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「叱る」に向き合う~<叱る依存>がとまらない 感想~

パパママで異なる着眼点


正直に申し上げるとこの本は図書館で借りた本です。

読後は買って家に置いておくべき本だと確信しています。そして今は妻が熟読中。

私はブログでまとめる際、↓↓↓のように付箋をして、それを振り返り記事にしています。

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付箋だらけの本を読む妻曰く

全然着眼点が違うねぇ

でした。

親としての目線以外にも、大人としての目線として気づきの多い本だということです。特に私の場合はビジネス上で接する対人関係においても学ぶべき言葉が多く、親目線と上司目線での付箋が多かったのだと思います。

そういう点でもこの本は私の書斎ではなく、リビングに置くべき本、子どもたちが読んでもいい本だと思います。

本ブログはあくまで私の気づきをメモとしています。ですので本書に興味をもって頂いた方は是非手に取ってみてください。このブログだけで「読んだ気」にはならないで頂けると幸いです。


<叱る依存>がじわじわと売れている理由


<叱る依存>の本書は叱るという行為を脳やホルモンのメカニズム、つまりは生体として捉えているところが興味深い。

叱るのがいいとか悪いとかのレベルではない。「生き物の本能」として語られている。こういう目線の本は私の大好物でもあります。

この類の本に近いのは小霜和也さん著の欲しい ほしい ホシイ

もちろん本で書かれていることを参考にするか、異議を唱えるかは個人の自由です。

着眼点の多様性からもこの本がじわじわと売れてきている理由が分かる気がします。タイトルも「●●してはいけない」とか煽っていない、本当に悩んでいる人の手に届けばいいなと。

「叱る」の定義


まず冒頭に私の最初の付箋はこの言葉

発達障害と診断されている人たちは大人も子どもも、「叱られる」ことが非常に多い人たちだということです。それは、すぐ近くに「叱る人」もたくさんいることに他なりません。

発達障がいと「叱る」は切ってもきれない関係です。こどものできないという現実を突きつけれた親がどんな行動を起こすか、それは紛れもない「叱る」という行為なのです。その上で「叱る」のメカニズムを理解することがとても大事。


この本における「叱る」の定義は以下としています

言葉を用いてネガティブな感情体験を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
「叱る」について考えてみると、例えば「怒ってはだめだが、叱るのは必要ない」「怒ると叱るをきちんと区別することが必要」などの説明には、ほとんど意味がないことが浮かび上がってきます。

何事も定義は大事です。定義が曖昧だと議論は進みません。

そしてこの定義が曖昧で議論するからこそ、解決に至らない子育てもビジネスも何事も定義を抑えておくことに時間をかけることが必要。

ほとんど意味がないこと=叱るにこだわっているのだとしたら、それは止めないといけません。


「苦しまなくては人は変わらない」という思い込み



「叱る」には人の学びや成長を促進する力がないこと、それなのに「苦しまなくては人は変わらない(学ばない)」という思い込みが、なぜか人の中に根付いていること。」

特に地獄の猛特訓やガリ勉と言われるような苦しむことを強要することは美談として語られますが、実際はそこに大きな「はき違え」があるようです。


近年の研究では、扁桃体(ネガティブな感情の回路)が過度に活性化するようなストレス状況は、知的な活動と重要だと考えられている脳の部位(前頭前野)の活動を大きく低下させることが確認されています。
学校でとても嫌なことがあったお子さんが、その問題が解決してもう嫌な体験をしないことがわかっていても、なかなか学校に行けない場合があります。これは、一時的な回避手段であったはずの行動がずっと維持されてしまっている状態です。
叱られる側のこの行動(ごめんなさいといって逃げる)は単なる「苦痛からの回避」にすぎません。目の前の苦痛な状態をできるだけ早く終わらせるという目的で、最も効果的な行動をしているにすぎないのです。

委縮は百害あって一利なしと言っても過言ではないでしょう。叱られるというネガティブ体験が叱られた当人にとってトラウマとなり、がんばる勇気や気力さえも奪ってしまうことを覚えておかないといけません。


「叱る」をご褒美と感じてしまう


「叱る」には処罰感情の充足というごほうびが常について回るのです。このことは「叱る」とうまくつきあっているために、絶対に知っておかなくてはいけない知識です。

上の事実は覚えておくべきことです。「叱る」は脳にとって快感と感じてしまう。快感と感じれば叱るという依存に陥ってしまう構造、そういうふうにできているのです。


一度強く叱責し、相手が泣き出してしまうような状況を生み出すと、叱られた側が軽い小言程度でも過敏に反応するようになる現象がこれにあたるでしょう。叱る側からすると「教育」「育成」もしくは「しつけ」がうまくいっていると感じる体験でしょう。
苦痛から解放される快を得る行為という意味で、「叱らずにいられない」依存症の発生メカニズムにとてもよく似ています。

脳が快感と捉える「叱る」と、叱られる側のネガティブ体験として委縮の溝はどんどん大きく深くなっていく。その歯止めがきかない状況が親子、教育、職場で起きてしまっているのではないか。

