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2023/03/09 出会いの空間と感想文

7時半くらいに目覚めた。ゆっくり体を起こして、今日もスーツに袖を通す。

説明会ハシゴ旅、最終日。今日参加する説明会は昼の3時半から、とゆとりのあるスケジュールだったので、せっかくなのでずっと行ってみたかった場所に行くことにした。

天神にある百貨店・岩田屋本館にある「文喫」

私がずっと気になっていた本屋さんだ。

なんとこの本屋、入場料がかかる。平日大人は1,650円。そこそこのお値段だ。本が一冊ついてくるわけでもなく、本屋に入るだけで1,650円。

当然だがそれには理由がある。
文喫にはデスクランプが備え付けられたデスクやソファ、喫茶室があり、そこで商品となる本を自由に読んでよいのだ。コーナー・煎茶・ルイボスティーはおかわり自由。「本と出会うための本屋」をキャッチコピーとして、じっくりゆっくり、本との出会いを楽しむことができる。

本のラインナップも良い。文芸書にとどまらずデザインの本や写真集、食や建築、宗教の本など。派手なポップや話題書はほとんど見当たらず、静かな時間がゆったりと流れている。

ここに来る人々の多くは本を買いに来るのではなく、この時間を味わいに来ている人が多いのだろうと思う。ただ本を買うだけなら入館料など取らない普通の本屋に行けばいい。けれどここには、「買う」ことを目的としない独時の空気がある。まさに本と出会うための場所。

この店の商材は本では無く、「空間」だ。
その空間には価値がある。それに価値を見出す人だけが、ターゲットとなる場所。

素敵な場所だった。良い本がたくさんあった。10冊くらい買いたかった。

その中でも、今日私が買った本を紹介しようかな。


祖父江慎・藤田重信・加島卓・鈴木広光「文字のデザイン・書体のフシギ」(左右社)

タイポグラフィの勉強をしたいなーとここ2年くらい思っていたので、ついに本を買った。
特にデザイン関係の仕事がしたいわけではないのだけど。しかし趣味の影響でブックデザインやグラフィックデザインにはとても興味がある。日本語のタイポグラフィの変遷や幅には、日本語ならではの面白さがあるのだ。

この本は、神戸芸術工科大学で2007年度に開講された特別講義の内容をまとめたものだ。本には4人それぞれの「講義」が収録されている。
ヨソの大学の講義を盗み聞きしているようで、楽しい。

なにより私たち自身は「日本語」 の文化に属するものなのですから、「思考や伝達のための形象」としての「日本語の文字」の問題について「前提」に縛られない多様な視点での論議をもとめるものです。 「漢字」と「仮名」から成る日本語の複雑さを「特殊」として切断することなく、共有しうる「普遍」にいたる行程での「不思議」 として感得したいと思います。
同書p5より引用

「はじめに」の一節だ。私も日本語について少々概要だけうっすらと勉強したことがあるので、この一節にはシンパシーを感じることができる。
日本語はとにかくイレギュラーな言語だ。何においてかと言うと、文字表記。ひらがな、カタカナ、漢字の3つを標準的に駆使する文字表記は世界中見渡しても日本くらいしか無い、と思う。そう勉強したはずだ。
しかしそのイレギュラーさを「特殊」とせず「不思議」と捉えるその姿勢はなんだか、ごく自然なものに感じられる。なぜなら私たちは日本語を話す文化に属するのだから。日本語の持つ特異性はあくまで「不思議」であり、特殊ではない。その不思議を抱えながら、それでも私たちは日本語を使っている。それは普遍となっている。面白いなと思う。

この「はじめに」の一節を読んで、一気にこの本を読もうという気持ちになった。信頼を持てる本だ。

本編で特に印象に残ったのは、加島卓の「デザインを語ることは不可能なのか」という章。デザインを語ることは可能か、不可能か。加島はまず音楽を例に挙げ、論を進めていく。

