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物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 2 マオの話

-マオ-


「シュロ!」
 思わず大声をあげてから、しまったと思う。しかし勿論それでは遅かった。みるみるうちにシュロの顔が歪む。
 泣くかと思われたシュロは涙を流さず、その代わりに潤んだ瞳のままマオを睨んだ。
「シュロ、悪くないもの。どうしてシュロが怒られるの?」
 基本的にはシュロの言うとおりだった。先にシュロをからかったのは相手の男の子だ。子供に有りがちな本気の悪意の無い揶揄いだとしても、そんなことシュロには分かるまい。いや、大人でも、相手が傷つくことを言うことはどんなに悪意が無くてもいけないことだ。それでも、今にも相手に手を出そうとしていたシュロを見過ごすわけにはいかなかった。
「大きな声をあげて悪かったわ。でも、どんなに嫌なことを言われても、相手に手を出しては駄目なのよ。急いで止めなければと思ったから、思わず大きな声が出てしまったの」
「それじゃあ、人の嫌がることを言うのは許されるの?」
「いいえ。いけないことだわ。だから、それを言葉で教えてあげるのよ」
 シュロを揶揄っていた子供たちはすでに姿が見えなくなっていた。睨みつけるように子供たちが去って行った方を見ていたシュロは、おそらくマオの言葉を理解した。けれど、それを素直に認めるにはまだ幼い。むすっと膨れた顔のままそっぽを向き、ぼそりとマオの痛いところを突く言葉を放った。
「お父さんなら、何て言うかな」
「そうねぇ……」
 とりあえず考えるふりをしてみたが、シヴァならきっと今の場面で声を荒げることはしないだろう、とマオは思う。シヴァならば、きっと子供たちの近くへ寄るだけで、子供たちの方から察するのだ。不思議なものだ。
 そういえば昔からそうだった。ほとんど年齢の変わらないマオですら、シヴァの側に居ると、自然と納得させられる何かがあった。

*****

「マオ、悪いけれど、糸を買ってきてくれない? 葡萄茶えびちゃ色が足りないの」
 マオの母親も織師だった。今では大掛かりな機織りは辞めてしまって、細々と刺繍の注文を受けているのみだが、マオがシヴァと一緒になって家を出るまでは、ずっと家で仕事をしていた。そのおかげで小ぶりながらも立派な機織り機が家に在り、マオは小さい頃から織物に親しんで育ったのだった。マオが今家で使っている織り機は、母親から受け継いだものだった。
 母親の遣いで糸を買いに行くのは、大好きな仕事だった。マーガレットはその頃から工房を営んでいたがまだ店は持っておらず、糸を買いに行くのも工房だった。工房には家にあるのよりもずっと大きな機織り機があり、そこで織られている絨毯や寝具などの作品を見るのはとても楽しかった。
「またお手伝い? 偉いね」
「マーガレットさんの中では私はいつまでも小さな子供なのね。私、もうすぐ十三よ。戦士ならば、そろそろ訓練場に通い始める時期だわ」
 実際、マオよりもひとつ年上の幼馴染のシヴァは、すでに訓練場に通い始めていた。
「あら、そう。それじゃあ、マオもうちに来る? それともお母さんに習うのかしらね」
 小さな子供ではないと言いながらも、そう訊かれて言葉に詰まった。以前からマーガレットに、織師になりたいということは伝えてあったが、当然母から教わるつもりで、外に出る選択肢を考えていなかったのだ。
「え? マーガレットさんのところで働けるの?」
「貴女がそうしたくて、ご両親が良いと言ったらね」
「ありがとう。お父さんとお母さんに相談してみる」
 葡萄茶の糸だけでなく、将来の選択肢までを手に入れて弾んだ気持ちでマーガレットの工房を出たマオは、飛行台へ向かわず、歩いて階段を下った。
 鼻歌混じりに階段を下るマオの目は、しかしすぐにある光景を捉えて吊り上がった。
 鼻歌を止め、緩んでいた表情を引き締めると、大声で叫ぶ。
「こら、やめなさいよ。嫌がっているじゃない!」
 スモモを囲んでいた三人の子供たちがマオの姿を見て「まずい」と声を上げると、あっという間に東の森へ向かう階段を駆け上がって逃げていった。そのまま階段途中の飛行台から飛び立つつもりだろう。追いかけても間に合わないが、追いかける意味も無かった。それでも一応マオは、追いかけている風を装って急いでスモモの方へ駆け寄った。案の定、スモモのところへ辿り着いた頃には先ほどの子供たちは姿も見えない。もしかしたらすぐには飛ばず、東の森に隠れているのかも知れない。
「大丈夫?」
 マオが尋ねると、スモモは戸惑った表情でうん、と頷く。マオと同じ歳だが、気弱なスモモはずっと幼く見えた。
「……あのね」
 おずおずと口を開いたスモモに、マオは「なあに?」と優しく微笑みかける。それでも言葉を続けることを迷っているスモモをしばらく待った。
「あのね、多分、あの子たち、私を仲間に誘ってくれようとしたの。でも、私、どうしたら良いか分からなくて……」
「あ……」
 嫌がらせではなかったのか。
「そうか、ごめんね。あの子たちにも謝らなくちゃ。でも、私の顔を見て『まずい』って何なのかしら。悪いことをしていないならばそう言えば良いのに」
「良いなあ、マオは」
 スモモは、マオとは目を合わさずに溜息混じりに言った。
「え?」
「何でもはきはき言えて、頭が良くて、運動もできて、織師になるのでしょう? 将来の夢もはっきりしていて、羨ましい。それに比べて私は……」
 比べる必要なんて……という言葉を慌てて飲み込んだ。それではスモモの自分に対する評価を認めることになる。
「あの、ごめんね」
 仕方なく無駄にもう一度詫びの言葉を口にしてしまった。
「ううん。いいの。私が悪いんだもの。私、もう行くね。助けようとしてくれてありがとう」
 違う、という、何に対しての否定か分からない言葉を、マオは再び飲み込んだ。かろうじて「またね」と声に出し、スモモが階段を下っていくのを見送る。先ほどまでの弾んだ気持ちは、すっかり萎んでしまっていた。

