという認識がある割に、遠慮のない量だ。注ぎ終わると、戯けた表情で恭しく礼をした。
 同じように自分のグラスに葡萄酒を注いだイベリスに向かって軽く乾杯の合図をしてみせると、パキラは読んでいた本に視線を戻した。しかし、思考は本を素通りし、遥か過去へと戻っていった。

*****

 族長の使者が来ていると仕事仲間が呼びに来たのは、とても暑い夏の日だった。呼びに来た仲間の額には、暑さのせいだけではないであろう量の汗が浮かんでいて、表情は同情しているような、関わりたくないというような、複雑なものだった。
「要件は?」
「訊けるわけないだろう? 族長がお呼びだからお前を呼べと、それだけだ。お前こそ、何をしたんだ?」
「さあ。記憶に無い」
 パキラは仕方がなく、仕事半ばで持ち場を離れた。かしらに報告する必要すらない。パキラが族長から呼び出しを受けたことなど、瞬時に伝わるに違いない。むしろ、報告のために使者を待たせたという方が咎められる可能性がある。
 常識としてそれが通じる時代だった。そういう族長だったのだ。
 坑道を入り口に向かって戻る間は、ほとんど誰とも顔を合わせない。何故ならば、当然ながら今までパキラが居た場所がこの坑道の先端で、途中の道はすでに掘り出した跡だからだ。皆、先を掘ろうと先端付近に集まっている。薄暗い坑道をひとり抜けると、灼熱の太陽がまず瞳を焼いた。
 日常的にこの明暗の差に慣れている坑夫は坑道を出る直前に目を細めてそれに備えるが、それでも、その日の太陽は激しくパキラの目を捕らえた。運悪く、ちょうど坑道の入り口に向かう角度に在ったのだ。
 凶暴な太陽をやり過ごして物が見えるようになると、そこにはぽつんと坑夫がひとり立っていた。仰々しい使者の群れを予想していたパキラは意表をつかれて思わず睨むように仲間を見た。
「お前が使者なわけはないよな」
「あちらでお待ちだ。俺は案内係」
 少し考えてみれば分かることだった。族長の使者というだけで自分たちが普通の民よりも偉いと思っている輩が、このような炎天下で賎民を待っているはずがない。
「もういいよ、ありがとう。あとはひとりで行く」
 身に覚えは無いが自分が呼ばれたがために炎天下で待たされたことと、思わず睨んでしまったことへの詫びも込めて礼を言うと、仲間は無言で頷いて去っていった。やはりできることならば関わり合いになりたくないらしい。
 死の砂漠と呼ばれるだけあって、夏の昼間のポハクの砂漠は地獄だ。人が生きてゆける環境ではない。しかしラプラヤ地方の大半の資源はこの砂漠の下に埋まっている。だからこそ砂漠で働く坑夫たちは、出来高払いとはいえ相当の賃金を貰っているし、保障も手厚い。パキラの父親は坑夫ではなく商人会に勤めていたが、パキラは自ら望んで坑夫になったのだ。
 その坑夫たちさえ賎民扱いか、と普段考えないようなことを考えつつ、本来は坑夫たちが交代で休憩を取るための小屋へ向かうと、入り口付近に数頭の馬が繋がれていた。
 入り口で見張に立っていたらしき男が中へ声をかけると、しばらくしてぞろぞろと男たちが中から出てきた。その動きは流石に緩慢ではなく、それなりの威厳を保っていた。
「お前がパキラか」
 立ち位置からも身なりからも、周りの男の態度からも、最も位が高いのだろうと分かる男が重々しく口を開いた。
「はい」
 事情が分からないので短く返事をする。
 男は無遠慮に、パキラの足の先から頭の先までを舐めるようにねっとりとした視線で見遣ると、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「族長がお呼びだ」
「そう聞いておりますが、身に覚えがありません」
「安心しろ。悪い話ではない」
 それだけ言うと、それ以上の質問は許さないという風に、両隣に居た男たちに顎で指図をした。男たちは敬礼をすると馬を引いてきたが、男たちの人数よりも馬の数は明らかに少ない。早く駆けるためのものではなく、偉い人物を歩かせないためのものらしい。しかし、パキラは次のひと言に驚かされることになる。
「馬に乗ったことは?」
「は?」
「馬に乗ったことはあるかと訊いている」
「はい、砂漠の奥を調べるために何度か」
 控えめに答えたが、パキラは他の仲間の嫌がるその仕事を好んだため、一般的な坑夫たちよりは馬に慣れていると言っていいだろう。
「ではその馬を使え」
 聞き返したいことは山程あったが、男は明らかに質問を面倒だと思っている種類の人間だ。まだ状況のよく分からない今の時点で心象を悪くするのは得策ではないと考え、言われたとおりの馬の横まで行き、手綱を受け取った。そっと馬の瞳を覗くと、涼しげな黒い瞳がパキラを見返す。よく飼い慣らされているようだが、馬に虚栄心は無いなと考えて可笑しくなった。