音楽を語ろうとするとき、人は「音楽の本質」について語ろうとする。しかし、音楽に対して重視するポイントやアプローチは人によって異なる。歌詞を音楽のキーポイントとする者もいれば、そんな者を「音楽を分かってない」と冷笑する者もいる。しかし冷笑する者も、音楽の本質を言語化することはできない。
そのジレンマを解消するために使われるのが、「やはり音楽は語ることができない」という非言語的な説明だ。この言葉は、「語ることができない」という言葉によって、非言語的な概念を証明しようとしているのだ。
その通りだと思う。私も少しだけ音楽を齧ったことがあるけれど、音楽の本質とは何ですかと問われれば何も答えられないし、最終的には好きな音楽のmp3データを持ってきて「これ聴いたら分かるから!!」とか言ってしまいそうだ。
語ることができない、という諦めのような言葉で非言語的な概念を言語化する。文化の証明に使われる「逃げ」のコミュニケーションだと思っている。

それとデザインは同じなのだと、加島は言う。デザインもまた、「やはりデザインは語ることができない」のだ。デザインの経験がある者、そして批評的にデザインを語ろうとする者。この2人が対立した時、どうしてもジレンマが生じる。では何故ジレンマが生じるのか。それは、2人とも「『デザインの本質』があるに違いない」と信じているからである。2人は同じ「デザインの本質」を媒介とした共犯関係にあるのだ。

……という論を読んで、純粋に面白い! となった。現場で動くデザイナーと、デザインを研究しデザインの論文を書くデザイン批評家では見えている世界が違う。そのため2人は意見の相違で反発するが、それは同じ「デザインの本質」の存在を疑わないから。自分が信じる「デザインの本質」がそれぞれにあって、その本質は個人にとって揺らがないから……。デザインの話をしているようで、まるで人間関係の縮図のようにすら思える。

全てに言えることだな、と思った。音楽やデザインに限らず、美術や芸能、文芸にも「本質」は現れる。それら全てには体験した人にしか分からないことと研究した人にしか見えないことがある。
そこで生まれるジレンマは、睨み合う視線が交差する場所に生まれる「本質」という概念を信じているからこその賜物なのだ。

彼らは真剣に、「本質」を信じている。その存在を信じて疑わない。
それは彼らがデザインや音楽を愛してやまないからに他ならないだろう。素敵な考え方だと思った。

あと個人的には、大ファンなブックデザイナー・祖父江慎の手がけた本のデザインを本人が解説していてサイコー! となりました。祖父江慎のデザイン、本当にありえないくらい鮮やかに「表現」と「課題解決」というアートとデザインの二つの側面を達成していて大好き!


2冊目!


はらだ有彩「日本のヤバい女の子」(柏書房)

フェミニズムに関する本が欲しいな、とぼんやり思っていたら良いのがあった。

どんどんフェミニズムの考えが浸透している。今までの終わってる価値観で凝り固まった世界からすると微々たるものだけど、確実に、着実に、女性が自由に生きられるようになってきている。嬉しいことだ。

大学1年生の時にフェミニズムの勉強を少しして、う〜んこりゃ自分の考えを一個持っていた方がいいよなぁと思い始めて早2年。ぼーっと生きてきて、SNSに流れる女性蔑視や性被害の問題を読みながらカスがよ……と思うくらいだったのだけど、今日はせっかく「本に出会う」という場所に来れたので本を一冊買うことにした。

文喫にもたくさんフェミニズムの本があった、けど、う〜んなんだかなぁ。

フェミニズムを考える上で当事者となる私がなんだかなぁ、と思うのはあまり良くないとは思うものの、思ってしまう。フェミニズムを唱える女性たち、なんであんなに喧嘩腰なんだ。

いや喧嘩腰にでもならないと世の中変わっていかないっていうのは、分かるんだけど。
私は(物理的にも精神的にも)大きな声で自分の論を推し進める人が苦手だ。それでフェミニズムはどうにもそういうスタンスで論を展開するのが広く一般的になっている気がする。もちろんフェミニズム論展開の根底に「(男性や社会に)負けない」という意識があるので仕方ないのだけど、それでも「私たちが正義! 女性を押さえつける社会は悪! 私たちは抑圧されている! 弱者の意見も聞け!!」とめちゃくちゃ叫ぶのは、ちょっと意見が破綻していないか? と思ってしまうのだ。
と言うと、「じゃあ女は黙ってろって言うんですか!!」とフェミニストの人に怒られてしまうかもしれないな。怖い。そう、怖いのだ。なんかフェミニストの人って怖くない? 私だけかな。女性のために動いてくれているのは嬉しいけど、なんか常に喧嘩しているイメージがある。もちろんそんな人たちはごく一部で、中には静かにアクションを起こしている人たちもいるって知ってるけど。