「どうした?」
 葡萄茶の糸を母親に渡したものの、そのまま家の中に居たくなくて、庭の植物たちに水を遣っていると、訓練を終えたらしきシヴァが戻ってきた。
「何が?」
「浮かない顔をしている」
「そう? ちょっとぼうっとしていただけよ。シヴァは? 訓練楽しい?」
「楽しい」
 シヴァは笑顔で応えた。それ以上、マオのことには触れてこず、今日の訓練であったことをかいつまんで話してくれた。
「翼の使い方からして違うんだ。今までそれなりに飛べるようになった気でいたけど、全然駄目だ」
「ふふ。それって楽しいの?」
「楽しいさ。やるべきことが山ほどある」
「変な人」
「そうか?」
「……」
 変な人なんかじゃないことは分かっていた。戦士は遊びではない。職業だ。それも、とっておきに危険な。訓練が厳しくないはずがない。それでも、それを楽しいと言い、作り笑いではない笑顔を見せるシヴァを、心底凄いと思った。それに比べて自分は……
「あ……」
「どうした?」
「シヴァ、ねえ、今から訓練場に行こう」
「良いけど、俺、今戻ってきたところだよ」
「知ってる。でも、お願い。シヴァの話を聞いていたら訓練場に行きたくなった」
「おばさんに声掛けてこいよ」
「うん、分かった。少し待っていて」
 シヴァの母親は採羽師をしていて、村の外へ出ていることが多かった。マオの父とシヴァの父親は共に土木師であったため、シヴァの母親が家を空けている間に揃ってマオの家に戻ってくる機会が増え、いつの間にか当たり前になっていた。こんな風に、近くの家の家族と家族がひとつの大きな家族のように暮らすことは、マカニの村では珍しいことではなかった。
 訓練場はマカニの一番高いところに在り、戦士でもない限り足を踏み入れることは滅多に無い。マオも、もっと小さな頃は興味本位で見学に来たことがあったが、もう随分と訪れていなかった。
 久しぶりの訓練場、しかも誰も居ない夕刻の訓練場は、岩に張り付くおびただしい数の的の雰囲気と相まって威圧感を感じた。自分が、小さく思える。シヴァはこんなところで大人たちと共に訓練をしているのか、と改めて感嘆の気持ちが湧き上がってきた。
「弓、引いて見せてよ」
「注文が多いな」
 苦笑しながらも、シヴァは背中から弓を取り、矢を一本だけつがえる。夕方の光の中でも、シヴァの表情がすっと引き締まるのが分かった。
 とん、と、遠くの的に当たった矢の立てる音が、静かな訓練場に小気味よく響いた。その余韻を、マオはしばらくの間感じていた。
「凄いじゃない」
「何が?」
「まだ訓練場に通い始めていくらも経っていないでしょう? それなのに、あんな遠くの的に」
「地上に居ればなんとかな。空中じゃ、まだ全然駄目なんだ」
「ふうん。それでも、私から見たら凄いわ」
「そうか」
「ねぇ、誰かに『羨ましい』って言われたら、シヴァはどうする?」
「……状況によるよ」
「ふふ。そうよね」
 マオはスモモの一件を話して聞かせた。
「それでね、私は自分が正しいと思うことをしていたつもりだったのだけれど、もしかして他の人から見たら迷惑だったりしたのかなって。自分の正しさを見せつけて、いい気になっていたのかも知れない。しかも、スモモには比べる必要はないと言おうとしていたくせに、さっきシヴァの話を聞いた時、私も自分とシヴァを比べてた」
「俺のことが羨ましいって?」
「ううん。違う。シヴァは凄いなって」
「まずそこが違う」
「え?」
 シヴァは想像以上に真面目な顔をしていて、腕組みしながらマオの話を聞いていたが、その手を解いて人差し指をマオに突きつけた。
「俺のことだけじゃなく、誰かのことを凄いと思った後、マオは努力する。違うか?」
「うーん。そう……かも知れない。けれど、自信無い」
「安心しろ、マオがそういう人間であることは俺が保証する。羨ましいという感情でもいいけどさ、その羨ましいと思うものを自分が手に入れたいならば、それなりの努力が必要なんだよ。まあ努力すれば必ず手に入るものばかりではないし、手に入れるまでの努力の量は人によって違うと思うけど、少なくとも何かしらの努力はしないと手に入らない。それを、やるか、やらないかだ」
「うん、それは分かる」
「だから、羨ましいという感情自体はどうってことないんだよ。その後、どうするかだ」
 なるほど。羨ましいと言った側から見て、その羨ましい対象が、本気でそうなりたいものかどうかは分からない。本気でそうなりたければ、然るべき行動を取るはずだということか。そうでないならば、ひと時の感情。言われた側も、気にすることではない。しかし……
「まあ、でも、羨ましいって言われると、簡単にそこに到達していると言われているように感じることもあるな」
 マオは驚いてシヴァの顔を見た。
「それだわ」
「ん?」
「そうよ。ああ、すっきりした。そうなのだわ。羨ましいと思われたくない感情は、気が引けるというよりも、自分が努力していないって思われることが嫌だっただけなんだ」
「ああ……」
「比べる必要なんてない、なんて言うよりも、私だって努力してるのよって言って仕舞えば良かったのかしら。いえ、でも、それもあんまり感じが良くないわね」
 吹き出したシヴァを、マオは睨んだ。
「何よ、真剣なのよ」
「知ってるよ。まあ、言い方の問題かな」
「言い方?」
「例えば弓の話だとする。羨ましいって言われたら、『そうか? まあ実は結構隠れて訓練したからな』と笑って返す」
「貴方、そういうの上手よね」
 羨ましい、と口に出そうとして、マオはくすりと笑う。
「見習わせていただきます」
「おお。盛大に見習ってくれ。俺も、お前のいいところは見習わせてもらう」
「帰ろっか」
「そうだな。腹が減った」
 シヴァはすっかり日の暮れた訓練場で、爽やかに笑った。確かにマオも空腹を感じた。
「付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
 訓練場の飛行台は相変わらずよそよそしかったけれど、また来てみてもいいかな、とマオは思った。