 愉快なのは馬に乗っている間だけだった。いや、馬に乗っている時間さえ、後ろに徒歩の人を従えて乗っていると思うと気が重くなるので、できるだけそれを考えないようにしていた。ポハクの街へ入ると尚更で、通りにひしめく人々は道を開けながらも何事かと族長直属の戦士たちに囲まれて歩く坑夫パキラを眺めていた。
 族長の館へ到着すると、ますます居心地が悪くなった。大勢の使用人たちが、いちいち頭を下げて挨拶をする。どうやら先頭の男はヌルデという名前らしい。そういえば族長の腹心の部下である戦士隊長がそのような名前ではなかったか。パキラは興味がなかったが、仲間たちが話しているのを聞いたことがあるように思った。
「連れて参りました」
 族長が居ると思われる部屋の前でヌルデが腹の底に響くような声で言った。中から「入れ」と低い声が聞こえると、内側から扉が開いた。
 部屋の中に入ったのはヌルデとパキラの二名のみで、あとは部屋の外に残った。二人が部屋に入ると、内側に控えていたらしき二人の戦士が両側から扉を閉める。
「ご苦労だったな」
 籐で編んだ大きな椅子にゆったりと腰掛け、一応の労いの言葉をヌルデに向けたが、視線は与えられず、表情は少しも緩んではいなかった。最初から人を見下すような目が、ヌルデを通り越してパキラを見つめる。
「お前がパキラか」
 先程ヌルデにかけられたのと全く同じ言葉をかけられたが、その重みは全く違った。ヌルデに倣い膝をついて頭を下げる。族長は、許されない限り直接目を見て話して良い存在ではなかった。
「はい」
 返す言葉は同じだ。ヌルデに質問できなかったことを族長に質問できるはずがない。質問せずとも、やがて沙汰が言い渡されるのだろう。族長の言い分は絶対だ。冤罪だろうが勘違いだろうが、それが真実になる。身に覚えがないなどということは理由にならない。悪い話ではないというヌルデの言葉をどこまで信じていいかも分からない。パキラは、うっすらと忍び寄る絶望をなるべく感じないようにして、静かに族長の言葉を待った。
「腕の良い坑夫だそうだな」
「恐れ入ります。自分ではわかりかねます」
「灰金剛石を掘り当てたことがあるとか」
「はい」
 そういえばあれは族長に献上されたのだった。無論相応の報酬はもらったし、パキラは石が欲しいわけではない。鉱脈を読んでそれが当たることが純粋に楽しいだけだ。当たったことが分かり報酬が貰えれば、石自体に未練は無かった。
「鉱脈を読むのが巧みだとか」
「得意としてはおりますが、族長のお耳に届く程とは思っておりませんでした」
「その腕を見込んで頼みがある」
「……はい」
「表を上げよ」
「……」
「どうした」
 横からヌルデに肘で小突かれ、パキラはゆっくりと頭を上げた。部屋は広く、涼しい風の通り抜ける心地良い空間だったが、族長ひとりの存在感が重くのしかかり、軽い頭痛がした。
きんの化身を知っておろう?」
「はい、伝説としてではありますが」
「王から召集がかかった。お前、行ってくれ」
「私が、ですか?」
「そう言っておる」
「しかし……」
「私の目に狂いがあるとでも申すか」
「いえ、決してそのようなことは」
「その地方の、成人して間もない優秀な若者を差し出すという慣わしがある。お前にぴったりな役目ではないか」
 それで終わりだった。
 坑夫の仕事は辞めなかったが、度々ヌルデから召集がかかり、族長の館を訪れた。館で働く様々な職種の人間たちから、改めて化身とは何なのかを説かれたり、アグィーラの城へ行くための最低限の礼儀を叩き込まれたり、「ポハク族」としてこうあるべきだという「常識」を教え込まれたりしながら時は過ぎ、季節は秋を通り越して冬になっていた。
 ポハクは冬でも日中は暑いが、夏よりはやや過ごしやすい。仕事も町歩きも楽になるのだが、その頃にはパキラはすっかりポハクの町では有名になっており、暮らし難さを感じ始めていた。両親や古くからの知り合いはこぞってパキラの自慢をし、大した知り合いではない者すら、祝いを口実に近寄ってきた。
 変わらないのはシュンランだけだった。
「貴方もちっとも変わらないもの。化身の候補になったからって偉ぶりもせず」
 シュンランにそのことを告げるとそう言われた。
「実際俺自身は何も変わっていないからな。変わったのは環境だけだ」
「私には貴方の環境は見えません。見えるのは、貴方だけ」
 す、とシュンランの手が伸びてきてパキラの頬に触れる。細く、冷たい指だった。

