「知性は死なない 平成の鬱をこえて」與那覇潤著


「知性は死なない 平成の鬱をこえて」與那覇潤著 文春文庫

「知性は死なない」

 これほど力強いメッセージに満ちたタイトルもないだろう。
 歴史学者であり大学准教授であった與那覇潤さんは、まさに「知」そのものを仕事にする人であった。その時にメンタルを病んであらゆる知的活動ができなくなってしまい、休職ののちに退職するまでに至った。そういう辛い経験を乗り越えて書かれたのがこの本である。「知性は死なない」ことをこの本の存在自体が証明している。

 平成という時代に、政治、社会、学問などの分野において、日本は退潮というしかない状況にあったことに触れた上で、與那覇さんはこう記している。

 この本はそういう平成の時代に自我を形成し、ごく短い期間だけ学者(大学准教授)として現実にコミットしようとした私の、挫折と自己反省の手記です。
 私もまた、学問にもとづき自身の望むところを社会で実現したいと願っていましたが、かたちにできたことは、なにもありません。

「まえがき 黄昏がおわるとき 没入ではなく再起動を」より

 大学院を出て、公立大学の准教授として仕事をして、「中国化する日本」という書籍が高く評価されたにも関わらず、與那覇さんが実現したいこと望んだことは果たせなかったという。
 しかしこの本で、與那覇さんは他人にはなし得ないとても大きな仕事をしたと私は思っている。少なくとも私自身が、この本から多くのことを学んだ。それは単に知識を得たというレベルではなく、私自身の人生に大きく影響するものだった。
 それは私だけではない。少なくとも一人、直接「知性は死なない」を読んで救われた、という人に会ったことがある。

メンタルを病むこと

 この本は、與那覇さんがうつを患って入院し、そして回復に至った経験を基に書かれたものである。ただ、タイトルから分かる通り、単なる「うつ闘病記」のような内容ではない。
 メンタルを病むことは、わたしにとっては他人事ではない。與那覇潤さんのように、あらゆる知的活動を失ってしまい、入院に至るまで悪化したことはないが、意識できる限りにおいて、小学校高学年頃からは常にメンタル的に不安定な部分をずっと抱えていると思っている。
 最も辛かった時期は中学3年生のころだった。次には、会社で上司からパワハラされたときだった。
 メンタルが常に安定している人がどれほどいるのかわからないが、多かれ少なかれ、不安定な部分を抱えて生きているのが人間ではないかと思う。
 しかし、世間に転がる情報には紛い物が多い。なんでも情報を検索できるから知識の蓄積は不要だなどという暴論を、国会議員ですら吐いてしまうことが散見されるが、ネット上から有益な情報を取り出すのは容易なことではない。

 これはいわば尊厳のデフレがどん底に達した、あるいは自己評価の「底が抜けてしまった」状態とも言えるでしょう。だからうつ状態の人は、病気の前には絶対に引っかからなかったであろう、陳腐なスピリチュアルや詐欺的なカウンセリング・サービスにも騙されてしまうことがあります。

「Coda2 大学のなかでこれ以上続いてはならないこと
病気からみつけたもの 互酬性の根源へ」より

 必要かつ適切な情報がいつでも簡単に無料で、ワンクリックすれば入手できる訳がないのは当然のことだ。それどころか自分に不利益をもたらす情報にすがりついてしまうことすらある。
 だから、

 2章は発病以降、2年間近いうつ状態を経験した私の観点から、多くの精神病で併発する「うつ」とは具体的にどのような状態なのかについて、まとめたものです。病気になってからにわかに情報を集めても、不正確で誤解をまねくものが多く苦労した体験から、あえて「世間で耳にする誤解をただす」という形式としました。

「はじめに 黄昏がおわるとき 没入ではなく再起動を」より

 本書の第2章だけを、単独でも読むことができる内容になっており、心理学や精神医学の専門知識がなくても理解できる内容になっている。與那覇さんの知性を通して、「うつ」にかんして理解しておくべき内容がわかりやすくまとめられている。
 専門家が書いた書籍や文章は、身内からの批判やツッコミを恐れているからなのか、とにかく一般人にとって理解しづらく、やたらと細かな情報や不要な術語が使われていたりする。そういう情報の中から、與那覇さんのフィルターを通してわかりやすく書かれており、「知性は死なない」の中心となる部分だ。

「雑多」であることの魅力

 しかし、2章の部分だけで終わらないのが本書の魅力だ。
 別の記事で取り扱った「平成史」とは別の意味で、わたしにとってとても大切な本である。
「知性は死なない」は、ある意味で雑多な本である。別のメディアに掲載された文章が追加されている文庫版において、その傾向は顕著である。
 この雑多さが「知性は死なない」の魅力である。
 與那覇さんがメンタルを病んで、仕事を休職して、入院とリハビリを経て、回復していった経験から考えたことを文章にしている。そのため、「うつに対する誤解」についての解説があり、うつに至った経緯が書かれていたり、リハビリに関する記述もある。
 そして「平成史」に通じる歴史語りもある。文庫版には、他のメディアに掲載したエッセイなども収録しているため、その雑多な魅力が増している。
「多様性」という言葉を使ったほうが一般的にはいい印象を与えるのかもしれない。しかしこの言葉は「キラキラ☆ダイバシティ®與那覇潤」のような、強い政治性を帯びたニュアンスが含まれてしまう。
 與那覇潤さんの文章には、ブラックユーモアというか、ある種「毒」があって、それが魅力の一つだ。「中国化する日本」にその傾向が強く、さらに、ゲンロンカフェでのトークでも、息をするように歴史をdisったりして、それが非常にいいアクセントになっている。
 そういう魅力を説明するには「多様性」という言葉は、今という時代にかえってそぐわない。