この「日本のヤバい女の子」には、現代を生きる普通の女の子である私たちにより近い目線でのフェミニズムがあると思う。

この本は、日本に伝わる伝説や逸話に登場する女性たちの生き様をさまざまな観点から論じる構成になっている。
例えば、節分でよく見る「おかめ」。おかめがどのような女性なのか、ご存知だろうか。

おかめは大工の妻だ。ある時、夫は柱に使う大切な材木(しかも寺を作るために信者から奉納された大切な木)を間違った寸法で切り落としてしまう。
命をもって償うべきかと絶望する夫に、おかめは「それなら他の柱も全部切り揃えて短くしちゃったらいいじゃん」とアドバイスする。そしておかめの助言は大成功を収め、寺は無事完成。
しかし夫がおかめの元へ帰ると彼女の姿はない。なんとおかめは自害していたのだ。夫が嫁の助言で成功したと世間に知れたら、夫は笑い者になってしまう。それを憂いたおかめは自死を選んだのだった。


マジで? 恥ずかしながらこの逸話を知ったのは今日が初めてだったのだが、え? し、死んだの? うそ? え? なんで?

私なら絶対めちゃくちゃ自慢してしまう。いや5,000歩譲ってその時は男性を立てる風潮があったとしても、自分のアドバイスで旦那が成功したんなら超happyじゃんね。他人に口外しないのは仕方なくとも、多分10年経っても「いやあの寺のやつ、我ながらよくやったと思うんだよね〜!」とか言いながら酒を飲むと思う。

けどおかめは死んだ。しかもおかめの面は夫婦円満のシンボルとされている。マジ? そんなグロい背景があって「夫婦円満」のシンボルにしていいの?

仕事ができる女性に活躍の場が与えられないというのは、ずっと叫ばれている問題だ。私も現在就職活動をしていて、人事担当の社員が「今役員に女性はいないんですが……」と言うたびにあ〜〜〜〜……とやるせない気持ちになる。時代のせいとは言えど、ちょっと悔しくなる。
それの原点がコレだろう。マジで? なんど読んでもありえなさすぎて理解できなさすぎる。ドン引きしてしまう。

しかしこの「ドン引き」から始まるフェミニズム論展開がたくさんあるはずだ。著者のはらだ有彩さんはこの「昔の女の子たち」を引き合いにして、ごくごくフラットな目線から自論を広げている。思わず「それな!」なんて言いたくなってしまうようなリアルなシンパシーがそこにはある。
昔話というファンタジックな世界を通じてこそ見えるリアリティと、喧嘩腰じゃないフラットなフェミニズム。
遠い昔にもしかしたら存在したかもしれない女の子が感じたかもしれない「は?」を、はらださんの軽やかな筆致と共に私も「は?」と言う。ちょうど良い温度感のフェミニズム入門書だった。


最後に、文喫のスタッフさんが「〇〇に生きる」というテーマごとに選書した本セットを買った。
私が選んだのは「丁寧に生きる」本2冊セット。

「のんきに生きる」とも迷ったが、充分のんきに生きることができていると思ったのでランクを一つあげて、「丁寧」に。

入っていたのはこの2冊だった。

  • 石田千「箸もてば」

  • 暮らしの手帖社「すてきなあなたに よりぬき集」

どちらも自分では手に取らないような本で、良かった。早く読みたい。


久々に本を読めて、そしてこうやって読書感想文を書けてよかった。
良い本がまた家に増えた。嬉しい。

また素敵な本と出会いたいな。今度行ったら、次は買うのを諦めたエッセイを買おう。

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