わたしのおすすめミュージカル

おすすめミュージカルということなのでなにか書いてみたいが、その前に以前書いたミュージカルにかんする記事を掲示しておこう。


ミュージカルでなぜひとは突然歌いだすのか


一気呵成に書いた系の即興性の高い記事のわりには完成度も高いような気がしているので、気に入っているが、ここに書いたことは要するに、ミュージカルでひとが突然うたいだすことに、非ミュージカルファンは違和感を抱えるようだが、ある程度同意しつつも、そもそも「言葉とはうたである」のだということだった。
ミュージカルが原則的に芝居を底部に据えて構成されているものであり、その芝居が日常の、現実のコミュニケーションと似たものととらえられがちであるため、ひとは日常を過ごしつつ突如うたいだすということがないので、わたしたちはこれを不思議に感じることになる。しかし、まず①芝居は現実をそのまま舞台のうえに移動させたものではない。一般的には「脚本」がその主体に該当するが、そうでない場合も、お芝居は原則的にモノローグ、ひとりごとに回収されていく。これはバフチンを援用して考えた。それだからこそ、フリージャズやノイジーな「現実」を音楽にしようとするような前衛的試みは成り立ちうる。ただ、これは多少意地悪な見方でもあり、じっさいには、芝居は「現実」になる努力を重ねている。もっと厳密にいえば、それが幻想だということをほんのいっしゅんでも観客が忘れてしまえるよう、工夫がこらされているのだ。だから、わたしたちが芝居を現実と等しいものと考え、現実では「突然歌い出す」ということがないという経験知をもって違和感を表明することは、芝居側の努力が成功していることを示すものかもしれない。とはいえ、じっさいにはその芝居側の努力にコミットしているひとほどこうした違和感からは遠く離れていくので、これもまたあまり意味のある推論とはいえないだろう。
こうして「芝居」が「現実」とは異なるものだということを示したあとで、②芝居のうえで「セリフ」と「うた」は断絶していないということを書いた。これは、宝塚歌劇団月組の元トップスター・龍真咲の「芝居がかった」芝居を引き合いに出して考えた。本来メロディを伴わないものであるはずのラップも、実はキーというものをもっている。背景に流れるトラック、ビートに合わない音程でラップすれば、なんとなく音痴な感じになるのだ。同じようにして、芝居のセリフにもキーがあるのではないか、という仮説である。ここにほどこされる音程は、役者によって傾斜にちがいはあるが、こことうたとの落差が狭いほど、芝居は芝居がかったものになる。要は、龍真咲のようなひとのばあいは、ふだんの芝居のセリフからしてすでにうたっぽいのである。というか、このひとのばあいはふだんがうたに近いぶん、むしろうたがセリフに近いように聴こえてもくるのだ。

そうして、現実ではない舞台を背景に最初からうたとしてセリフがくちにされている以上、そこに断絶はない。これではなしはおわりだが、この記事では折口信夫とルソーを引き合いに出して、そこに③そもそも「言葉」とは「うた」なのだ、ということを付け加えた。くわしくは記事を読んでもらって、もしそうだとすると、むしろいまわたしたちが経験している現実のほうが、年月とともにうたから離れて加工されてしまったものだということになるのだ。

こうして、「ひとが突然うたいだす」ことが不自然でもなんでもないということを屁理屈とともに示したところで、おすすめミュージカルをあげてみる。といっても、ぼくはミュージカル一般にくわしいタイプの観客ではない。というか、ぜんぜんくわしくない。基本は宝塚歌劇であり、その宝塚歌劇にかんしてさえも、きわめてライトな接し方をしている、なんでもない男である。むろん、宝塚以外の芝居やミュージカルをみたことは何度もある。しかし、その9割が、宝塚歌劇団の退団者が主演、もしくは出演しているとかで出かけた感じだ。残りが名作ミュージカルの来日公演とか超話題作とかである。なのでガイドブック的に参考になるものでもないので、あくまで読みものとしてあつかっていただけたらとおもう。

迷ったがけっきょくは「ミー・アンド・マイガール」「エリザベート」「ウエスト・サイド・ストーリー」の3つになりそうだ。ほんとう、なんのおもしろみもないようで申し訳ないが、じっさいにおすすめなのだからしかたない。以下、個人的な経験や読解とともに書いていく。


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