*****

「ねぇ、シュロがお父さんの名前を出したから怒った?」
 言葉とは裏腹に、シュロはまだ自分の方がが怒っているような顔をしていた。マオは笑いを噛み殺す。
「どうしてお父さんの名前を出したら私が怒るの?」
「人と比べることになるから。お母さん、いつも、人と比べちゃいけないって言うじゃない」
 シュロはいい子だ。
「怒ってない。私はシヴァと比べられても怒らないのよ」
「どうして?」
「貴女のお父さんは、とっても頑張っているから。比べてもらえるだけで、嬉しいことなの」
「変なの」
「貴女もよ、シュロ」
「シュロが?」
「そう。シュロがとっても頑張っていることはよく知っている。それでも注意しなければならないと思った時にはしてしまうのだけれど、だから、少し怒られたからってあまり気にしないでちょうだい」
「えぇ。何それぇ」
「ね。スミレさんのところへ寄ってクッキー買って帰ろう」
「シュロ、ケーキがいいな。チーズケーキ」
 ようやくシュロが弾んだ声を出した。
「いいよ。お父さんの分も買って帰ろうね」
 シュロが選んであげるよ、と言って駆け出したシュロを、マオは追いかける。
 今度、久しぶりに訓練場を覗きに行ってみようかなとマオは思った。弓矢のあまり好きではないシュロをどうやって説得しようか。
 レンの弓捌きは綺麗なのよと言ったら興味を持つだろうか。そうだ、カリンと一緒ならば行くと言うかもしれない。折角だから、レンとカリンにもケーキを差し入れしてあげようと思いついたところで、マオはシュロに追いついた。
 シュロの手を取り、すっかりご機嫌になったシュロと歩くマカニの村は、やはりマオにとって、大切な場所なのだった。


***
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天鵞絨色の種子篇1


鳥たちのために使わせていただきます。