見出し画像

「危機のいま古典をよむ」與那覇潤著

 2024年の幕開けにこんなことが起こると誰が予想し得ただろうか? 当然ながら、誰も未来の予測などできない。しかし、あいも変わらずネット上には、全てを見通していたかのような言説が氾濫し、危機感を煽る者や、人々の不安に付け込む者などが後を絶たない。
 人間は簡単に冷静さを失ってしまう生き物である。そのことは、自分自身に対する戒めとしても、改めて考えておきたい。
 そんな状況で読むのにふさわしい本が昨年の11月20日、而立書房から出版された。與那覇潤さんの「危機のいま古典をよむ」である。帯には大きく「希望の読書論!」と書かれている。

忘れること、忘れずにいること

 與那覇さんはあとがきの最後をこのように締めくくっている。

二〇二三年九月 誰もがウィルスも戦争も忘れたかのような秋に 著者記す

「危機のいま古典をよむ」あとがき p238

 年月を入れ替え、その年月以前に関連する出来事やキーワード入れてしまえば、常に同じことが言えてしまう。忘れなければ生きていけないこともある。しかし、忘れてはいけないこともたくさんあり、忘れないこととは、ただ覚えているということではなく、教訓として活かし続けることを意味する。
 1月1日の地震の直後、SNS 上には「3.11の教訓を忘れるな!」というような言説が溢れた。個人レベルとしては命を守るためには当然のことである。危機に直面したときに、取るべき行動は限られている。大切なのは、大きな危機を乗り越えた後、落ち着いた時になにをするかではないだろうか。
「人類が歴史から学んだ唯一のことは『人類は歴史からはなにも学ばない』ということだ」という言葉がある。ヘーゲルの言葉が基になっているらしく、複数のぱパターンがあるようだが、それはあまり重要ではない。恐らく、そういう意味では人間はなにも進歩していないと言えるのだろう。

 結果としてあたかもループもののアニメのように、一定期間ごとに「同じような思想・運動」のブームが反復され、しかしまさに先行する経験を忘却しているがゆえに、挫折しては知性への信頼を損なってゆく。

平成史」序 蒼々たる霧のなかで p.12

「ループもののアニメ」とはまさに、言い得て妙である。
 與那覇さんが「平成史」の中で指摘していたことが、その後も全く状況が変わっていないことを、上に引用した「危機のいま古典をよむ」の締めの言葉が如実に示している。
 そしてまた、日本を大きな地震と津波が襲った。巨大な自然災害に対して、個人や家族などのレベルでできることは決して小さくないが、極めて限定的である。果たして、日本社会全体として、いたずらに危機感を煽るようなことではないことをしてきただろうかと、いま一度考えなおしてみたいと思う

「専門家」任せにせず、自分の頭で読み、考える

「危機のいま古典をよむ」の帯に書かれた言葉である。この本は、與那覇さんが與那覇さん自身の頭で読み、考えたことの記録である。
 更にポイントとなるのは、対談だけをピックアップして収録した第三部が「書物がつなぐ対話」と題されいることである。
 ネット上には「議論」と称した言葉のドッジボールが繰り広げられている。自分の言葉をどれだけ強く相手にぶつけたかが競われており、ぶつけた方が勝ちで、ぶつけられた方は負けて退場する。ドッジボールという同じフィールドで同じルールで行われているならまだしも、単なる言葉のぶつけ合いなので、ある意味では場外乱闘に過ぎないのかもしれない。それをひとかどの「専門家」どうしが繰り広げるのだから…できの悪いループものアニメそのものとしか言えなくなってしまう。 
 そんなものと比較してしまっては申し訳ないが、第三章の「書物がつなぐ対話」は、それぞれがコンパクトながらとても読み応えがある。

 また「危機のいま古典をよむ」の中で少し独特なタッチの、個人的には最も好きな文章がある。

 コロナのおかげで外飲みが趣味になった。
 (中略)
 テイクアウトとお酒を合わせて、晴れた日の公園でのんびり楽しむのである。

「危機のいま古典をよむ」第二部 読書が自分をつくる コロナ禍 酔いどれ天使 p95

 このような穏やかな書き出しに似合わず、與那覇さんの感性は様々な違和感を見逃さない。テイクアウトで何を買い、それを合わせてどんなお酒を選び、そこでなにを見たかを記録しつつ、感じたことをストレートに記述している。

 どうして自分が「なにに共感するか」を、公権力に指示されないといけないのか?

「危機のいま古典をよむ」第二部 読書が自分をつくる コロナ禍 酔いどれ天使 p98

  医療関係者に対する感謝を表明「させられた」一連のできごとに対し、出てきて然るべき疑問の表明だ。しかも、このときの官製イベントの数々は、「なにに共感するか」だけではなく、「どのように共感を表明するか」までがワンセットのなっており、本文中の與那覇さんの指摘通り、「思考が麻痺した」状態の現れに他ならない。
 ところが、與那覇さんは外飲みの楽しみも忘れていない。危機感に煽られたり、不安に苛まれてしまうことがあっても、自分自身を救うのは何かを楽しむことだ。しかもそれは誰をも傷つけない楽しみなのだから。そういう與那覇さんの思いが伝わってくる、そして與那覇さんが、交わした言葉はわずかでも、外飲みで出会った人々と「対話」していることが分かる。

 とある分野の「専門家」として8割おじさんなる人物が登場し、その言説が独り歩きして、我々の行動が極めて強権的に制限された。その中で、思考や共感も同調圧力に晒された。でも、そんなことなんてもう忘れたよという頃に、件の人物が9割おじさんにバージョンアップして再登場した時には流石に呆れた。自分の行動、思考、感情は自分自身のものであり、専門家に指示されるべきものではないことを、この程度の専門家に社会はいとも簡単に振り回されてしまうことを忘れてはいけないだろう。
「ループもののアニメ」のような状態から脱出し、希望を忘れないためにも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?