虐待の定義が拡大して「マルトリートメント(不適切な養育)」と呼ばれ、子どもに与える害や影響を重視するようになっている。なぜこのような方向になっているのでしょうか。一つ確実に言えるのは、大人の不適切な対応が子どもに与える負の影響が、従来考えられていたよりもはるかに大きいとわかってきたということです。


「ネット・ゲーム依存症対策条例」施行結果についても記述があります。これは是非本書を手に取って感じてみてください。

依存症の発生メカニズムを正しく理解していれば、そうでなくても「禁止と罰」に頼った政策について過去の歴史に学ぶ姿勢があれば、この努力が誤った努力であることはすぐにわかったはずです。


自発的な我慢と他者から強要された我慢



ここで間違えてはいけないのは、「我慢する」ことや「苦痛を乗り越える」こと自体が無意味ではなく、他人から強制された我慢や苦痛が問題だということです。なぜなら、目的のために自発的な我慢と、他者から強要された我慢は、まったく別体験だからです。
問題なのは、この「学習性無力感」と呼ばれる状態が、見た目上は「我慢できるようになった」状態に見えてしまうことです。けれど、この二つの心理状態はまったく違います。一方的に与えられる我慢が生み出すのは「諦め」や「無力感」であって、「忍耐力」ではないからです。

なぜ彼(彼女)らは成長することができたのか。

それは我慢や苦しいことを自分事として理解して行動がとれたためです。そこにしか成長はありません。親のエゴ、教える側のおしつけになってはいないかを考えないといけません。


私は<叱る依存>がもたらす社会の影響を広く世に知ってもらい、考えてもらいたくてこの本を書いています。読者のみなさんはどのように考えられるでしょうか?

著者は本書で何度も読者に問いかける言葉を投げかけています。事実である部分と考える部分そこを切り分けて自分たちの頭で考え行動を起こさないといけません。

「過去の自分は我慢できたから」や「他のひとはがんばれている」といった一見説得力のありそうな色眼鏡な視点は排除しなくてはいけません。


冒険モードをオンにするために


苦しみが成長につながるのはそれが他者から与えられたときではなく、報酬回路がオンになる「冒険モード」において、主体的、自律的に苦しみを乗り越える時です。

自ら考え、立ち上がるように仕向ける。親や教育者が集中すべきことはそこかもしれませんね。

処罰欲求が暴走するお決まりのパターンがあります。それは本来個人的な欲求である処罰欲求が、「相手のため」「社会のため」にすり替わってしまう場合です。

「おまえのために言っている」という言葉が思いついたときは、自身が叱る依存に陥っている状態と捉えていいでしょう。これは自分も気が付けなければ!

「叱る」が自然に減っていくために何ができるかを考えることが必要です。もう少し具体的に言うと、成功イメージは「気がついたらあまり叱らなくなっていた」であって、「叱ることを我慢できるようになった」ではないのです。


身近に潜む「叱る」依存


叱るという行為は、叱る人に興奮や快感を与えます。そのため、もう叱らなくてもよい状況であったとしても、叱り続けることがよく起こります。それは子ども相手だけではなく、大人相手の状況(職場の上司・部下やパートナー)においても同じことです。

親として社会人として「叱る」は快感であるという事実を受け止めて行動しなくてはいけません。

自分の快感のために叱っていないか、本来誰のために行動をしているのか。

上司が部下に、教師が生徒に、コーチが選手に期待し、望む未来を描くことはあって当然です。しかしながら「こうあってほしい」という願いが、「こうあるべきだ」にすり変わり「叱る」と結びつく時、それを誰が望んでいるか、という主語が不明確になっていることが多々あります。


「待って尊重」忍耐力をつけるべきなのは何よりも自分であるということ。叱る依存に陥りそうな場合は戦略的撤退!

主体的に学んで欲しいなら、これは自分で決めたことだ、とその人が感じられることが大切です。難しく考える必要はありません。その人が「考えて、決める」ことを待って尊重するだけです。
「叱る」を繰り返してしまうとき、多くの人は余裕をなくして視野が狭くなっています。一度深呼吸して、少し問題と距離を取ってみてください。・・・戦略的撤退です。


最後のあとがきでは著者も自分自身に宛てた手紙だと書いています。臨床心理士である著者も「叱る」については引き続き考えていくべき、人間の大きな課題だと。改めて著者の謙虚な姿勢からも学びがあります。

すべてを書き終えて改めて読み返してみると、この本は自分自身に宛てた戒めの手紙のようなだとも感じます。職場や家庭において「状況を定義する権利」を幾ばくか持っている私にとって、叱る依存は人ごとではなく常に向き合い続けなくてはいけない大きな課題です。


まとめ


以下が私なりのまとめです

・「発達障がい」と叱るの密接な関係
・「苦しまなくては人は変わらない」という思い込み
・「叱る」は処罰感情の充足というごほうび
・自発的な我慢と他者から強要された我慢は天地の差
・「叱る」は我慢ではなく、気づいたら叱らなくなったが理想


最後まで読んで頂きありがとうございました。もし参考になったら「いいね!」やフォローをしてもらえるとうれしいです。次の書くモチベーションにもなりますので。

最後まで読めた方は是非<叱る依存>がとまらないを手にとってください。おそらく私とはまた違う着眼点を見つけられるはずです!


他にも私の読書感想文ありますので良かったら読んでみてください。




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