*****

 シュンランだけは変わらない。
 そう、思っていたのに……
 いや、実際シュンランは最期まで変わらなかったのだ。変わらなかったシュンランは、環境の変化に限界まで耐えて耐えて耐えきれなくなって、そして金色の馬に乗ることを選んだのだろう。
 自分は、変わったのだろうか。だから環境の変化に慣れることができたのか。もしそうならば……
「父上?」
 ふとイベリスの声が聞こえて、今が一体いつなのか分からなくなった。
 表情を変えないように最大限に気を遣いながら目線だけを上に向ける。
「酒はもう召し上がりませんか?」
「ああ。先程の上等な酒を飲んだらな、うちにある最上級の酒すら霞んでしまった。それは今日空けるには勿体無い酒だった」
「あああそうか。それは失礼しました。確かに、今日でない日に開けたならば、こいつをもっと楽しめたかも知れません」
 大袈裟に悔しがるイベリスを見遣りながら、呆れる気持ちとは別に、胸の辺りに柔らかい熱を感じた。それは、自分がしばしばシュンランに対して感じていた感覚に少しだけ似ているものかも知れない。
 長い間、自分はシュンランから、最後の希望であったイベリスを奪ったのではないかと思っていたが、最近は、そうではなかったのではないかと考えていた。
 シュンランは、イベリスの存在をパキラに知ってもらいたかったのかも知れない。そう考えるのは、シュンランの存在を封印して過ごしていた時期よりも、イベリスが近くに来た後の方がシュンランのことを考える時間が増えたからだ。まるで、近くにシュンランが居るように感じることすらある。
 それが生者の勝手な妄想だったとしても、いやむしろ、生者の妄想しかないのだから。死者は、殊更、生前大切に思っていた死者ならば、できるだけ綺麗に思い出してやりたいではないか。苦しい思い出に沈めてしまうのは、死者を理由にして、生きている自分に歯止めをかけることにもなる。
 少し前に、カリンに同行してもらってオアシスに行ったことがあった。そこに居た一本の立派な樹が、このラプラヤ地方の森の主なのだという。その森の主の目の前にあるオアシスの底で、シュンランは眠っている。
 カリンに仲立ちをしてもらって森の主に触れた時、パキラの頭に流れ込んできたのは、シュンランの穏やかな笑顔だった。あれがいつのものなのかは分からないが、カリンが言うには、森の主は自分が見たものしか知らないはずだという。そうなのだとしたら、あれは最期を迎えたあの場所で、シュンランの顔に浮かんでいた表情なのだろう。
 あの場には他に誰も居なかった。穏やかなふりをする必要などなかったはずだ。だから信じたい。幾ら選べる道が僅かしか無かったのだとしても、少なくともシュンランは、選び得る中から自分の選んだ道を行ったのだと。
 今の自分にできることは、その道を否定せずに尊重することだ。
「父上?」
 再びイベリスが僅かに不安そうな声を上げた。
「いや……呆れて言葉を失った」
 そう言ってにやりと笑って見せると、イベリスは太陽のような笑顔を浮かべて手にしていた葡萄酒の瓶をパキラの方へ差し出した。
「不肖の息子の責任は、親が取ってください」
「お前も同罪だ」
「では、綺麗に半分にしてご覧に入れましょう」
 本来ならば三分の一だな、とパキラは思ったが、口にすることはしなかった。その代わり、本当にきっちりと半分ずつ二人のグラスに注いだ葡萄酒を片方受け取り、心の中で三人のこれからに乾杯をした。


パキラ by KaoRu IsjDha

今回の篇を始めるにあたり、KaoRuさんにパキラの絵をいただいた時点で(絵はいつもおまかせなので誰が出てくるか分からない)どうしてもこの続きから始めたかった。
どちらもシュンランを(イベリスはシュンランとパキラ両方)思っている図だろうと思われ、構図もなんとなく似ている。
イベリスとパキラ、やっぱり父子だなあ。
パキラのどこを書こうか迷っていたのだが、この続きから書いてみたら、自然と続きが出てきた。これもまた絵に書かせていただいた物語だ。

***
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これは長い長い物語の十六篇目の物語である▼

鳥たちのために使わせていただきます。