 多様性ダイバシティの尊重ということが安易に口にされる昨今だが、そうした試みが真に根づくのは、それぞれの人が自分のなかに多様性を飼い、養い、つきあっている場合だけだろう。
 いま起きていることは逆に、多様性の側に立つと自称する人が自らを閉ざし、SNSでも多様性陣営の結束が一枚岩であることを誇り(この時点でなにかおかしい。「一匹狼友の会」みたいな遂行矛盾だ)、オンラインの動画や文章で「俺たちは『正しい考え』を変えないぞ!」と気勢を上げる事態だ。

文庫版あとがきより

 これは「訂正可能性の哲学」にも通じる論点なので改めて考えてみたい。それはともかく、そういう政治的な手垢がついてしまった「多様性」よりも、「種々のものが入り混じっているさま」という意味がある「雑多」という言葉を使っておこうと思う。
 與那覇さんが知性の欠如を体感したのは、歴史学の世界であると同時に、大学という組織内であった。
 しかし、知性の欠如は日本全体、あらゆる組織で見られる。企業、官公庁や地方自治体、学校、あるいは労働組合などでも、日本人が組織を構成し運営するにあたっては、知性よりも権威が圧倒的に力を持っている。権力が権威を帯びて、あるいは権威が権力を振りかざして、組織は硬直化してナチュラルパワハラ体質となる。
 誰か個人がパワハラをしなくても、同調圧力や「空気」で、個人を抑圧する。
 逆に、誰か特定の個人がパワハラをしているのなら責任の所在としては分かりやすい。しかし、同調圧力に関しては、誰も責任を負わない無責任状態になる。「だってそういう空気だったんだもん」ということだけだ。
 同調圧力を加える側にいる人物は、自分が同調しているとは意識しておらず、ましてやそれが他人に圧力を加えているとは露ほども思っていない。
 特に「権威」は「知」を艤装しておりそれが実に厄介なのだ。その権威が一様性を押し付け、「個」を殺す。

それでも「知性は死なない」

 それでもわたしは信じている。知性の力を信じている。
「はじめに」の中で與那覇さんは書いている。

 本書を(中略)ご自身がお持ちの知性を「再起動」するためのきっかけにしてほしいと、強く願っています。
 なぜなら、知性はうつろうかもしれないけれども、病によってすら殺すことはできない。知性は死なないのだから。

「はじめに 黄昏がおわるとき 没入ではなく再起動を」より


 
企業をはじめとした日本社会の中で生きていると、知性を発動するより押し殺しておいたほうが有利なことばかり溢れている。卑近な例で言えば、どう考えても無駄な、あるいはやるほうが損失になるような仕事を、上司から振られて、バカバカしいと思う気持ちを抑えて粛々とやること。上司はそれらしい「意義」をまとわせて仕事を投げてくる…
 もっと本質的な、大切な仕事があるのではないか。
 こういう生き方ではない生き方があるのではないか。
 そういう思いは日々こなすだけの作業の中で、泡と消えてゆく。
 しかし與那覇さんは第6章の最後の方でこう書いている。

 あなたがもし、いまの社会で傷ついていると感じているのなら、それはあなたにいま、知性をはたらかせる最大のチャンスが訪れているのだと、伝えたいと思います。
 (中略)
 「なぜ」という疑問を駆動させるのが、身体的な違和感。そしてその「なぜ」という問いを深め、そんな問いをはじめて聞いた人にも伝わるような説明へとみちびくのが言語による思索です。
 どうか、そのふたつの双方を、大事にしてください。

「6章 病気からみつけた生きかた 社会で傷ついているあなたに」

 わたしは、知性豊かなつながりを他人と持てることはないのかもしれない、自分自身の知性を発動させる機会などないのかもしれないと、半ば諦めていた面があった。しかし、それは単に自分の探し方が悪かった、足りなかっただけだと今はわかっている。

 周囲への信頼がない場所では、じつは「個人」の能力も発揮できない。

「Coda3 リワークと私 ブックトークがあった日々 2015年」

 そうであれば、できることは一つ。

 だから、知性とは旅のしかたであって、行き先のことではありません。
 (中略)
 知性をうしなってその場所にとどまるくらいなら、知性とともに別の場所へ旅に出るほうがずっとよい。

「おわりに 知性とは旅のしかた 大学から遠く離れて」より

 旅路には必ず分岐点がある。分岐点に立ったとき、すこし立ち止まって考えてみればよい
 知性とともに、知性を求め続ける旅を続けるために。

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