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ゆるく、繋がっていたい

オンライン、オフラインを問わず、多くを発信するよりも受け止めることの方が私は向いていて、ただ隣で沈黙を共有するとか、話している人に向かってやわらかな(あるいは興味や尊敬をもった)姿勢でいるとか、言葉以上に「なんとなく居心地よいこと」をコミュニケーションを取る上で重要視している。

ただ、それはオンライン上だと途端に効力を失くし、発信がない=存在しないと認識されてしまう。

仕事柄、言葉を発することができない、体を思い通りに動かせない、経管栄養だったり、呼吸もままならない小さなお子さんやその家族と一緒に遊ぶことがあるのだけど、瞬きや発声、脈拍や血圧や血中酸素濃度からその子の快不快を読み取るようなコミュニケーションをしていると、存在感というものは発信に限らないし、発信だって言葉に限らないと感じている。

SNS(Social Networking Service)からの情報に曝露する中で、改めてオンラインとオフラインでの存在感やコミュニケーションのちがいを見たとき、「ああ、私が疲れる理由ってこういうことなんだな」と感覚的に理解して、私はすぐに二つの行動を起こした。

一つは、SNSをクローズドにすること。
もう一つは、自分の想いをSNSで発信すること。

二つ目に関してはまだ試行錯誤の段階で、Instagramで写真として発信するのか、noteで文章として発信するのか、あるいは両方なのかも漠然としているけど、発信がない=存在しないとみなされるオンラインの中で、好きとかしんどいとか興味深いとか私はこう思うとかをいかに伝えられるか、諦めずに発信していくつもり。

言葉を大事にしながら、SNSのその向こうにいる人の存在をお互い感じられたら素敵だな、オンライン上では見えないものを優しい想像力で補完できたらいいな、私のInstagramのギャラリーやnoteはそんな場所でありたいなと思いながら、写真と文章を綴ろうと思う。

静かで心地よい距離感で来客をもてなすような気持ちで、SNSを続けたい。

そして、SNSに疲れた人にとって、「ああ、そんなやり方もあるのだな」と思ってもらえたら、それこそが私の本望です。